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監査聖女は記憶税を払わない 〜人を救うたびに記憶が消えるので、神殿の奇跡を監査します〜  作者: セルヴォア


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3/5

奇跡のあと

施療が終わった時には、窓の外がすでに藍色へ沈みかけていた。


ミレイの指先から熱が抜けていく。代わりに、骨の中へ細い氷を流し込まれるような冷えが残る。銀糸を握っていた掌はこわばり、開くたびにわずかな痛みが走った。


けれど、寝台の上のトーマは呼吸を取り戻していた。


浅く速かった息が、今はまだ不安定ながらも一定の間隔を保っている。胸の奥で絡んでいた音も薄くなっていた。完全ではない。それでも、夜明けまで持つかどうかという崖からは引き戻せている。


ハンナは両手で口元を押さえ、泣き声をこぼさないように肩を震わせていた。


「ありがとうございます……ありがとうございます……」


その言葉が重く感じる日がある。


助けた事実を疑うつもりはない。目の前で呼吸を失いかけていた子が、今は眠れるだけの息をしている。それだけで、祈祷に意味があったことは確かだ。


それでも、意味がひとつで終わらないと知ってしまってから、感謝はときどき別の重さを連れてくる。


「水を少しずつ飲ませてください。咳が戻るようなら、すぐ呼んで」


ハンナは何度もうなずいた。


ミレイが立ち上がると、視界がわずかに傾いた。寝台の柱へ指をかけて持ち直す。


「大丈夫ですか」


入口に立っていたユナが、すぐに気づいて声を落とした。


「少し座れば戻ります」


「座ってください。倒れられる方が困ります」


言い方はきついのに、ユナはすでに椅子を引いていた。炊き出しの湯気と汗の匂いをまとったまま、次に必要なものを迷わず出してくる手つきに無駄がない。


ミレイは礼を言って腰を下ろした。


宿舎の中を見回す。寝台の間を歩く者の足取りは、昼より少しだけ軽い。広場で泣いていた女が、今は子どもの額を拭いている。祈祷が届いた場所は、たしかにある。


だからこそ、届かなかった場所が浮く。


「前の施療のあとも、こうでしたか」


ユナは水差しを持ったまま、目だけをこちらへ向けた。


「こう、というのは」


「助かったあとで、様子が変わる人がいたと」


すぐには返事がない。


宿舎の奥で、誰かが咳き込んだ。桶に落ちる水の音が、やけに大きく聞こえる。


「いました」


ユナは短く言った。


「でも、死にかけていた人が助かったあとです。最初は、気が抜けたんだと思いました」


「最初は」


「その子は、お父さんの声を聞いても泣かなくなりました。前は、戸口が鳴っただけで走っていったのに」


水差しを置く手が、少しだけ止まる。


「別の人は、亡くなった奥さんのことだけ、急に話さなくなりました。悲しんでいないみたいに見えて、村の皆で責めたこともあります」


責めたあとで、本当に忘れていたのだと気づいたのだろう。


ミレイは何も言わずに続きを待った。


「でも、そういうのは言いにくいんです」


ユナがかすかに笑った。笑いというより、疲れが口元に形を取っただけのものだった。


「助けてもらったのに、文句みたいでしょう」


その言葉に、ミレイは胸の奥が冷たくなるのを感じた。


文句ではない。


支払いの話だ。


けれど、この村にはまだ、その言い換えを持つ人がいない。


寝台の向こうでハンナが、そっと息を呑む気配がした。


ミレイは振り向いた。


トーマがまぶたを震わせ、ゆっくり目を開いている。


ハンナは寝台へ身を乗り出した。


「トーマ。分かる? 母さんよ」


震えた声だった。願いが多すぎて、名前の方が細く聞こえるほどに。


トーマの視線は、最初ぼんやりと天井をさまよった。


それから、ハンナの顔で止まる。


一瞬だけ、ミレイは胸を撫で下ろしかけた。


次の瞬間、トーマの喉から細い息が漏れた。


「……やだ」


ハンナの手が止まる。


「トーマ?」


子どもの肩が小さく震えた。熱の名残ではない。怯えた時の、身を引くような震え方だ。


「来ないで」


掠れた声でそう言って、トーマは布を胸元まで引き寄せた。力のない動きなのに、拒絶だけははっきり伝わる。


ハンナの顔から、色が引いていく。


「母さんよ」


言い直す声は、ほとんど祈りだった。


だがトーマは首を振った。


知らないものを見る目だった。


憎しみでも、怒りでもない。ただ、本当に分からない相手を前にした戸惑いと恐怖がある。


ミレイは立ち上がった。


足元の冷えが一気に遠のく。代わりに、胃の底へ硬い石を落とし込まれたような感覚が広がる。


ハンナは振り返り、何か言いかけて言葉を失った。


助かった。


けれど、何かが欠けた。


それは偶然だと片づけるには、あまりにもまっすぐ同じ場所を削っている。


「少し、下がってください」


ミレイが声をかけると、ハンナはふらつきながら寝台から離れた。


トーマの額に再び手を当てる。熱は下がっている。脈も乱れていない。施療そのものは成功している。


成功しているのに、こうなる。


扉の向こうから、誰かが聖女様、と呼んだ。


もう一人、熱が上がったらしい。広場でも、宿舎でも、助けを待つ声は止まらない。


ミレイはその場で、ほんの一瞬だけ目を閉じた。


この子を救った代わりに、何が払われたのか。


誰が払ったのか。


施療録の空白が、羊皮紙の上ではなく、目の前の寝台の上で口を開いている気がした。


トーマは布を握ったまま、怯えた目でハンナを見ていた。


そして、かすれた声で、はっきりと言った。


「この人、誰?」

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