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監査聖女は記憶税を払わない 〜人を救うたびに記憶が消えるので、神殿の奇跡を監査します〜  作者: セルヴォア


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4/5

忘れられた母

宿舎の中から音が消えた。


咳も、桶の水音も、戸口の向こうで続いていたはずの足音も、ほんの数拍だけ遠のいたように感じた。実際には誰も止まっていない。ただ、寝台のまわりにいた者たちが一斉に息を呑んだせいで、空気だけが薄く張りつめた。


ハンナはすぐに返事をしなかった。


できなかったのだろう。口が開いたまま、指先だけが震えている。荒れた手の甲に、祈祷灯の火が頼りなく映った。


「母さんよ」


もう一度言った声は、さきほどより小さかった。


言い聞かせるためではない。崩れかけた何かを、自分の耳でつなぎ止めるための声だった。


トーマは布を顎まで引き寄せた。


「知らない」


掠れた一言だったのに、寝台のそばにいた大人たちが揃って肩をこわばらせた。


ハンナが一歩近づく。


「トーマ、熱で分からなくなってるだけ。ほら、母さんよ。朝までずっと、あんたの手を」


「来ないで」


今度ははっきりしていた。


痩せた肩が強ばり、目元が怯えで引きつっている。その顔は高熱にうなされる子どものものではなく、知らない家へ連れてこられた子どものものに近かった。


ミレイはハンナの袖口へそっと触れた。


「少しだけ、距離を置いてください」


「でも」


「今は、無理に近づかない方がいいです」


ハンナは振り向いた。泣く前の顔ではなかった。泣くことさえ遅れた人の顔だった。


「助かったんですよね」


問いではなく、確認だった。


祈りのあとに残るはずの救いを、言葉の形だけでも手元へ戻したいのだと分かる。


「呼吸は戻っています。肺の濁りも、さっきより下がっています」


ミレイは慎重に言葉を選んだ。


助かった。そこに嘘はない。


けれど、元に戻ったとは言えない。


ハンナの喉がひくりと動いた。


「じゃあ、どうして」


その先は続かなかった。


続けてしまえば、祈祷そのものを疑う言葉になる。助けてもらった直後に口にするには、あまりにも重い。


宿舎の入口で誰かが小さく咳払いをした。


振り向くと、灰色の短衣に白布を巻いた補助神官が立っていた。年は四十前後、痩せた頬に疲れより先に苛立ちが出る顔つきだった。昼に寝台の数を数えていた男だと、ミレイは思い出した。


「施療直後の混乱でしょう」


男は寝台へ近づきながら、場を収める声で言った。


「高熱が長引いた患者には、覚え違いや取り乱しが出ることがあります。珍しいことではありません」


珍しいことではない。


その言い回しを、ミレイは何度も聞いてきた。


「どれくらい続きますか」


ミレイが問うと、男は一瞬だけ眉を寄せた。


「個人差があります」


「記録は」


「必要なら施療録へ付記します」


必要なら。


曖昧にして流すための言葉にしか聞こえなかった。


ハンナは補助神官とミレイを交互に見ていた。信じたい相手と、信じていいのか分からない相手のあいだで、視線が落ち着き先を失っている。


「治るんですか」


今度の問いは補助神官へ向いていた。


男は咳払いをしてから、穏やかな顔を作った。


「神の光は、まず命をつなぎます。細かな揺れは、安静にしていれば落ち着くことも多い」


ことも多い。


断言を避けるその響きに、ハンナの肩がさらに沈む。


ミレイはトーマの寝台脇に膝をつき、目線を低くした。


「トーマ」


少年の目がこちらを向く。怯えは残っているが、拒絶はハンナへ向けた時ほど強くない。


「名前は分かりますか」


「……トーマ」


「ここはどこですか」


「寝るとこ」


神殿宿舎という認識ではない。けれど空間は分かる。熱で意識が飛んでいるわけでも、言葉が壊れているわけでもない。


「あの人は」


ミレイが問う前に、トーマの視線がまたハンナへ向いた。


細い指が布を強く握る。


「知らない」


同じ答えだった。


母だけが抜けている。


ミレイは立ち上がった。


その動きに合わせて視界の端が少し揺れたが、今は気にしなかった。


補助神官はもう話を切り上げたいらしく、寝台脇の板へ何かを書きつけ始めている。


「施療後混乱、経過観察」


板に走った墨を見て、ミレイは言った。


「家族認識の異常と書いてください」


男の手が止まる。


「そこまで断定する必要はありません」


「現に母親を認識できていません」


「患者本人の疲弊もあります」


「だからこそ、起きたことを曖昧に残さないでください」


声を荒げたわけではない。


それでも、男は露骨に顔をしかめた。現場の手間を増やす厄介な聖女を見る目だった。


「今は重症者が多いのです。書き方にこだわっている場合では」


「書き方で消えることがあります」


男は返事をしなかった。


代わりに、板の端へ小さな文字を足した。家族認識難。濁した書き方だったが、何もないよりはましだ。


ミレイはその文字を目で確かめてから、ハンナを宿舎の隅へ連れた。


人の出入りが少ない壁際には、使い終えた桶と替え布の籠が寄せられている。そこでも十分に人目はあるが、寝台の真横で話すよりはましだった。


ハンナは歩くあいだも、何度も振り返った。


「あの子、戻りますか」


「今すぐは分かりません」


ミレイは誤魔化さなかった。


「ただ、熱そのものとは切り分けて見ます。今夜の様子も、明日の反応も、私が確認します」


ハンナの目に、感謝に似たものが一瞬浮かんだ。すぐに、それ以上の恐怖が飲み込んだ。


「助かったのに、こんなことを言うのは駄目だって分かってます」


手が胸元で強く組まれる。


「でも、あの子に忘れられるなら、何を喜べばいいのか分からない」


その言葉は、祈りよりよほど正しかった。


助かったのだから黙って喜べ。そう命じるのは簡単だ。けれど喜びきれない痛みを黙らせたところで、支払いが消えるわけではない。


「駄目ではありません」


ミレイはきっぱり言った。


「起きたことをそのまま言ってください。それをなかったことにしないために、私はここにいます」


ハンナは唇を噛み、ゆっくりとうなずいた。


その時、宿舎の入口側でざわめきが上がった。


「待って、じいさん」

「まだ外は寒い」


低い叱声と、何かが倒れる音。


ミレイが振り向くと、戸口近くで老人が床へ膝をついていた。肩を貸そうとした若者の手を振り払い、荒い息で周囲を見回している。


「家へ帰る」


白く濁った髭に、息が細く絡んだ。


「おれの家はどっちだ」


若者が困りきった顔でミレイを見る。


「この人、さっき祈ってもらったばかりで。熱は下がったんですが、急に嫁の顔が分からないって騒いで」


戸口の外には、腰を曲げた女が青ざめて立っていた。嫁なのだろう。前へ出たいのに、近づけばまた拒まれると分かっていて足が止まっている。


補助神官が舌打ちを噛み殺すようにして歩み寄った。


「だから言ったでしょう。施療のあとには混乱が」


一件ではない。


宿舎の空気が、その事実をはっきり突きつけてきた。


ミレイは老人の脈を取りながら、胸の奥の冷えが別の形へ変わるのを感じた。ただ恐ろしいだけではない。数えられるという感覚が戻ってくる。


一人。今ので二人。


偶然と呼ぶには、もう足りない。


「ユナさん」


呼ぶと、炊き出し場から戻ったばかりのユナが、すぐに人の隙間を抜けてきた。


額には汗が浮いている。袖には薄い粥の跡がついていた。


「何ですか」


ミレイは老人とトーマの寝台を視線で示した。


ユナの目が、ほんのわずかに暗くなる。


「……やっぱり」


その小さな声を、ミレイは聞き逃さなかった。


「前にも、あったんですね」


ユナはすぐには答えず、宿舎の中を見回した。補助神官は老人の家族を下がらせようとしている。ハンナはトーマの寝台のそばで、触れたい手を握りしめたまま立っている。


誰もが忙しい。だから、見なかったことにしやすい。


ユナは口元を引き結んだ。


「夜、水を運び終えたら話します」


「今では」


「今ここで言うと、また混乱扱いで終わります」


疲れているはずなのに、その声は妙に冴えていた。


見てきた者の声だった。


「前の施療でも、似たようなことがあったんです」


ユナはそれだけ言うと、すぐ老人の嫁の方へ向かった。


泣き崩れる暇もない人間の歩き方だった。


ミレイはその背中を見送った。


夜になれば聞ける。村で何が繰り返されてきたのか。誰が忘れ、誰が忘れられ、誰の苦労が最初に削られたのか。


宿舎の窓の外では、春の終わりの光がもう薄い。


救いを待つ列は、まだ途切れていなかった。


けれどミレイの目には、並んでいる人数とは別の数が増え始めていた。


助かった者の数ではない。


救われたあとで、何かを失った者の数だった。

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