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誰にも邪魔されずに惰眠をむさぼるというのは、至福のひとときである


 悪夢で目が覚めたことはあるだろうか。

 夢の中で死んだことはあるだろうか。

 あの感覚は、突然部屋のブレーカーが落ちる感覚に近いと私は思う。

 あ、やばそう。思った瞬間にバツンとすべてがシャットダウンされる感覚だ。

 夢の中で死ぬと、脳がそれを勘違いして本当に死んでしまわないように目を覚ますらしいとどこかで見たことがある。本当かどうかは知らないけども。

 私もどうせ死ぬなら眠ったままがいいとか思っていたこともあった。

 こんな姿になるのでなければ。


 あの後も自分の姿を確認しては気絶というのを数度繰り返したが、ようやく多少慣れてきた。……とはいえもともと虫は苦手なほうではあるので、正直自分の身体を凝視することすらできない。ちら見してもアウトというのが現状だ。

 しかし何度見て転がったところで今の状態が何か変わるわけでもない。少しずつだが気持ちも落ち着いてきた。転生モノ主人公としてありがちな、順応能力は無事に持っているようだ。まぁあれだけ社畜していたのだから、長いものに巻かれる能力はあるのだろう。この場合の『長いもの』が何なのかはわからないが。

 とにもかくにも自分の姿を凝視さえしなければ、第二の人生(この場合は虫生?)を何とか過ごしてはいけそうだ。虫ならば寿命はそんなに長くはないだろうし、さっさと次に転生してエンジョイヒューマンライフに戻りたい。文化的な生活に戻りたい。怠惰にカウチポテトしたい。

 それにしても、ここは一体どこなんだろうか。いや、いつと言ったほうがいいかもしれない。早急に時代と国とを確認しなければ。

 ぴこぴこと触角が動く。さて、どっちに向かおうかと思ったとき、何かが滝から落ちてきた。バシャリと音を立てて水飛沫をあげて着水するそれは、紙でできた小さな船だった。

「おちちゃった、おとうさん、おちちゃった!」

 子供の声だろうか。甲高いそれは、かなりの音量でぐわんぐわんと響き渡る。

 隙間から黄色い長靴だろうか、子供の足が見えた。

 落とした船を探して穴から覗きこもうとしているらしく、黄色い雨具もちらちらと隙間から見え隠れする。

「こらジョージ! 汚いから触っちゃダメだ!」

「でもおちちゃったの。おとうさんがつくってくれたのに」

「また新しいの作ってあげるから、大丈夫だよ」

 ハァイ、ジョージ。君のお父さんは優しいねぇ……あ、なんだい! もう行っちゃうのかいジョージ!

 ぱしゃぱしゃと音がして足音が遠ざかっていった。

「日本語……だったのかな?」

 しかし渋めの声は最高だね。パパ似の声に育っておくれよジョージぃ。

 言語は聞き取れたけれども日本語かどうかは不明だ。転生チート系お約束事項として、転生先でもなぜか言語がわかる、喋れるというのはよくあることだろう。

「新聞紙で作ってくれていれば日付も言語も確認できたというのに……さすがにそこまでのラッキーはないか……」

 おかげで今いる場所が側溝と理解できただけでもまぁよしとして、ぷかぷか浮かぶ紙の船を眺めた。

 ひとまずこの船に乗り込めないかとちょいちょいと引き寄せてみる。視界に入ってくる自分の手(?)のグロテスクさに絶望して目を背けたくなる。なんだこのわけのわからん毛は。私も不精して「冬場は長袖着るから見えない見えない!」と無駄毛の処理をさぼったことはあるけど、ここまでキモい感じにはならなかった。むしろ毛というかトゲトゲしい。なんだこれは。世紀末ファッションか。こんなの肩や腕につけたところでなんの強さの象徴にもならないと思うぞ私は。いやまぁ確かにキモさ的な意味での攻撃力は上がってるけども。

 ちょいちょいと動かすも短すぎてなかなか届かない。身体を乗り出して限界まで腕を伸ばしてみる。

「もーちょい……あと少し……」

 昆虫特有の謎関節のせいで思ってるよりも伸ばせない。身を乗り出してギリギリというよりもギチギチと距離を詰めていく。

「! やった!」

 はしっと紙に触れたその瞬間、気がゆるんだのか、私はそのまま水にぼちゃりと落下した。

「ぬわーーーーっっ!?!?」

 すぐさま方向転換してよじ登る。

 雨のせいか溜まっていた水量が多かったおかげですぐに岸に這い上がれた。

 濡れたこと自体もたいそう気持ち悪かったが、『死ぬ』という感覚がものすごく強かった。頭は出していたのに、息ができなくなる感覚。そういや昆虫は呼吸の仕方が違うんだっけ。遥か昔に勉強したことを思い出しながらコンクリの上でぶるぶると震えた。

 紙の船は私が力を加えたことですっかり転覆してしまっていた。数日前――なのかどうかは定かではないけれど――に夜中にやっていた豪華客船沈没映画を思い出す。

 ボディが乾いてくる頃には、気持ちも落ち着いてきていた。

「さて……いったんここらで外の様子は見に行きたいけど、どうしたもんかな……」

 できればすぐそこに見える穴から一度外を確認しておきたい。

 しかし目の前には水量の増えた川――じゃなかった。下水かなこれ。まぁなんにしても反対側に渡るにはだいぶ距離がある。ぴょんと飛び越えられる距離でもない。そもそもGってジャンプできるのか?

 本来短い飛距離なら飛べるにしても、飛び方もわからなければまだ身体も完璧に乾いていない。無謀でしかない。また水に落ちたら泣く。

 自分の手をふと見つめた。そういえば先ほどすぐに這い上がることができたのは自分の腕力のおかげだけではない。手をみると細かな毛のようなものがみっしりと生えていることに気づいた。じっくり見れば見るほど絶望しかない。

 そして壁を見つめた。手と壁を交互に見る。高い壁だ。でも。

 手を見ると細かな毛がぶわっと逆立ち、その存在を激しく主張する。

 壁に右手をつける。壁の凹凸にしっかりと毛先――というよりも爪みたいな感覚だけれども――が引っかかり、確実に支えるぞという謎の自信がわいてくる。

 左手も壁にひっかけ、二足歩行をするように立ち上がる。

 行ける!

 右足をかけ、左足を踏み出し、ついには身体が浮いた。人生初のロッククライミング。

 クモに噛まれて特殊能力を得た主人公のように、壁をさかさかと登っていく。

 楽しい。これは楽しい。少し怖かったが、あっという間に天井だ。下を見るとほんの少しの距離なのに、とても高いところまで来てしまったかのように思えた。

 一歩を踏み出すのは怖かったが、ここまで来たのだ。きっと行ける。

 天井に張り付き、しっかりと凸凹を掴んでゆっくりと確実に進んでいく。

 ぶらさがる身体が不安で仕方ない。落ちれば下水が待っている。怖い。でも。

 側溝の穴から差し込む光が眩しい。出口はすぐそこにある。

 希望の光に私は手を伸ばした。


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