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監査聖女は記憶税を払わない 〜人を救うたびに記憶が消えるので、神殿の奇跡を監査します〜  作者: セルヴォア


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2/5

救いの行列

アシュベル村へ続く道は、春先の泥をまだ深く残していた。


馬車の車輪が沈むたび、荷台の木枠がきしむ。揺れに合わせて吊るされた祈祷灯が小さく鳴り、ミレイの膝に置かれた薬箱がかたかたと震えた。


道の両側に広がる畑は、芽吹きよりも空白が目につく。冬を越えたはずの土に、人の手が十分入っていない。畝の間には踏み荒らされた跡があり、野草を掘った穴がそのまま残っていた。


御者台の男が、前を見たまま言う。


「村の手前で、昨日また一人死んだそうです」


ミレイは祈祷灯の揺れを見つめた。


「灰熱で?」


「そう聞いてます」


返事のあと、御者は余計な慰めを口にしなかった。神殿の馬車に乗せられる者は、たいてい楽観を必要としていない。


昼を少し回った頃、アシュベル村の外れに着いた。


村は静かではなかった。泣き声も怒鳴り声もないのに、落ち着きが欠けている。井戸のそばに空桶が積まれ、広場には布を巻いた子どもたちが座り込んでいる。戸口を開け放したままの家が目立ち、煙突から上がるはずの薄い煙もまばらだった。


馬車が止まる前に、人が寄ってくる。


「聖女様だ」

「やっと来た」

「うちの娘を先に」


声は祈るようでもあり、責めるようでもあった。


ミレイは馬車を降りてすぐ、周囲を見回した。


水場は広場の北。炊き出しは南の空き地。寝かされた重症者は神殿宿舎へ集めたと報告にあったが、宿舎の前だけでなく井戸の列にも、肩で息をしている者が混じっている。


列の整い方が悪い。


待つ順番ではなく、立っていられる順番で人が並んでいた。


「聖女様」


声をかけてきたのは、髪を後ろで強く束ねた女だった。年は三十前後だろうか。袖を捲った腕は細いのに、籠を持つ手つきに迷いがない。


「ユナ・モルスです。村の炊き出しと看病の取りまとめをしています」


名乗りながらも、彼女の目はミレイの顔より、その後ろの薬箱と浄布を見ていた。必要なものの場所を先に測る目だ。


「重い方から神殿宿舎へ入れています。でも、熱が上がる者が朝から増えて」


「井戸水は?」


ユナがわずかに目を見開く。


「……浅いです。濁りが出てます」


「炊き出しに回している水と、飲み水を分けてください。煮沸できる鍋は何口ありますか」


矢継ぎ早の問いに、ユナの返答は速かった。


「大鍋が二つ、小鍋が三つ。薪は足りません」


「まず大鍋二つを飲み水に。宿舎の寝台は何床」


「十四。もう埋まってます」


そこまで聞いたところで、別の女が子どもを抱えて割り込んできた。


「この子を見てください。朝から息が浅くて」


子どもの頬は乾き、唇が白い。咳をするたび胸の奥で濁った音がした。灰熱が肺まで降りている。


ミレイは膝をつき、額へ手を当てた。熱い。


「宿舎へ運んで」


「でも、順番が」


「今ならまだ間に合います」


声を強めると、周囲の空気が少しだけ割れた。村の男が二人、慌てて子どもを受け取る。


ユナはすでに次へ動いていた。


「井戸の列を分けます。飲み水、炊き出し、洗い物で分ければいいですか」


「そうしてください。寝台の者は布も替える。汗で体力を持っていかれます」


「分かりました」


誰かに指示を飛ばす声が広場へ広がる。


ユナは休んでいるように見えなかった。いや、実際に休んでいないのだろう。足取りが軽いのではなく、倒れない速さを無理に保っているだけだと分かる。


ミレイはその背を一瞬見送った。


こういう人がいる村は、崩れるまで持つ。


持ってしまうから、外からは壊れかけていると気づきにくい。


神殿宿舎へ入ると、熱と湿気が一気に押し寄せた。


薄い寝台が両壁に並び、間を縫うように桶と布が積まれている。咳、うめき、水を求める声。祈祷の香はすぐに熱気に飲まれて、ただ苦い匂いだけが残っていた。


ミレイは一人ずつ脈を取り、胸の音を聞いた。まだ祈祷と薬で持ち直せる者、今すぐ熱を落とさなければ夜を越せない者、祈っても届かないところまで沈みかけている者。


数を見れば分かる。

だが数だけでは足りない。


一番奥の寝台で、小さな腕が布の外へ投げ出されていた。


さきほど広場で運ばれた子どもではない。もっと幼い。いや、違う。熱で肉が落ちているだけで、年は十を少し過ぎるくらいかもしれない。


付き添っていた女が、立ち上がりかけてふらついた。


「母親ですか」


「……はい。ハンナといいます」


声がかすれている。泣きすぎたのではなく、水分が足りていない声だった。


「息苦しさが夜から強くて、朝には返事もしなくなって」


ミレイは子どもの胸へ耳を寄せた。肺の奥に、濡れた布を丸めたような音がある。


「名前は」


「トーマです」


トーマ。


ハンナは子どもの手を握ったまま離さない。その指先は赤く荒れていた。井戸水か、布洗いか、あるいは両方だ。


「ここで待っていてください」


言った瞬間、自分の中でもう答えが決まっているのをミレイは知った。


この子は今、落とせない。


外では広場のざわめきが続いている。宿舎の中では、まだ見切れていない重症者がいる。祈祷の余力は無限ではない。大きな施療を一人に使えば、そのぶん次に回せる力は減る。


それでも、肺の濁りはもう薬の段階を越えていた。


ハンナの目が、祈るようにミレイへ向く。


そこにあるのは信仰だけではない。間に合わせてくれという、現実の懇願だった。


「助けます」


そう告げると、ハンナは崩れるように頭を下げた。


ミレイは寝台の脇へ椅子を引き寄せ、銀糸をほどいた。祈祷灯の火を近づけ、掌をトーマの胸に置く。


浅く、短く、熱い呼吸。


この熱の向こうへ手を伸ばす時、いつも胸の奥に小さな躊躇が生まれる。


届く。


届いてしまう。


助けられるからこそ、助けたあとに何が残るのかを考えてしまう。


外で誰かがまた、聖女様と呼んだ。


ミレイは目を閉じた。


祈りの言葉は昔から変わらない。光を乞い、熱を散らし、息路を開く。だが、同じ言葉を口にしながら、彼女の心だけが昔のままではなくなっていた。


どうか助けるだけで終わらせないでほしい。


その願いが誰に向けられたものなのか、ミレイ自身にもまだ分からなかった。


祈祷灯の火が強く揺れる。


トーマの胸が、大きくひとつ上下した。


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