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第五章 侵蝕する囁き、選択の刻

極限の中で、長瀬良治は直前の状況を思い返していた。


闇の中で、スマートフォンの光がわずかに揺らぐと、

動作を確認するように指先で画面をタップし、稼働し始めたスマホの光で病室の状況も慎重に確認した。

照明は完全に落ち、病室の空間は不気味な静寂に包まれている。


扉は閉じている。

窓の外には、ほんのかすかな街の光があるだけ――

だが、それではこの異様な状況を把握するには足りない。


ひとりでに開き、閉まる扉

微かに聞こえた音

病室の奥で、揺らめく影

ちらついた、消しているはずの病室の照明

唐突に点灯したスマートフォンの画面と写り込む人型の影



不可解な現象が、長瀬の精神をじわじわと恐怖で蝕んでいく。



長瀬は僅かに残る勇気を振り絞り、ゆっくりと身を起こして視線を巡らせる。

「……何かいるのか?」


しかし、病室に異常はないように見える。

枕元の水差しが、月明りを僅かに反射している。

壁は白く、どこにでもある病室のそれと同じ。


なのに――「気配」が、消えない。

ベットの端に投げ置いたスマートフォンに再び光が点り、闇の中でぼんやりと光の輪を描く。


そこで、彼は ある違和感に気づいた。

水差しに映る光の「揺らぎ」が、不規則になっている。

まるで、光が何かに干渉されているかのように――。

「……っ」


長瀬はゆっくりと息を吸い、再びスマートフォンを手に取り画面を僅かに傾けた、その瞬間――インクが雨で滲むように壁から浮き出した影が揺らめいた。

壁の反射の中で、揺らぎながらも、わずかに人型へと近づいていく。

低く響く重い声の主は、壁をゆっくり滑るように不気味に形を歪ませながら、その形を確かな存在に形作っては歪ませ、また暗闇の中に溶け込ませる。

水を走るスローモーションの波紋が、逆回転と正回転を繰り返しているように影の収束と拡散を行いながら声の主は語りかけてくる。


「……いる。ここにいる……」


居てほしくないと思いながらも問い掛けた返答が、まさかの声となって帰って来た。

その瞬間、全身が硬直し、息が喉に詰まるのを感じた。

逃げようとする意思とは裏腹に、身体は銅像のように動かなかった。

長瀬の呼吸が次第に浅くなっていく。

収束と拡散を繰り返す影は――次の瞬間、徐々に形をはっきりさせていった。

いよいよ、それが何なのかが明らかになろうとしている。

「――気づいたか?」


囁きが、病室に響き渡ったのだった。

暗闇の中に響く、低く響く重い囁きの声。


長瀬良治は、スマートフォンの光を頼りに、じっと病室の空間を見渡した。

影は確かにある。しかし、その影を生み出す存在は、どこにも見えない。

しかし、「それ」は確かにこの部屋に いる。

囁きはもう幻覚ではない。実体のない何か。

まさかとは思うが荒唐無稽な影こそが、この「何か」の実体だとでも言うのか。

長瀬は恐怖に駆られながら、心の中で自問自答を繰り返す。


異臭騒ぎに巻き込まれて以来、見えない「何か」に追われているような感覚――それが今、この病室の中で はっきりとした形を持ち始めている。


スマートフォンの光の中で、水差しに映る光の揺らぎは 影と重なり合い、大きくもあり小さくもある異常なものへと変わっていた。

「……誰だ?」

長瀬は、かすれた声で問いかける。

掘削機のように震える膝が、恐怖ですくんだ声を、さらにかすれさせる。


誰だと言う長瀬の問いに、応えは帰って来ない。

その代わり――

病室の 空気が変わった。


温度ではない。音でもない。

ただ、何かがこの空間の「向こう側」にいると直感的に理解できる違和感。

それは 明らかにここには属していないもの だった。

「……っ」


長瀬は、スマートフォンを握りしめながら、息を飲む。

その時――

影が動いた。


それは人の形ではない。

しかし、確実に「そこにいるもの」だった。

ぽっかり空いた闇が、ブラックホールのように光の軌跡を貪るように吸い込んでいく。

見えない“何か”が、病室そのものを押し包むように広がっていく。

まるで現実の空間が“向こう側”へと浸食されつつあるかのように、壁の奥が波紋のように揺れた――そこは、現実と非現実の境界線が崩れかけた世界だった。

「これは……?」


そして、次の瞬間――

囁きが はっきりとした言葉へと変わった。

「――お前も――来い」


空間が、確実に『変わろうとしている』。

囁きがはっきりとした言葉に変わった瞬間――

病室の空間が、急速に歪み始める。


長瀬良治は、スマートフォンの光を握りしめながら、震えた足で逃げ出そうと試みる。

逃げなければ――何かが「ここにいる」。

それはもう、気のせいではない。

病室の空気が異様に重く、まるで現実そのものが 別の空間へと変化しようとしている 感覚。

「……っ」


長瀬は、慌てながらも冷静に、ゆっくりと息を整える。

すると――

壁の奥が、水面のように揺らめいている。影ではない。

病室そのものが、水の波紋のように、わずかに揺れているのが分かる。

病室はただ揺れているだけではない――足元の床すら軟らかくなり、不安定な液状へと変化しているかのようだった。

「ここに来る……?」


その言葉の意味を考える間もなく、病室の一角に ゆっくりと影が広がっていく。

それは人影とは違う。

しかし、確実に 何かの存在 だった。

「これは……」


影は次第にその輪郭をはっきりとさせながら 人型に近づいていく。

しかし――そこに「顔」はない。

ただ 黒く歪んだ形 が、そこに ある。水面に揺れる波紋の中心で、顔のない長身の黒が手を伸ばす。

そして次の瞬間、低く重い囁きがもう一度響く。

「――選べ」


それは命令にも似た、不気味な言葉だった。

この病室は、もはやただの病室ではない。

時間の概念すら曖昧になり、向こう側との境界が限界を迎えつつある――ここは、現実と非現実が交錯する狭間だった。


長瀬は、息を整えながら この影の正体を理解しようとする。

何を選べと言うんだ。来い?選べ?行く事を選ばなかったどうなると言うんだ。引き裂かれて死ぬか行くかって事か?どこに行く?行ったら死ぬ?行かなかったら引き裂かれる?

究極の二択は、無限の可能性を秘めている。

ただし、その可能性は、悪い方へと傾く気がする――いや、確実に。


混迷する自問自答が頭の中で繰り返される。

しかし、答えは見つからない。

いや、もうダメだ、もう逃げきれない。答えはもう出ていた。


と、その時――

病室の扉が突如開き、瞬間、怒涛のように現実の光が流れ込んだ。

影は、一瞬にして風船が弾けるように砕け、静寂の中へと溶けていった。

「……っ!」

「長瀬!」

杉本の声が病室に響く。


彼は警戒心をむき出しにしながら、一瞬、部屋全体を見渡した。

その目はただの警察官のものではなかった――まるで“何か”を探しているような鋭さがあった。


軽くなった静寂の中、扉の前には杉本が立っていた。

病室に現実の光が戻る。

「長瀬、大丈夫か?」

杉本は再び、長瀬に声をかけた。


病室に光が戻った。

長瀬良治は、静かにスマートフォンを握りしめたまま息を整え、返事を返す。

「……多分」

多分を否定を表現した視線は、大丈夫かと問いかけた杉本の顔を見据える事も無くベットの端に逸らされていた。

その視線の先には、枕元に飾られた水差しが、失敗した飴細工のように溶けて崩れていた。


長瀬は確信している。

――「向こう側」は、確かに「存在していた」。


少し前までは、不可思議ではあるが実感が湧かなかった。

だが、幻覚と言うには、意識がはっきりし過ぎていた。


異次元とでも言うべきか、別の空間、別の存在を確かに感じる。

引きずり込まれる寸前だった。

病室の空気の歪み、見えない影の本体、恐怖そのものの囁き――それらはもはや、異常現象の域を超えていた。向こう側が現実へと侵食を始め、長瀬はその確かな証拠を目の当たりにしていたのだ。

異臭騒ぎの発端は、ただの偶然ではなく、何かが『向こう側』からこの世界へと干渉し始めていたのだ。


「何があった?」

杉本がゆっくりと歩み寄る。


長瀬は、病室の中央付近の壁を指さした。

「さっきまで、ここに何かがいたんです」


杉本は眉をひそめ、慎重に視線を巡らせる。

「何か?」


「形は曖昧でした。でも、確かに『そこにいる』と感じました」


杉本は無言で病室の奥を見つめ、腕を組んだ。

「……異臭騒ぎの被害者は、共通して『影』の異常を訴えていた。そして、お前も――」


沈黙が続く。

杉本はふと、何かに気づいたかのように顔をあげた。

彼の思考の奥には、言葉にはできない違和感があった。

「これは、ただの事件じゃないな」

杉本は低く呟き大きな溜息をついた。


異臭騒ぎ。幻覚症状。歪んだ影。

すべてがひとつの流れの中にある。

「長瀬、ひとまず病室を移そう、ここでは落ち着かんだろう?」


長瀬は小さく頷いた。

杉本は病院スタッフへと話を通し、別室へと移動する手配を始めた。

だが――。しかし、何かがまだ終わっていない気がする。そう――何かが。


「……向こう側」は、本当に消えたのか?

あの声の主は何を求めていたのか。

そもそも、あの異臭は何だったのか。


その答えはまだ、分からなかった。


ただ一つ、確信できることがある。

この異臭騒ぎは―― きっと大きな何かに繋がっている。

事件とか、トリックとか、心霊現象とか、そんな言葉では言い表せない何かに繋がっている。

そう感じるしか無いのだ。


そして、その全貌は まだ明かされていない。

いや、まだ始まってすらいないのかもしれない。


飛び込んだ扉の向こう、廊下の先から誰かが歩く音が聞こえる。

杉本が振り向く。


しかし、廊下には誰もいなかった――。

杉本もまた、『向こう側』に引き寄せられつつあるのかもしれない。


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