忘れられた母
宿舎の中から音が消えた。
咳も、桶の水音も、戸口の向こうで続いていたはずの足音も、ほんの数拍だけ遠のいたように感じた。実際には誰も止まっていない。ただ、寝台のまわりにいた者たちが一斉に息を呑んだせいで、空気だけが薄く張りつめた。
ハンナはすぐに返事をしなかった。
できなかったのだろう。口が開いたまま、指先だけが震えている。荒れた手の甲に、祈祷灯の火が頼りなく映った。
「母さんよ」
もう一度言った声は、さきほどより小さかった。
言い聞かせるためではない。崩れかけた何かを、自分の耳でつなぎ止めるための声だった。
トーマは布を顎まで引き寄せた。
「知らない」
掠れた一言だったのに、寝台のそばにいた大人たちが揃って肩をこわばらせた。
ハンナが一歩近づく。
「トーマ、熱で分からなくなってるだけ。ほら、母さんよ。朝までずっと、あんたの手を」
「来ないで」
今度ははっきりしていた。
痩せた肩が強ばり、目元が怯えで引きつっている。その顔は高熱にうなされる子どものものではなく、知らない家へ連れてこられた子どものものに近かった。
ミレイはハンナの袖口へそっと触れた。
「少しだけ、距離を置いてください」
「でも」
「今は、無理に近づかない方がいいです」
ハンナは振り向いた。泣く前の顔ではなかった。泣くことさえ遅れた人の顔だった。
「助かったんですよね」
問いではなく、確認だった。
祈りのあとに残るはずの救いを、言葉の形だけでも手元へ戻したいのだと分かる。
「呼吸は戻っています。肺の濁りも、さっきより下がっています」
ミレイは慎重に言葉を選んだ。
助かった。そこに嘘はない。
けれど、元に戻ったとは言えない。
ハンナの喉がひくりと動いた。
「じゃあ、どうして」
その先は続かなかった。
続けてしまえば、祈祷そのものを疑う言葉になる。助けてもらった直後に口にするには、あまりにも重い。
宿舎の入口で誰かが小さく咳払いをした。
振り向くと、灰色の短衣に白布を巻いた補助神官が立っていた。年は四十前後、痩せた頬に疲れより先に苛立ちが出る顔つきだった。昼に寝台の数を数えていた男だと、ミレイは思い出した。
「施療直後の混乱でしょう」
男は寝台へ近づきながら、場を収める声で言った。
「高熱が長引いた患者には、覚え違いや取り乱しが出ることがあります。珍しいことではありません」
珍しいことではない。
その言い回しを、ミレイは何度も聞いてきた。
「どれくらい続きますか」
ミレイが問うと、男は一瞬だけ眉を寄せた。
「個人差があります」
「記録は」
「必要なら施療録へ付記します」
必要なら。
曖昧にして流すための言葉にしか聞こえなかった。
ハンナは補助神官とミレイを交互に見ていた。信じたい相手と、信じていいのか分からない相手のあいだで、視線が落ち着き先を失っている。
「治るんですか」
今度の問いは補助神官へ向いていた。
男は咳払いをしてから、穏やかな顔を作った。
「神の光は、まず命をつなぎます。細かな揺れは、安静にしていれば落ち着くことも多い」
ことも多い。
断言を避けるその響きに、ハンナの肩がさらに沈む。
ミレイはトーマの寝台脇に膝をつき、目線を低くした。
「トーマ」
少年の目がこちらを向く。怯えは残っているが、拒絶はハンナへ向けた時ほど強くない。
「名前は分かりますか」
「……トーマ」
「ここはどこですか」
「寝るとこ」
神殿宿舎という認識ではない。けれど空間は分かる。熱で意識が飛んでいるわけでも、言葉が壊れているわけでもない。
「あの人は」
ミレイが問う前に、トーマの視線がまたハンナへ向いた。
細い指が布を強く握る。
「知らない」
同じ答えだった。
母だけが抜けている。
ミレイは立ち上がった。
その動きに合わせて視界の端が少し揺れたが、今は気にしなかった。
補助神官はもう話を切り上げたいらしく、寝台脇の板へ何かを書きつけ始めている。
「施療後混乱、経過観察」
板に走った墨を見て、ミレイは言った。
「家族認識の異常と書いてください」
男の手が止まる。
「そこまで断定する必要はありません」
「現に母親を認識できていません」
「患者本人の疲弊もあります」
「だからこそ、起きたことを曖昧に残さないでください」
声を荒げたわけではない。
それでも、男は露骨に顔をしかめた。現場の手間を増やす厄介な聖女を見る目だった。
「今は重症者が多いのです。書き方にこだわっている場合では」
「書き方で消えることがあります」
男は返事をしなかった。
代わりに、板の端へ小さな文字を足した。家族認識難。濁した書き方だったが、何もないよりはましだ。
ミレイはその文字を目で確かめてから、ハンナを宿舎の隅へ連れた。
人の出入りが少ない壁際には、使い終えた桶と替え布の籠が寄せられている。そこでも十分に人目はあるが、寝台の真横で話すよりはましだった。
ハンナは歩くあいだも、何度も振り返った。
「あの子、戻りますか」
「今すぐは分かりません」
ミレイは誤魔化さなかった。
「ただ、熱そのものとは切り分けて見ます。今夜の様子も、明日の反応も、私が確認します」
ハンナの目に、感謝に似たものが一瞬浮かんだ。すぐに、それ以上の恐怖が飲み込んだ。
「助かったのに、こんなことを言うのは駄目だって分かってます」
手が胸元で強く組まれる。
「でも、あの子に忘れられるなら、何を喜べばいいのか分からない」
その言葉は、祈りよりよほど正しかった。
助かったのだから黙って喜べ。そう命じるのは簡単だ。けれど喜びきれない痛みを黙らせたところで、支払いが消えるわけではない。
「駄目ではありません」
ミレイはきっぱり言った。
「起きたことをそのまま言ってください。それをなかったことにしないために、私はここにいます」
ハンナは唇を噛み、ゆっくりとうなずいた。
その時、宿舎の入口側でざわめきが上がった。
「待って、じいさん」
「まだ外は寒い」
低い叱声と、何かが倒れる音。
ミレイが振り向くと、戸口近くで老人が床へ膝をついていた。肩を貸そうとした若者の手を振り払い、荒い息で周囲を見回している。
「家へ帰る」
白く濁った髭に、息が細く絡んだ。
「おれの家はどっちだ」
若者が困りきった顔でミレイを見る。
「この人、さっき祈ってもらったばかりで。熱は下がったんですが、急に嫁の顔が分からないって騒いで」
戸口の外には、腰を曲げた女が青ざめて立っていた。嫁なのだろう。前へ出たいのに、近づけばまた拒まれると分かっていて足が止まっている。
補助神官が舌打ちを噛み殺すようにして歩み寄った。
「だから言ったでしょう。施療のあとには混乱が」
一件ではない。
宿舎の空気が、その事実をはっきり突きつけてきた。
ミレイは老人の脈を取りながら、胸の奥の冷えが別の形へ変わるのを感じた。ただ恐ろしいだけではない。数えられるという感覚が戻ってくる。
一人。今ので二人。
偶然と呼ぶには、もう足りない。
「ユナさん」
呼ぶと、炊き出し場から戻ったばかりのユナが、すぐに人の隙間を抜けてきた。
額には汗が浮いている。袖には薄い粥の跡がついていた。
「何ですか」
ミレイは老人とトーマの寝台を視線で示した。
ユナの目が、ほんのわずかに暗くなる。
「……やっぱり」
その小さな声を、ミレイは聞き逃さなかった。
「前にも、あったんですね」
ユナはすぐには答えず、宿舎の中を見回した。補助神官は老人の家族を下がらせようとしている。ハンナはトーマの寝台のそばで、触れたい手を握りしめたまま立っている。
誰もが忙しい。だから、見なかったことにしやすい。
ユナは口元を引き結んだ。
「夜、水を運び終えたら話します」
「今では」
「今ここで言うと、また混乱扱いで終わります」
疲れているはずなのに、その声は妙に冴えていた。
見てきた者の声だった。
「前の施療でも、似たようなことがあったんです」
ユナはそれだけ言うと、すぐ老人の嫁の方へ向かった。
泣き崩れる暇もない人間の歩き方だった。
ミレイはその背中を見送った。
夜になれば聞ける。村で何が繰り返されてきたのか。誰が忘れ、誰が忘れられ、誰の苦労が最初に削られたのか。
宿舎の窓の外では、春の終わりの光がもう薄い。
救いを待つ列は、まだ途切れていなかった。
けれどミレイの目には、並んでいる人数とは別の数が増え始めていた。
助かった者の数ではない。
救われたあとで、何かを失った者の数だった。




