代償
2階の廊下には誰もいなかった。
静まり返る廊下。
なんか不気味⋯⋯。
「急ごう!」
お菊ちゃんに手を引かれ私達は1階へ降りる階段へ向かう。
長い階段を下りきった私たちの視線の先⋯⋯玄関ホールの中央に、ポツンと立ち尽くす人影があった。
え?誰かいる?
「!よーちゃん……」
「待ってたよ。まなみ。⋯⋯ねぇ菊池くん?⋯⋯その汚い手、僕のまなみから離してくれる?」
よーちゃんはいつもの穏やかな笑顔を浮かべている。でも、その目はまったく笑っていない。氷のように冷たい視線が、私の手を引くお菊ちゃんの手元に注がれていた。
「離さないなら、腕ごと切り落とさなきゃいけなくなるんだけど?」
「っ⋯⋯!」
お菊ちゃんが私の前に庇うように立ち、手を強く握り直す。
「あれ? 何をしてるのかなぁ。侵入者を捕まえてほしかったんだけど……あれ? 記憶、戻っちゃった?」
首をかしげたよーちゃんがママに視線を向ける。
ママは私達から一歩前に出て、私達を背中に庇い、怒りに肩を震わせた。
「どうやって戻ったんだろう。まなみ?何かした?色々調べないといけないな。完璧な記憶操作ができるようにするためにね。」
よーちゃんはそう言ってニッコリ笑って私を見る。でも⋯⋯その目は笑っていない⋯⋯。
「どういうつもり? あなた⋯⋯! うちの子に何をする気!?」
ママの怒りに応えるように、その両手から激しい水流が溢れ出す。空間の空気が一気に重くなる。
そして、水が溢れ⋯⋯よーちゃんへ向かう。
それを見ながらよーちゃんは大きな声を出した。
「ねぇ?余計なことするとさぁ⋯⋯あっちの人たち、全員殺すよ?いいの?」
冷酷な声が広いホールに響く。
よーちゃんが示した奥の暗がりを見つめた瞬間、私は息を飲んだ。
「みんな!?」
そこには、血を流して倒れている海やケンケンたちが、太い縄でぐったりと縛り上げられていた。海の服が破れ、ピーちゃんは海の肩の上でピクリとも動かない。
「海!? ケンケン!?桜井君!!たっつん!⋯⋯。」
「無駄だよ。僕に歯向かうからそうなるんだ。さて、まなみのママは邪魔だね。静かにさせて。」
よーちゃんの合図と同時に、影の中から現れた黒服の男たちが一瞬でママの背後に立つ。
「しまっ⋯⋯!?」
ママが水を放つより速く、男の手がママの首筋に伸びる。
水の壁が一瞬で霧となって消え去り、ママの身体が力なく崩れ落ちた。
「ママ——っ!!!!」
目の前で起こる光景に私は何もできずに立ちすくむ。
「まなちゃんは渡さないから!」
お菊ちゃんが私を後ろに庇ってそう言うと。
「ねぇ?ただの勘しか能力のない、無能に何ができるのさ?力も弱そうだし。」
嘲笑うかのようにお菊ちゃんにそう言うよーちゃん。
「よーちゃんやめて!どうしてそういうことを言うの!?」
私がそう言ってよーちゃんを見ると。
よーちゃんはおかしそうにお菊ちゃんを見ると。
「僕とまなみは選ばれた人間だよ?当たり前だろ?そんな無能な人間は、この世にいらないよ。」
こんな人知らない。
見たこともない別の人だ。
私が知っているよーちゃんはもういないんだ。
私はそう思った。
「さっさとまなみから離れてくれないかな?」
よーちゃんがそう言うと。後ろから現れた黒服の男に殴りつけられる。
「やめて!!」
私がお菊ちゃんを庇おうとすると。
「いいから!まなちゃん!まなちゃんは逃げなきゃ!!あんな怪物に捕まったらいけない!」
お菊ちゃんは黒服の男のが振り上げる腕をわずかに受け流し、よーちゃんへ突進する。
「お菊ちゃん!」
「まなちゃんは逃げてっ!コイツはここで足止めするから!」
お菊ちゃんがよーちゃんへ掴みかかった。
私はその隙をついて、玄関へ向かう。
「めんどくさいなぁ!ほんとに!!」
ドスッ——!!
「え⋯⋯?」
嫌な音がホールに響いた。
振り返った私の視線の先でお菊ちゃんの腕に、深くナイフが突き刺さっていた。
床にポタポタと、鮮烈な赤が落ちて広がる。
「お⋯⋯お菊ちゃん⋯⋯!」
声が震えて、うまく出せない⋯⋯。
お菊ちゃんはその場に崩れ落ち、うずくまったまま黒服の男に容赦なく地面へ押さえつけられてしまった。
痛みに顔を歪めながらも、お菊ちゃんは血のついた顔で私を必死に見つめ
「まなちゃん!に、げ、て!」
お菊ちゃん⋯⋯。お菊ちゃんはそうつぶやいて苦しそうにうめいた。
私は足が動かなかった。
よーちゃんは刺さったナイフから視線を外すと、まるで靴で虫を踏み潰した後のように、鬱陶しそうに溜め息をついた。
「はぁ⋯⋯だから言ったでしょ? 無能が足掻いても仕方ないって。ねぇまなみ、もう逃げ道なんてないよ?それとも、この無能達おいて自分だけ逃げる気?」
よーちゃんはそう言って私に歩み寄り、私の頬を包み込むように優しく撫でた。その手があまりにも冷たくて、鳥肌が立つ。
「あれ?その本どうしたの?」
私が胸に抱いている本を奪い去った。
「⋯⋯。」
「ふぅん。答えないんだ?でも読めないでしょ?まなみ達じゃあ。この本はまなみが見るような本じゃないから。」
「みんなにひどいことしないで。」
私が絞り出すように言うと、よーちゃんは愛おしそうな、けれど感情のこもっていない瞳で私を見つめ返した。
「それは、まなみ次第だよ?わかるでしょ?」
ゾッとするほど冷たい目。
私は恐怖を抑え込みよーちゃんを睨みつける。
「皆を離して!よーちゃんの目的は私でしょ?!皆は関係ない!」
よーちゃんはおかしそうにクスクス笑うと。
「うーん。それはどうかなぁ。結構いろいろなやってくれたしね。お仕置きはしないとね。」
そう言ってちらっと海たちの方を見る。
「洋平!もうやめろ!お前⋯⋯!いい加減にしろよ!」
暗がりから声が響く!
海の声!良かった!意識を取り戻したんだ!
「あれ?もう目が覚めたの?手を抜きすぎだなぁ。」
よーちゃんはそう言って首を傾げると、縛られて、転がっている海の頭を足で踏みつぶした。
「くぁぁっ⋯⋯!」
嫌な音が響き、海が苦痛に顔を歪める。よーちゃんは踏みつける足にゆっくりと体重をかけながら、私に向かって笑顔を向けた。
「ねぇ?まなみ?僕がさ、こういうひどいことをするか、しないかはまなみ次第なんだよ?わかるよね?」
「よーちゃんやめて!」
「やめないよ?まなみが心から僕のものになるって誓わないとさ。」
よーちゃんは海の頭をさらに踏みつける。
「ぐぅぅぅ⋯っ。」
苦しそうな海。
海が⋯⋯海が死んじゃう!!もうやめて!
涙が溢れて止まらない。皆にひどいことをしないで!
「もうやめて!わかった!わかったから!よーちゃん。もうわかったから!誓う!誓うから!」
私がそう言ってよーちゃんを見ると。
「ふぅん。」
よーちゃんは海のそばから離れると。私の元へ歩み寄る。そして、私の顔をのぞき込んだ。
「ねぇ?本当に誓うの?⋯⋯言葉だけなら何とでも言えるよね」
氷のように冷たい視線が、私の瞳の奥まで削り取るみたいに注がれる。
よーちゃんは満足そうに目を細めると、私の涙で濡れた頬を、愛でるように親指でゆっくりとなぞった。
「まぁいいや。まなみが僕のものになるならさ。」
ニッコリ笑ってよーちゃんは私の頭を撫でた。
「言葉だけじゃ信用できないな。……そうだ、いいこと思いついちゃった」
そう言ってよーちゃんは背後に控えていた黒服の男へ短くあごで指示を出す。
男が差し出したのは、銀色に光る注射器だった。
なに⋯それ。
「ん?これ?これね。うちの開発した新しい薬なんだ。君の他の余計な感情をぜーんぶ消してくれる薬だよ。これを打てば、君はもう泣かなくていいし、あの無能たちの心配もしなくて済む。僕の理想のまなみになれるんだ」
よーちゃんはそう言って微笑む。
「これからはずっと一緒にいようね?」
「や、やだ⋯⋯やめて」
よーちゃんはニッコリ笑って私を見る。
やだ!こないで!
「やだ」
私はあとずさりする。
「ん?そんな事して⋯皆どうなるか⋯⋯」
目を見開く私を、意地悪そうな目で見つめるよーちゃん。
そして私に手を伸ばし。私の腕をを引き寄せようとする。
その瞬間⋯⋯
パリン⋯⋯
え?!
なにかの割れるような音。
高くて異質な音が響いた。
何の音?
そう思った瞬間。
目の前でよーちゃんの指先が⋯⋯
パラパラパラ⋯⋯砂のように崩れ去り⋯⋯
え?!
「おぉぉぉぉ〜っっ」
おぞましい叫び声。
その声の後に⋯⋯
袖口から、襟元から、服の生地そのものが皮膚と一緒に灰色に変色し、サラサラと乾いた音を立てて崩れ落ちていく。
着ていた上着も、ズボンも、靴すらも、存在のすべてが、まるで最初から砂でできていたかのように形を失っていく。
そして⋯⋯残ったのは砂の上に残る1冊の本だけだった⋯⋯。
「よ!よーちゃん?!」
あ⋯⋯これは⋯⋯あの夢と同じ⋯⋯。
あ!もしかしてこれが⋯⋯⋯⋯能力喰いの代償?




