奇跡のあと
施療が終わった時には、窓の外がすでに藍色へ沈みかけていた。
ミレイの指先から熱が抜けていく。代わりに、骨の中へ細い氷を流し込まれるような冷えが残る。銀糸を握っていた掌はこわばり、開くたびにわずかな痛みが走った。
けれど、寝台の上のトーマは呼吸を取り戻していた。
浅く速かった息が、今はまだ不安定ながらも一定の間隔を保っている。胸の奥で絡んでいた音も薄くなっていた。完全ではない。それでも、夜明けまで持つかどうかという崖からは引き戻せている。
ハンナは両手で口元を押さえ、泣き声をこぼさないように肩を震わせていた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
その言葉が重く感じる日がある。
助けた事実を疑うつもりはない。目の前で呼吸を失いかけていた子が、今は眠れるだけの息をしている。それだけで、祈祷に意味があったことは確かだ。
それでも、意味がひとつで終わらないと知ってしまってから、感謝はときどき別の重さを連れてくる。
「水を少しずつ飲ませてください。咳が戻るようなら、すぐ呼んで」
ハンナは何度もうなずいた。
ミレイが立ち上がると、視界がわずかに傾いた。寝台の柱へ指をかけて持ち直す。
「大丈夫ですか」
入口に立っていたユナが、すぐに気づいて声を落とした。
「少し座れば戻ります」
「座ってください。倒れられる方が困ります」
言い方はきついのに、ユナはすでに椅子を引いていた。炊き出しの湯気と汗の匂いをまとったまま、次に必要なものを迷わず出してくる手つきに無駄がない。
ミレイは礼を言って腰を下ろした。
宿舎の中を見回す。寝台の間を歩く者の足取りは、昼より少しだけ軽い。広場で泣いていた女が、今は子どもの額を拭いている。祈祷が届いた場所は、たしかにある。
だからこそ、届かなかった場所が浮く。
「前の施療のあとも、こうでしたか」
ユナは水差しを持ったまま、目だけをこちらへ向けた。
「こう、というのは」
「助かったあとで、様子が変わる人がいたと」
すぐには返事がない。
宿舎の奥で、誰かが咳き込んだ。桶に落ちる水の音が、やけに大きく聞こえる。
「いました」
ユナは短く言った。
「でも、死にかけていた人が助かったあとです。最初は、気が抜けたんだと思いました」
「最初は」
「その子は、お父さんの声を聞いても泣かなくなりました。前は、戸口が鳴っただけで走っていったのに」
水差しを置く手が、少しだけ止まる。
「別の人は、亡くなった奥さんのことだけ、急に話さなくなりました。悲しんでいないみたいに見えて、村の皆で責めたこともあります」
責めたあとで、本当に忘れていたのだと気づいたのだろう。
ミレイは何も言わずに続きを待った。
「でも、そういうのは言いにくいんです」
ユナがかすかに笑った。笑いというより、疲れが口元に形を取っただけのものだった。
「助けてもらったのに、文句みたいでしょう」
その言葉に、ミレイは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
文句ではない。
支払いの話だ。
けれど、この村にはまだ、その言い換えを持つ人がいない。
寝台の向こうでハンナが、そっと息を呑む気配がした。
ミレイは振り向いた。
トーマがまぶたを震わせ、ゆっくり目を開いている。
ハンナは寝台へ身を乗り出した。
「トーマ。分かる? 母さんよ」
震えた声だった。願いが多すぎて、名前の方が細く聞こえるほどに。
トーマの視線は、最初ぼんやりと天井をさまよった。
それから、ハンナの顔で止まる。
一瞬だけ、ミレイは胸を撫で下ろしかけた。
次の瞬間、トーマの喉から細い息が漏れた。
「……やだ」
ハンナの手が止まる。
「トーマ?」
子どもの肩が小さく震えた。熱の名残ではない。怯えた時の、身を引くような震え方だ。
「来ないで」
掠れた声でそう言って、トーマは布を胸元まで引き寄せた。力のない動きなのに、拒絶だけははっきり伝わる。
ハンナの顔から、色が引いていく。
「母さんよ」
言い直す声は、ほとんど祈りだった。
だがトーマは首を振った。
知らないものを見る目だった。
憎しみでも、怒りでもない。ただ、本当に分からない相手を前にした戸惑いと恐怖がある。
ミレイは立ち上がった。
足元の冷えが一気に遠のく。代わりに、胃の底へ硬い石を落とし込まれたような感覚が広がる。
ハンナは振り返り、何か言いかけて言葉を失った。
助かった。
けれど、何かが欠けた。
それは偶然だと片づけるには、あまりにもまっすぐ同じ場所を削っている。
「少し、下がってください」
ミレイが声をかけると、ハンナはふらつきながら寝台から離れた。
トーマの額に再び手を当てる。熱は下がっている。脈も乱れていない。施療そのものは成功している。
成功しているのに、こうなる。
扉の向こうから、誰かが聖女様、と呼んだ。
もう一人、熱が上がったらしい。広場でも、宿舎でも、助けを待つ声は止まらない。
ミレイはその場で、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
この子を救った代わりに、何が払われたのか。
誰が払ったのか。
施療録の空白が、羊皮紙の上ではなく、目の前の寝台の上で口を開いている気がした。
トーマは布を握ったまま、怯えた目でハンナを見ていた。
そして、かすれた声で、はっきりと言った。
「この人、誰?」




