契約
退職の手続きは不気味なほどスムーズに完了した。
引き留められることも、理由を問われることもなく、業務の引き継ぎすら免除された。昨日までの日常は、わずかな書類のやり取りだけであっさりと断ち切られた。明らかに上層部へ手が回されていた。
翌朝、指定された場所に行くと例のスカウトが待っており、新しい職場へ案内すると言う。
窓のない装甲SUVの車内で、沈黙のドライブは数時間に及んだ。
車の振動が滑らかなアスファルトから荒いコンクリートのそれに変わった頃、ようやくドアのロックが解除された。
外に降り立ったブライアンの鼻を突いたのは、潮の香りとディーゼルオイルの強烈な匂いだった。荒涼とした海岸のさびれた港。目の前には、赤茶けた錆が浮いた、年代物の巨大なパナマックス級の貨物船が停泊していた。
「船に乗るのか。どこまで行くんだ?」
長時間の移動にうんざりした様子でブライアンが尋ねると、スーツの男は短く首を振った。
「ここが目的地だ。」
男に促されるままタラップを上り、重厚なハッチを潜り抜けた瞬間、ブライアンは自分の感覚を疑った。
薄汚れた外観とは裏腹に、船内は最新の空調設備とチタン合金の壁面で覆われ、まるでシリコンバレーのハイテク企業のロビーそのものだったのだ。
彼は静謐な通路を抜け、シンプルだが明らかに特注家具で揃えられた応接室へと通された。
「よく来てくれた、ブライアン。とても嬉しいよ」
声の主は、革張りのソファから立ち上がった。仕立ての良いカシミアのセーター。鋭い眼光。
ターティコフ。複数のグローバル・ネットワークと通信衛星群を傘下に収め、地球上の全データトラフィックの三割を掌握するとされる巨大メディア・コングロマリットの総帥だ。情報帝国の帝王が、なぜ場違いな辺境の天体観測員をわざわざ私室に招き入れたのか。
ブライアンは小さく息を吐いた。
「あんた、ターティコフか。まさかメディア王からのお誘いだったとはな。てっきり、ウィリアム繋がりで異星人関係のプロジェクトに呼ばれたと思っていたんだが。」
「間違いではないよ」ターティコフは薄く笑い、向かいの席を勧めた。「君については調べさせてもらった。今置かれている不遇な境遇もな。だが、君の直観と行動力がなければ、あのメッセージの解読はあと数年は遅れていただろう。連中は、人の使い方というものをまるで分かっていない。」
「買いかぶりだ。あの程度の解析なら、俺よりも優秀な人間はいくらでもいるさ。」
「……好奇心と、行動力。」
ターティコフが呟いた。
「未知の領域において人類を発展させてきたのは、いつだってその二つだ。個人の記憶力や計算能力なんてものは、今やいくらでも機械で代用できる。ここにいる時点で、君は私にとって必要な能力を示している。」
ブライアンは悪びれるそぶりも見せないターティコフに、肩をすくめた。
「あのふざけた勧誘がテストだってのは、ジョークじゃなかったんだな。」
「そういう事だ。」
ターティコフは身を乗り出し、両手を組んだ。
「さて。ここから先、研究の具体的な内容を聞けば、もう後戻りはできなくなる。このまま君の仕事の説明に移ってよいだろうか?もちろん今以上の待遇と、十分な報酬を約束しよう。」
ブライアンは、まっすぐにターティコフの目を見返した。
「聞かせてくれ。せっかくだ、見込まれた好奇心を示すとしよう。」
「それでこそ私が見込んだ男だ。」
ターティコフが短くインターホンを鳴らすと、間もなく応接室のドアが開き、見慣れた顔が姿を見せた。




