第5話 優しくされるのが怖い
リゼットが辺境伯領にやってきてから、ひと月が過ぎようとしていた。
彼女が容赦なく指摘した帳簿の問題点と備蓄の見直しは、見事に功を奏した。
無駄な経費は削られ、横領を企んでいた者たちは、証拠を突きつけられた末に容赦なく解雇された。おかげで、領内の財政は少しずつ持ち直し、滞っていた物資の流通も改善されていった。
その結果、最初は『厄介者』としてリゼットを警戒していた使用人や辺境騎士たちの見る目も、少しずつ変わっていった。
そして、その変化は領民たちの暮らしにも表れ始めていた。
一ヶ月前まで、冬を前にして食料や薪の不足を心配していた領民たちも、少しずつ表情を緩めるようになった。
市場では品薄だった食料が並び、薪や生活用品も以前より手に入りやすくなった。
無駄な中間業者を減らしたことで、値段もわずかに下がっている。
「今年の冬は、去年ほど心配しなくてもよさそうだな」
「ああ。倉庫の備蓄も増えているらしいぞ」
そんな声が、領内のあちこちで聞かれるようになった。
リゼット自身は、領民に感謝されようなどとは考えていなかった。
ただ、自分がこの土地で生きていくために、無駄を減らし、必要なものが必要な場所へ届くようにしただけだ。
「リゼット様、いつもありがとうございます。あなた様のおかげで、今年の冬は安心して越せそうです」
「これ、ささやかですが市場で手に入ったハーブです。お部屋でお茶を淹れるときにでも使ってください」
すれ違う人々が、温かい笑みを浮かべて次々に感謝の言葉をかけてくる。
だが、そんな温かな言葉を向けられるたび、リゼットの胸の内には得体の知れないざわめきが広がった。
(……どうせ、私に利用価値があるからでしょう? 私に感謝しているんじゃない。私の機嫌を取っておいたほうが都合がいいだけよ)
王都で身につけた『完璧な淑女』という仮面の下には、いつの間にか『誰も信用しない』という思いが根付いていた。
親に捨てられ、婚約者に裏切られ、可愛がっていた妹にも背を向けられた。周囲の人間も、結局は自分に都合のいい存在としてリゼットを利用していただけだった。
だから、人の優しさの裏にある下心を無意識に探してしまう。
◇
ある日の夕暮れ。執務室で山積みの書類に目を通していたリゼットの机に、一杯の温かいミルクティーがそっと置かれた。
顔を上げると、そこにいたのはアーヴィンだった。無愛想に腕を組み、窓際に凭れている。
「……何のつもり?」
「今日は冷えるぞ。紅茶ではなくミルクティーだ。甘いものを飲め」
「……お気遣いどうも。ですが、私にそこまで親切にするなんて、何か目的でもあるのかしら?」
棘のあるリゼットの言葉に、アーヴィンはわずかに眉をひそめた。
「冷えるから、温かいものを持ってきただけだ。深い意味はない。いちいち裏を疑うな。……君は、相変わらず人を疑いすぎる」
「……当然よ」
リゼットは冷めた笑みを浮かべ、カップを押し返した。
「信じて、期待して、最後には『お前なら理解してくれるだろう』の一言で切り捨てられたもの。もう、誰かを信じるのはこりごりよ」
自分でも驚くほど、声が尖っていた。
けれど、それを引っ込める気にはなれない。これ以上心を踏みにじられたくないからだ。
アーヴィンはしばらく黙ってリゼットを見つめていたが、やがて低い声でポツリと言った。
「……侯爵令嬢にしては、やさぐれすぎているのではないか」
「……っ!」
図星を突かれたようで、リゼットの息が詰まる。
ふと、目の奥が熱くなった気がして、彼女は慌てて視線を書類に落とした。
「うるさいわね。好き好んでこうなったわけじゃないわ」
「王太子に捨てられたこと、そんなに引きずっているのか?」
「違うわよ!」
思わず声を荒らげたリゼットの手から、ペンがポトリと落ちた。
こみ上げてくる怒りを抑えるように、リゼットは両手を強く握りしめた。
「……私はね、婚約を破棄されたこと自体に怒っているわけじゃないの。殿下が別の女性を愛したって、最初から形だけの政略結婚だと思えば、諦めもついたわ」
怒りのあまり、声が震えた。
「ただ『賢い君なら大人しく受け入れてくれる』って、何を言われても、何をされても、黙って受け入れる女だと思われて……それが、たまらなく嫌だったのよ」
人形のように扱われ、傷つくことさえ許されなかった。
あの日のことが、鮮明に蘇ってくる。
言い終えると、リゼットは両手で顔を覆い、小さく息を吐き出した。そして顔を上げたときには、もういつもの凛とした表情に戻っていた。
「みっともないわね。こんな姿、あなたに見せるべきではなかったのに」
「……別に、みっともなくはないだろう。俺には、お前の気持ちがわかる」
「っ! ちょっと、あなた! お前って……失礼ではなくて?」
思わず声を上げたリゼットに、アーヴィンは小さく笑った。
しばらくして、二人の間に穏やかな沈黙が流れた。
その静けさの中で、リゼットはふと思い出した。
(……そういえば、アーヴィン様には幼馴染の子爵令嬢がいるのだったわね)
以前、使用人たちがそんな話をしているのを耳にしたことがある。
幼い頃から親しい女性で、彼女自身もアーヴィンを慕っているらしい。
(……私には関係のないことよ)
そう自分に言い聞かせるように、リゼットは静かに視線を落とした。
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