美談の裏側
夜の炊き出しが終わる頃には、村の広場から湯気より先に疲労が立ちのぼっていた。
大鍋の底をさらう杓子の音が、空になった器の触れ合う音と混じる。昼には押し合うように伸びていた列も、今は壁にもたれて座り込む者が目立った。食べ終えた者から順に帰ったのではない。帰る力が残っている者から消えていっただけだと、ミレイには分かる。
祈祷灯を吊るした仮机のそばで、ユナは最後の器を洗っていた。
手首まで灰水に浸かった指は赤く荒れている。昼から何度も人に声をかけ、鍋を運び、水を配り、泣く子をあやし、寝台の布を替えてきたはずなのに、その動きはまだ止まらない。
「もう十分です」
ミレイが桶を受け取ろうとすると、ユナは反射のように首を振った。
「聖女様に洗い物をさせるわけにいきません」
「今はそういう順番の話をしていません」
少し強めに言うと、ユナはようやく手を止めた。
灯りの下で見ると、頬の影が昼より深い。目の下には、寝不足だけでは足りない色が溜まっていた。
「話すと言っていました」
ユナは桶の縁へ手を置いたまま、広場の奥を見た。
村の宿舎を背にした小屋の脇で、男が二人、明日の薪を割っている。宿舎の戸口には補助神官の影も見える。聞く気がなくても、耳に入る距離だった。
「ここではだめです」
「どこなら」
「村長の家です。恩恵台帳がそこにあります」
ミレイは聞き返さなかった。
村に配られた神殿の公表帳簿なら、今夜見るべきものだった。
ユナは洗い終えた器を伏せると、濡れた手を前掛けで拭った。
「オルド村長は、きっと嫌がります」
「それでも見ます」
「……そう言うと思ってました」
苦笑に近い息が漏れたが、安心した顔ではなかった。嫌な予感が当たってしまった人の顔だった。
村長の家は広場から少し離れた北側にあった。
他の家と同じ木壁でも、戸板の補修が行き届いている。貧しい村の中ではまだましな造りだが、裕福と呼べるほどではない。玄関先には使い古した長靴が二足、壁際には干しかけの縄束、戸口脇には寄進箱からこぼれたような蝋の匂いが残っていた。
ユナが戸を叩くと、中で椅子の軋む音がした。
「誰だ」
「ユナです。聖女様も一緒です」
返事までに、間があった。
そのわずかな時間で、戸の向こうにいる相手が何を計算したのかが透けて見える。断れば角が立つ。入れれば何かを見られる。どちらにしても損だと分かっている沈黙だった。
やがて戸が半分だけ開く。
現れた村長オルドは、肩幅のある男だった。五十を過ぎているだろうが、畑仕事の癖がまだ体に残っている。だがその目は、力より先に疲れを覚えていた。
「この時間に何の用ですかな」
「恩恵台帳を見せてください」
ミレイがすぐに言うと、オルドの目がわずかに細くなった。
「今夜はもう遅い。神殿への報告なら明日でも」
「神殿への報告ではありません。村で何が起きているか、村の記録で確かめたいだけです」
オルドは戸板に手をかけたまま、ユナを見た。
責めるわけではない。だが、どうして連れてきたのだと問いかける目だった。
ユナは視線を逸らさなかった。
「見せた方がいいです」
「お前は軽く言う」
「軽くは言ってません」
短いやり取りだったが、そこで力関係が見えた。
オルドは村を預かる立場にいる。だが、現場を回しているのはユナの方だ。だからこそ、言い返された時の黙り方に慣れていない。
「神殿に逆らえば、次はどうなる」
戸口の狭い隙間から、オルドは低く言った。
「今年だけ耐えれば済む話ではないんだ。灰熱はまた来る。飢えもまた来る。その時に、ここは救済の後回しにされる」
恐れているのは自分の立場ではない。
村全体が見捨てられることだと分かる声音だった。だから厄介だった。卑怯より先に責任感が混じっている。
「起きたことを黙っていれば、次も同じ形で払わされます」
ミレイは戸の向こうの男を見た。
「しかも、誰が払ったか分からないままで」
オルドの喉が動く。
村長の視線が、一度だけミレイの袖の刺繍へ落ちた。聖女であることへの期待と、神殿側の人間であることへの警戒が、同じ場所に向いている。
「助かった者もいる」
「ええ」
「助からなかったら、今ごろもっと死んでいた」
「それも否定しません」
ミレイは一歩も引かずに答えた。
「だからこそ、助かった話だけを残して、失われたものを隠してはいけないんです」
戸口の内側で、誰かが小さく息を呑んだ。家族だろうか。姿は見えないが、耳を澄ませている気配がある。
オルドはしばらく動かなかった。
やがて諦めたように戸を開くと、二人を家の中へ通した。
居間の卓には、まだ手をつけていない黒パンと冷めた汁椀が置かれていた。
壁際の棚には書類束と秤、乾燥豆の袋、寄進受領の印が入った木箱。生活と記録が同じ場所に押し込まれている。地方の村長らしい部屋だった。
オルドは棚の下段から、革紐で綴じた薄い帳面を取り出した。
「これだ」
差し出された帳面の表紙には、金ではなく黒でこう書かれていた。
恩恵台帳 アシュベル村施療記録
ミレイは卓へ置いて頁を開いた。
文字は神殿書記の手で整えられている。村の手控えではない。中央提出用の写しを、見せるためだけに回してきたものらしい。
春先施療、対象二十三名。
重症者救命、十八名。
流行抑止、進行中。
村民協力、良好。
特記事項なし。
特記事項なし。
その四文字が、灯りの下で不自然に澄んで見えた。
宿舎で母を知らないと言ったトーマも、家を忘れて戸口で崩れた老人も、この帳面のどこにもいない。
「大成功の救済例として、王都へ回ったそうです」
ユナの声は乾いていた。
「去年の施療のあと、神殿から使いが来て、この台帳を見せられました。村が持ち直した証だから大事に保管しろって」
「その時、異変はもう出ていましたか」
オルドが答える前に、ユナがうなずいた。
「出てました」
彼女は指を折るように、静かに名を挙げた。
「鍛冶屋のベラムさんは、娘さんの婚約の話だけ抜けました。粉挽き小屋のリダ婆さんは、死んだ息子さんの顔を思い出せなくなった。川向こうのイェス家の下の子は、姉にだけ怯えるようになった」
一つひとつが短い。
短いのに、暮らしの形が壊れていく音がした。
「記録は」
「ありません」
今度はオルドが答えた。
「村から言いに行った。だが、施療後の混乱として様子を見るようにと言われた。名を書き残すほどのことではないと」
「誰に」
オルドは口を閉ざした。
名を出せば、相手は神殿の誰かになる。そこを越える覚悟までは、まだ決まっていないのだろう。
ミレイは台帳を閉じずに、頁の端へ指を置いた。
「この帳面は、助かった人数だけで正しさを証明しようとしています」
「間違っているとでも」
オルドの声は強かったが、怒鳴り声ではなかった。自分を守るためではなく、いままで縋ってきたものを否定されたくない人間の声だった。
「救われたのは事実です」
ミレイは視線を上げた。
「でも、救われたことと、何も失っていないことは同じではありません」
居間が静まり返る。
外では風が戸板を鳴らしているのに、この部屋の空気だけが止まっていた。
オルドは卓へ拳をつかず、代わりに椅子の背を握った。
「村は余裕がない」
絞り出すような声だった。
「誰かが少し変わったとしても、畑を起こす人手が足りるなら、子どもが生き残るなら、それで良しとするしかない時もある」
ユナが息を吸った。
言い返す前に飲み込んだのが分かった。
だからミレイが先に口を開く。
「その少しを、いつも弱い方へ押しているなら、それは仕方ないでは済みません」
オルドは返せなかった。
ユナは伏せていた目を上げた。疲れ切っているのに、そこだけは妙に冴えている。
「誰が変わったか、私は覚えてます」
彼女は台帳の横へ、濡れ残った手を置いた。
「帳面にはなくても、家の空気で分かるんです。誰が呼ばれなくなったか。誰の手間だけが当たり前になったか。誰がいてもいないみたいに扱われ始めたか」
村長の妻らしい女が、奥の間の入口でそっと口元を押さえた。
オルドは振り返らない。
ユナももう止まらなかった。
「助かったあとで様子が変わった人は、何人もいます。でも、本当に怖いのは、変わった本人より先に、そのまわりの方なんです」
ミレイは黙って聞いた。
ここで急かせば、証言ではなく慰めになってしまう。
「忘れられた側は、自分が何を失ったか言えます。母親なら、子どもに知らない顔をされたって言える。嫁なら、帰る家を忘れたって訴えられる」
ユナは一度だけ唇を湿らせた。
「でも、もっと小さい違和感は、誰も覚えてくれません」
灯りの火が揺れた。
「誰も覚えてくれないけど」
その前置きは、吐き出すというより、許可を求める形に近かった。
「前の施療のあとから、私が何をしていたか、家の人たちがうまく思い出せなくなったんです」
オルドが顔を上げる。
初めて聞く話ではないはずなのに、止め方が分からない表情だった。
「炊き出しの順番を決めたことも、薬草を干したことも、夜に看病へ回ったことも、頼めばやってくれる人だった、くらいにしか残っていない」
ユナの声は低く、ひどく静かだった。
「誰も悪い顔はしません。感謝もするんです。でも、その感謝が、何に向いているのか薄いんです。私じゃなくて、都合よくそこにいた誰かに向いてるみたいに」
ミレイは胸の奥で、昼から感じていた違和感の形が少し変わるのを覚えた。
母を忘れる。
家を忘れる。
そして、支えてきた人の働きが、誰のものでもない曖昧な善意へ崩される。
「だから、次の施療が来るたびに怖くなるんです」
ユナはそう言って、初めて目を伏せた。
「死なれたくない。でも、助かったあとで、また誰かの暮らしが薄くなるなら、何を祈ればいいのか分からない」
その言葉のあと、誰もすぐには動けなかった。
恩恵台帳は卓の上で閉じられないまま、正しさの顔だけを見せている。
ミレイはゆっくりと頁をなぞった。
この帳面は、救済を数えている。
けれど、支払いを数えていない。
だから美談だけが残る。
「この名前を、私の記録に移します」
ミレイは顔を上げた。
「助かった人の数だけではなく、助かったあとに失われたものも、同じ列に並べます」
オルドは何も言わなかった。
拒まない代わりに、責任も引き受けきれない沈黙だった。
ユナはかすかにうなずいたが、安堵したわけではない。
ようやく誰かに言えただけで、失ったものが戻るわけではないからだ。
それでも、ミレイには十分だった。
帳面の方が人間より先に正しさを主張しているのなら、帳面の形を壊すしかない。
村長の家を出ると、夜気は思ったより冷たかった。
広場の方では、まだ誰かが咳をしている。宿舎の窓には灯りが残り、明日の祈祷を待つ者の影が揺れていた。
ミレイは外套の合わせを押さえた。
助ける手を止めるわけにはいかない。
だが、助けた記録だけを積み上げることも、もうできない。
背後で戸が閉まる音を聞きながら、彼女はユナの最後の言葉を反芻した。
誰も覚えてくれないけど。
その小さな前置きの中に、この村で消されてきたものの重さが詰まっていた。




