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監査聖女は記憶税を払わない 〜人を救うたびに記憶が消えるので、神殿の奇跡を監査します〜  作者: セルヴォア


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1/5

聖女は数を数えてしまう

灰のように乾いた薬草の匂いが、施療室の石壁に染みついていた。


朝の鐘が鳴り終わる前から、ローヴェ東方施療神殿の机には報告板が積み上がっている。熱病三十七、肺を焼く咳が十九、食糧不足による衰弱が二十六。そこに新しく差し込まれた木札には、アシュベル村、灰熱拡大、とだけ記されていた。


ミレイは指先で札の縁をなぞった。


灰熱の流行は、この春に入って三つ目だった。祈祷で熱を落としても、肺に残った濁りで息を詰まらせる者が出る。放っておけば村ごと持っていかれる。


分かっている。分かっているのに、彼女の目は流行の規模ではなく、別の数字に引かれていた。


三日前の施療後、容体急変四。

七日前の施療後、記憶混乱二。

十二日前の施療後、家族認識異常一。


そこだけ、他の書き込みより薄い墨で書き足されている。


「また見てるの」


振り向くと、白衣の裾を払ったセレナが立っていた。


窓辺の光を受けても、その横顔には疲れが浮かばない。いや、浮かべないようにしている、とミレイには分かる。先輩聖女の笑みはいつも穏やかで、誰かを不安にさせる形では崩れない。


「見ますよ。見ないと、あとで数が合わなくなるので」


「熱病の数?」


「その後の数です」


セレナは一瞬だけ黙った。


その沈黙は短い。だが、ミレイが何を指しているのか理解した上で、答えないことを選んだ沈黙だった。


「今は、助かった人数を優先する時期でしょう」


「助かったあとに崩れる人数も、同じ施療の結果です」


ミレイがそう言うと、セレナは困ったように目を細めた。


「あなたは本当に、そういうところが細かいわね」


細かい、で済めばいい。


実際に済まない場面を、ミレイはもう何度も見てきた。高熱から戻った子どもが父の声に怯えたこと。助かった老人が、同じ寝台に泣き崩れる娘の名だけを出せなかったこと。看病を続けてきた女の苦労を、家族がどこか他人事のように扱い始めたこと。


誰もそれを正面から結びつけない。


施療のあとには混乱が出ることもある。疲弊した村では珍しくない。神殿の記録官はそう書くし、司祭たちはそう説く。けれど、その曖昧な言い回しの中に押し込めるには、起き方が整いすぎていた。


失う者が、いつも弱い。


失われるのが、いつも説明しにくいものばかりだ。


「アシュベル村は厳しいわ」


セレナが報告板を見たまま、低く言った。


「井戸が浅いから、春先に病が出ると広がりやすい。去年も一度、施療隊が入っている」


「その時の記録は」


「見たところで、今さら何が変わるの」


その声は叱責ではなかった。懇願に近かった。


見ないで済むなら、その方が楽だと知っている人の声だった。


ミレイは答える前に、報告板の端へ指を滑らせた。木札のざらつきが爪先に引っかかる。


「変わらなくても、数は数えておきたいんです」


セレナは息を吐いた。


「そうやって全部拾っていたら、あなたの方が先に壊れるわよ」


その言葉に、ミレイは返せなかった。


壊れるのが怖くないわけではない。施療のたびに骨の内側から熱を削り取られる感覚は、もう馴染み始めている。指先が冷え、視界の隅が白くなる瞬間も知っている。


それでも、見ないことの方がもっと怖かった。


扉の外で足音が止まる。


次いで、磨かれた床を杖の石突きが軽く打った。


「聖女ミレイ」


低くよく通る声に、二人は揃って背筋を伸ばした。


ダルク司祭長は、朝の光を背に施療室へ入ってきた。白金の刺繍が入った法衣は地方神殿には過ぎるほど上等だが、彼が着ると嫌味に見えない。むしろ、その落ち着いた物腰が服の格を当然のように思わせる。


「報告は読んだ。アシュベル村へ向かってもらう」


やはり、とミレイは思った。


「本日中に出立だ。巡回馬車は昼前に出る」


「承知しました」


答えながらも、彼女は視線を落とさなかった。


ダルクは穏やかにうなずく。


「村にはすでに不安が広がっている。着き次第、広場で祈祷を。重症者は神殿宿舎へ集めるよう伝えてある」


「前回施療後の異常記録も確認したいのですが」


一拍の間があった。


セレナの指先が袖の中で強ばったのが、視界の端で分かった。


ダルクは眉一つ動かさない。


「異常記録?」


「記憶混乱と家族認識の異常です。前回の施療後、数件」


「疲弊した村では起こり得る反応だ。病も飢えも、人の心を削る」


用意された答えだった。


「ですが、施療後に偏っているように見えます」


ダルクの目が、初めてミレイを正面から測った。


冷たいわけではない。むしろ慈しむような、落ち着いた目だった。だからこそ、そこに含まれた線引きが分かりやすい。


「君は優秀だ」


静かな声で、司祭長は言った。


「だからこそ、目の前で救える命からこぼしてはならない。些事に囚われて、救済の手を鈍らせてはいけないよ」


些事。


助かったはずの子が母を忘れることが。


寄り添ってきた者の苦労が誰にも残らないことが。


それが些事なら、いったい何が本題なのか。


けれど問い返す代わりに、ミレイは頭を下げた。


今ここでぶつかっても、村へ向かう許可が遅れるだけだ。助けを待っている人間がいる以上、その遅れは受け入れられない。


ダルクは命令を言い終えると、セレナにも視線を移した。


「本殿側は君に任せる。灰熱が他村へ伸びた場合の備えも始めておいてくれ」


「はい」


扉が閉じるまで、部屋には誰も声を出さなかった。


やがてセレナが肩を落とし、小さく言う。


「あなた、村へ着いたら最初に井戸と炊き出しを見るのよ。祈祷の列ができていても、まず水場。ああいう病は、神殿の寝台より桶の並び方に出るから」


「はい」


「それから、倒れそうになったら隠さないで」


ミレイはうなずいたが、その返事にセレナは満足しなかったらしい。


「本当に分かってる?」


「分かってます」


「その顔は分かってない時の顔」


少しだけ、ミレイは笑った。


笑えるうちに笑っておこうと思った。


荷をまとめるために隣室へ移る。施療衣、浄布、祈祷用の銀糸、熱冷ましの薬草束、記録帳。最後に机の端へ置いたままの旧施療録を手に取る。


前回、アシュベル村。

施療対象、二十三名。

回復、十八。

経過観察、五。


そこまでは整然としていた。


だが、代償欄だけが妙だった。


引かれるべき罫線の上に、何もない。


一つではない。二つでもない。五つ、六つ、七つと、まとまって空いたままになっている。書き忘れというには揃いすぎていた。


ミレイはページを閉じる前に、そこへ指を置いた。


羊皮紙の冷たさがじんと残る。


助けに行く。

それは迷わない。


けれど、何を払って助けているのかを知らないまま祈る気には、もうなれなかった。

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