第四章 見えざる存在、静寂の呼び声
長瀬良治は、スマートフォンの着信を慌てて切り、辺りを警戒しながら音量をミュートした。
着信は何度か繰り返しかかって来たが息を潜めながら切り続け――やがて止まる。
無視されたスマホは拗ねたように沈黙し、やがて静寂が戻った。
病室の空気は、どこか重いように感じた。
「……何かがおかしい」
長瀬は、ゆっくりと呼吸しながら、周囲を確認する。
異臭騒ぎに巻き込まれ、救急搬送され、不可解な現象を見た。
そして今――「囁き」。
本当に聞こえたのか、それともただの幻覚なのか。
冷たい汗が滲むのを感じながら、耳を澄ませた。
……静寂。
だが、それは「不自然な静寂」だった。
病院の廊下には人の気配があるはずなのに、不気味なほど静かだ。
そして、ふと気づく。
「なんだ?……病室の空気が……」
息苦しい静寂と異様な現象が空間を支配し、長瀬の身体を押し潰すように圧し掛かる。
静寂はやがて、重苦しい沈黙へと変わっていった。
沈黙はただの静けさではない――まるで、目に見えぬ何かがこの空間を支配し、息を潜めていた。
静寂は最初はただの違和感だった。
しかし今は、まるで空間そのものが生き物となり、息を潜めて彼を監視しているようだった。
息苦しさがさらに増して、精神的な重力で身を押しつぶされそうになる中、
沈黙とは別に微かな違和感が漂い、直感が危険信号を発した。
冷たさとは違う不自然な感覚。
まるで、空気が――不気味な沈黙と共鳴し、わずかに揺らいでいるように感じられる。
視線をそっと、彫刻のように身を固めながら眼球の動作のみで辺りを見まわす。
枕元の水差しの表面に映る光が、ほんのわずかに揺らいでいる。
気のせいなのか、それとも――。
その時、病室の扉が、まるで風に押されるように微かに動いた。
「……?」
自然の動きとは思えない。誰かが入ってくる気配はない。
それなのに、扉はわずかに開いたまま、動きを止めた――まるで、そこに何かが待っているかのように。
動かず視線のみを扉へと向ける。
誰もいない。
しかし、それでも――何かが そこにいる 気配がした。
冷たい感覚が背中を這い上がる。身体中の血液が凍り付いたかのように血の気が失せる。
この病室には、何かがある。
長瀬は息を詰め、慎重に一歩後ずさった。
次の瞬間――。
――微かな「音」が、病室の奥 扉の反対側から響いた。
長瀬の居る病室は2人部屋で、ベットの向きは縦向きで配置されており、真ん中を使用している。
奥のベットは窓際近辺にあり、無人のままカーテン越しの月明りに照らされている。
長瀬良治は、静かに息を整えた現状を確認するように辺りを見まわした。
病室の扉が少しだけ開き、そこには誰もいない――。
奥のベットにも――いない。
だが、病室内には何かが 「いる」。
その気配は、確かに感じる。
長瀬はベッドの端に座り、慎重に視線を巡らせた。
扉の隙間から漏れる廊下のわずかな光。その向こうには、人影らしきものは見えない。
つい数時間前には、運び込まれる病人で、廊下でさえもざわついていたはずだが――。
病室内は相変わらず静かだ。ずっしりとした静けさが今も続いている。
しかし、良く耳を凝らして聞くと、微かに 「音」 がする。
それは遠い囁きのようであり、かすかな衣擦れの音のようでもある。
「……誰かいるのか?」
長瀬は低く問いかける。しかし、返事はない。
ただ――
扉が ほんの数センチ ゆっくりと開いていっている事に気付き、背筋がぞわりと粟立ち、全身がこわばった。ひゅっと息を吸い込み、そのまま無意識に息を止めた。
何かが確実にここにいる。気配を感じる。
扉の隙間の向こう、廊下の暗がりは静まり返っている……しかし、その沈黙が異常に思えた。
ベットの端で壁に寄り掛かるように座りながら、正面の壁を見据える。――いない。
一瞬前に気配を感じた、奥のベットに視線を移し凝視する。――いない。
扉の向こう、廊下の暗がり――
「!!……っ!」
瞬間、はっとして息を飲む。
そこに 何かが立っている? のか?
再び血の気が引くような寒気が背筋を駆け抜ける。
その時、消しているはずの病室の照明がわずかにちらついた。
ほんの一瞬だけ、視界が揺らぐ――ような気がした。
そして、扉の奥から―― 微かな囁きが聞こえる。
それは、言葉にならないかすかな音――しかし、確かに――呼んでいる。
長瀬は息を飲みながら、その気配を感じ続けた。
ここで動くべきなのか、それとも――。
蛇に睨まれたカエルとでも言うべきなのだろうか。
逃げ出したい状況と諦めたように動かない身体に、精神はすでに擦り切れる寸前だろう。
緊張で見開かれた眼。
額にはじっとりとした汗が滲んでいた。
長瀬良治は、ベッドの端にじっと座り続けた。いや、動けなかった。
病室の扉がわずかに開き、そこには誰も――いなかった。
しかし、「何か」は確かに いる――。
窓際のベット付近に気配を感じ視線を巡らせる。
秒針が1メモリ動く僅かな瞬間に、その気配は扉の奥、廊下の向こう側に移動していた。
まるで狩人が入念に足場を確認して回るように――移動していた。
彼は深く息を吸い、静かに身を縮めながら状況を観察していた。
廊下の光が微かに差し込んでいるものの、その奥には何も見えない。
だが――「音」がする。
それは、微かな衣擦れの音が漂い、その奥で、かすかな囁きが響いた。
言葉ではなく、空気が動くような気配。
そして、もうひとつ……。
「扉が……少しずつ開いている」
ほんのわずかだが、確実に進んでいる。
何もしていないのに。
誰もいないのに。
それは 何かがそこにいる証拠 だった。
長瀬は息を詰め、状況を観察し続ける。
寒気が背中を駆け上がる。
この病室には、「何か」が確実に存在していると再認識した、
その時――
無視された着信が静まり、スマートフォンは沈黙した――はずだった。
しかし次の瞬間、画面が微かに揺らめく。まるで、誰かが触れているかのように。
通知はない。着信履歴も消えている。それなのに、光は不規則に明滅を繰り返した。
「……?」
そしてその瞬間、病室の奥で、ほんのわずかに ロウソクの炎に照らされた煙のように影が揺らめいた。
濁流のように押し寄せる冷汗を感じつつ、はっと息を飲んだ瞬間――影はわずかに揺れた後、空気に溶け込むようにぼやけ、そして完全に消えた。
影が消えた後、病室の空気はなお重く、その場に何かがまだ残っているような感覚があった。
あの異臭騒ぎの時と同じ違和感。
人影が、人の形を取れずに溶けだしたかのように歪んでいた時と同じ違和感を今、感じていた。
扉の奥に感じていた「何か」は、マートフォンの光が何かを呼び起こしたのか――影は微かに揺らぎ、その形を明確にしながら、まるで境界を越えようとしているかのようだった。
長瀬は思わず指を引いた。
次に光が灯れば、それは完全に現れるのではないか――。
「……っ」
長瀬は驚きの声も上げず、ただ息を整えた。
何度目かの息を飲む瞬間――。
病室の扉が
ひとりでに――閉じた。
思考を加速させ、あらゆる想定を繰り返す長瀬をあざ笑うかのように、手を変え品を変え、不可解な現象は次々と起きては精神を削り蝕んでいくのだった。
今度は病室の扉が、ゆっくりとゆっくりと ひとりでに閉じて行く。
長瀬良治は、冷たい汗を感じながら動かずにいた。否、精神的な動揺で動けずにいた。
扉の向こうには誰もいない。
しかし――「何か」が確実に存在している。
今まで不確かな違和感でしか無かった現象が、今になってようやく確定に変わった。
病室の空気は、異様に重い。
ここは ただの病室ではない。
囁き、影、異臭――全てが絡み合い、長瀬の周囲に異常な気配を生み出していた。
「……っ」
彼は深く息を吸い、慎重に状況を観察する。
その時――
――スマートフォンの画面が、唐突に点灯した。
通知の表示はない。着信もない。
ただ、画面が不規則にちらつき始めている。
「……なんだ?」
すると、スマートフォンの液晶に 何かが映った。
それは、 真っ黒な影。虚像レンズを通したような歪曲した歪んだ影。
画面の光の揺らぎの中で、一瞬だけ歪んだ人影のようなものが 写り込んだ。
スマートフォンのカメラも起動していない。なのに…… 画面には、漆黒に透ける矛盾した人型の影が一瞬映り、そしてすぐに消えた。
心臓の鼓動が速まる。
長瀬はスマホを手にしながら、一瞬指を動かすのを躊躇した。光が再び影を呼び寄せるのではないか――そんな気がしてならなかった。
静かにスマートフォンを置き、周囲を見渡す。
だが、病室には誰もいない――。
……なのに、影は 「ここにいる」。
次の瞬間――
病室の照明が、突然 完全に消えた。
静寂の闇が訪れる。
そして、その暗闇の中で――
囁きが、まるで意志を持つかのように、はっきりと聞こえた。
「――気づいたか?」
低く響く重い声に狂おしいほどの恐怖を感じ、長瀬の精神は極限を迎えつつあった。




