救いの行列
アシュベル村へ続く道は、春先の泥をまだ深く残していた。
馬車の車輪が沈むたび、荷台の木枠がきしむ。揺れに合わせて吊るされた祈祷灯が小さく鳴り、ミレイの膝に置かれた薬箱がかたかたと震えた。
道の両側に広がる畑は、芽吹きよりも空白が目につく。冬を越えたはずの土に、人の手が十分入っていない。畝の間には踏み荒らされた跡があり、野草を掘った穴がそのまま残っていた。
御者台の男が、前を見たまま言う。
「村の手前で、昨日また一人死んだそうです」
ミレイは祈祷灯の揺れを見つめた。
「灰熱で?」
「そう聞いてます」
返事のあと、御者は余計な慰めを口にしなかった。神殿の馬車に乗せられる者は、たいてい楽観を必要としていない。
昼を少し回った頃、アシュベル村の外れに着いた。
村は静かではなかった。泣き声も怒鳴り声もないのに、落ち着きが欠けている。井戸のそばに空桶が積まれ、広場には布を巻いた子どもたちが座り込んでいる。戸口を開け放したままの家が目立ち、煙突から上がるはずの薄い煙もまばらだった。
馬車が止まる前に、人が寄ってくる。
「聖女様だ」
「やっと来た」
「うちの娘を先に」
声は祈るようでもあり、責めるようでもあった。
ミレイは馬車を降りてすぐ、周囲を見回した。
水場は広場の北。炊き出しは南の空き地。寝かされた重症者は神殿宿舎へ集めたと報告にあったが、宿舎の前だけでなく井戸の列にも、肩で息をしている者が混じっている。
列の整い方が悪い。
待つ順番ではなく、立っていられる順番で人が並んでいた。
「聖女様」
声をかけてきたのは、髪を後ろで強く束ねた女だった。年は三十前後だろうか。袖を捲った腕は細いのに、籠を持つ手つきに迷いがない。
「ユナ・モルスです。村の炊き出しと看病の取りまとめをしています」
名乗りながらも、彼女の目はミレイの顔より、その後ろの薬箱と浄布を見ていた。必要なものの場所を先に測る目だ。
「重い方から神殿宿舎へ入れています。でも、熱が上がる者が朝から増えて」
「井戸水は?」
ユナがわずかに目を見開く。
「……浅いです。濁りが出てます」
「炊き出しに回している水と、飲み水を分けてください。煮沸できる鍋は何口ありますか」
矢継ぎ早の問いに、ユナの返答は速かった。
「大鍋が二つ、小鍋が三つ。薪は足りません」
「まず大鍋二つを飲み水に。宿舎の寝台は何床」
「十四。もう埋まってます」
そこまで聞いたところで、別の女が子どもを抱えて割り込んできた。
「この子を見てください。朝から息が浅くて」
子どもの頬は乾き、唇が白い。咳をするたび胸の奥で濁った音がした。灰熱が肺まで降りている。
ミレイは膝をつき、額へ手を当てた。熱い。
「宿舎へ運んで」
「でも、順番が」
「今ならまだ間に合います」
声を強めると、周囲の空気が少しだけ割れた。村の男が二人、慌てて子どもを受け取る。
ユナはすでに次へ動いていた。
「井戸の列を分けます。飲み水、炊き出し、洗い物で分ければいいですか」
「そうしてください。寝台の者は布も替える。汗で体力を持っていかれます」
「分かりました」
誰かに指示を飛ばす声が広場へ広がる。
ユナは休んでいるように見えなかった。いや、実際に休んでいないのだろう。足取りが軽いのではなく、倒れない速さを無理に保っているだけだと分かる。
ミレイはその背を一瞬見送った。
こういう人がいる村は、崩れるまで持つ。
持ってしまうから、外からは壊れかけていると気づきにくい。
神殿宿舎へ入ると、熱と湿気が一気に押し寄せた。
薄い寝台が両壁に並び、間を縫うように桶と布が積まれている。咳、うめき、水を求める声。祈祷の香はすぐに熱気に飲まれて、ただ苦い匂いだけが残っていた。
ミレイは一人ずつ脈を取り、胸の音を聞いた。まだ祈祷と薬で持ち直せる者、今すぐ熱を落とさなければ夜を越せない者、祈っても届かないところまで沈みかけている者。
数を見れば分かる。
だが数だけでは足りない。
一番奥の寝台で、小さな腕が布の外へ投げ出されていた。
さきほど広場で運ばれた子どもではない。もっと幼い。いや、違う。熱で肉が落ちているだけで、年は十を少し過ぎるくらいかもしれない。
付き添っていた女が、立ち上がりかけてふらついた。
「母親ですか」
「……はい。ハンナといいます」
声がかすれている。泣きすぎたのではなく、水分が足りていない声だった。
「息苦しさが夜から強くて、朝には返事もしなくなって」
ミレイは子どもの胸へ耳を寄せた。肺の奥に、濡れた布を丸めたような音がある。
「名前は」
「トーマです」
トーマ。
ハンナは子どもの手を握ったまま離さない。その指先は赤く荒れていた。井戸水か、布洗いか、あるいは両方だ。
「ここで待っていてください」
言った瞬間、自分の中でもう答えが決まっているのをミレイは知った。
この子は今、落とせない。
外では広場のざわめきが続いている。宿舎の中では、まだ見切れていない重症者がいる。祈祷の余力は無限ではない。大きな施療を一人に使えば、そのぶん次に回せる力は減る。
それでも、肺の濁りはもう薬の段階を越えていた。
ハンナの目が、祈るようにミレイへ向く。
そこにあるのは信仰だけではない。間に合わせてくれという、現実の懇願だった。
「助けます」
そう告げると、ハンナは崩れるように頭を下げた。
ミレイは寝台の脇へ椅子を引き寄せ、銀糸をほどいた。祈祷灯の火を近づけ、掌をトーマの胸に置く。
浅く、短く、熱い呼吸。
この熱の向こうへ手を伸ばす時、いつも胸の奥に小さな躊躇が生まれる。
届く。
届いてしまう。
助けられるからこそ、助けたあとに何が残るのかを考えてしまう。
外で誰かがまた、聖女様と呼んだ。
ミレイは目を閉じた。
祈りの言葉は昔から変わらない。光を乞い、熱を散らし、息路を開く。だが、同じ言葉を口にしながら、彼女の心だけが昔のままではなくなっていた。
どうか助けるだけで終わらせないでほしい。
その願いが誰に向けられたものなのか、ミレイ自身にもまだ分からなかった。
祈祷灯の火が強く揺れる。
トーマの胸が、大きくひとつ上下した。




