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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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8/9

物語は、人を動かす

下弦の月だけが窓の外に浮かび、寮の一室は深い夜に沈んでいた。


静寂を破るのは、紙を擦るペン先の音だけ。


エレオノールは机に身を乗り出したまま、ひたすら手を動かす。

書いているのはただの物語ではない。

いつか現実を動かすための、布石でもあった。


書き始めた物語は思った以上に勢いを持ち、登場人物たちは勝手に喋り、勝手に揉め、勝手に恋までし始める。

けれど、どこへ向かわせるかだけは、彼女が決めている。


――そろそろ寝るべきだわ。


理性は何度か忠告した。だが、そのたびに次の一文が頭へ降ってきて、彼女の手を急かす。

ようやく一区切りついた頃、エレオノールは長く息を吐き、ようやくペンを置いた。

固まりきった肩がじんと痛む。両腕を上げて伸びをすると、背中の筋が小さく軋んだ。机上に散らばる原稿は、まだ濡れたインクを鈍く照り返している。


「……よし」


呟いた声は眠気に掠れていた。

大きなあくびを一つこぼし、そのまま寝台へ潜り込む。まぶたは重いのに、頭だけが冴えていた。


モーリスの件は順調だ。


少なくとも今の彼の関心は、ハルカではなく研究へ向いている。エレオノールが間に入り続ける限り、甘い空気になる余地は薄い。


ならば次だ。


将軍家の嫡男ヴァレル。宰相家の嫡男ユーベル。


正反対の二人の顔を思い浮かべる。


ヴァレルは一見、武そのものなのに、中身はオタク君見てる~?とか言いそうなイケメンチャラ男。


一方のユーベル。


こちらも容姿は整っているが、熱がない。切れ味の鋭い刃物のような美貌。誰に対しても礼儀正しく、誰にも踏み込ませない。女子たちは憧れても近づかず、遠巻きに眺めるだけ。


しかも婚約者持ち。


婚約者がいながらヒロインへ心を寄せる。ゲームというものは、つくづく都合がよろしい。


この世界では愛の有無など、婚約には関係ない。そこに恋が生まれるとも限らない。

少なくとも、自分とルイの間にはなかった。だからこそ彼はハルカへ惹かれている。


では、ユーベルは。


婚約者の名はナタリー・ベルナール。公爵家の次女。亜麻色の髪が印象的な、楚々とした美貌の持ち主だと記憶している。ゲームでは彼女は静かに身を引く役目だったという。


……なんて都合のいい当て馬。


天井を見上げたまま、小さく息をつく。


次に折るなら、どちらからか。


そう考えているうちに、意識は闇へ沈んだ。



翌朝。


鐘の音が容赦なく眠りを断ち切った。


「……まぶし……」


窓から差し込む朝日が、寝不足の目には暴力的だった。エレオノールは呻きながら起き上がり、冷水で顔を洗う。制服に袖を通し、鏡を見れば、そこには明らかな寝不足顔の王女がいた。


机の上には昨夜の原稿。

乾いた紙束を整え、鍵付きの引き出しへしまう。鍵の回る音が妙に大きく響いた。


何食わぬ顔で寮を出る。

学院までの道は短い。朝の空気は冷たく、歩くほどに頭が冴えていく。


「エレオノール様」


柔らかな声に呼び止められ、振り返る。

朝日に透ける亜麻色の髪。


ナタリー・ベルナールだった。


思わず瞬きをする。彼女の方から声をかけてくるなど予想していなかった。しかも表情は真剣そのものだ。


「……お話があります」


胸の奥が冷える。


何かしたか、と問われれば、した。

彼女の婚約者を、男同士の恋愛小説の参考資料にした。

……いつか刺されるとは思っていた。

血の気が引くのを感じながら、エレオノールは笑みを貼り付けた。


「な、何かしら?」


ナタリーは隣へ並び、歩調を合わせる。しばし迷った末、決意したように口を開いた。


「ミス・ヴィラン様の正体は……エレオノール様、ですよね?」


沈黙がそのまま肯定になった。


「すみません、カイラに……いえ、彼女は悪くないのです。私が問い詰めてしまって」


文芸部の同級生。責める気にはなれなかった。彼女の真剣な表情で追い詰められれば口も滑る。

そしてナタリーは、顔を赤くしながら本題を告げた。


「あの……ユーベル様は、本当は殿方がお好きなのですか?」


「……は?」


素で間抜けな声が出た。眼鏡がずれ、慌てて押し上げる。


「どういう意味かしら?」


「『氷のカーテン越しに口づけを』、拝読しました」


背中に冷たい汗が伝う。

ユーベルとヴァレルを下敷きにした新作。名指しはしていない。していないが。


「パトリックのモデルがユーベル様だと……噂で」


噂、立っているの!?


「い、いえ、あれはその……立ち位置が少し似ただけでして。決してユーベル殿が男色という意味ではなくてですわね。おほほ……」


笑い声が空回る。

だがナタリーは怒っていない。むしろ、ひどく不安そうだった。

エレオノールは横から彼女の顔を覗き込む。


「……何か、お悩みなの?」


そう問うと、彼女は視線を落とし、静かに打ち明けた。


「私は婚約者ですが……ユーベル様は、私を嫌っておいでのようで」


胸が少し痛んだ。


「私はあの方をお慕いしています。でも、目も合わせてくださらないのです」


ナタリーは指先を強く握りしめる。


「他に想う女性がいるのかとも考えました。けれど、誰とも親しくされない。……そんな時にあの物語を読んで、もしや、と」


なるほど。そこへ飛躍したのか。


「ユーベル殿にその気はないと思いますわ」


エレオノールははっきり言った。


「……そう、見えますか?」


「ええ」


攻略対象の一人なのだから――とは言えない。


ナタリーの表情が少しだけ緩む。


やがて彼女は声を潜めた。


「……あの物語のパトリックは、幸せになれますか?」


エレオノールは口元を上げる。


「あなたは、どうなってほしいの?」


「……幸せになってほしいです」


その答えに、エレオノールは満足げに頷いた。


「でしたら、きっとそうなりますわ」


そこで別れた。



それ以来、エレオノールはユーベルを観察するようになった。


廊下の角。図書室の窓際。講義室の最後列。視界の端へ常に彼を置く。


銀の髪を整然と結い、隙なく整った横顔。感情の揺れを感じさせないその姿から、生徒たちは彼をこう呼ぶ。


――白銀の彫像。


言い得て妙だった。


誰にも丁寧で、誰にも淡白。礼儀正しく、近づき難い。

相手の話は最後まで聞くが、自分のことは語らない。

問いには答える。だが、会話を“終わらせる方向”にしか返さない。


だが、見続ければ違いがあった。


まずルイ。王太子に対するそれは形式的な忠誠ではない。発言の前に視線を送り、決定には迷いなく従う。そこには信頼がある。


次にヴァレル。見るたび眉間に一瞬だけ皺が寄る。嫌悪が隠しきれていない。水と油だ。


そしてナタリー。

彼女の言う通り、視線は合わせない。会話も事務的。誰より冷たい。


――だが。


彼女が背を向けた時だけ、追う視線。

誰も見ていない時だけ、目元がわずかに緩む。

彼女に向ける声だけ、低い。


抑えているのではない。漏れている。


……どう見ても、好き避け。


氷像のくせに、中身は中学生男子ではないか。


エレオノールは腕を組み、深く頷いた。


これは折る案件ではない。押す案件だ。



昼下がりの図書館は静かだった。


高窓から差し込む光が、書架の影を床へ落としている。

その一角で、ユーベルが本棚の前に立っていた。背表紙を指でなぞる姿まで無駄がない。

エレオノールは背後へ忍び寄り、囁く。


「ナタリーが、不安がっていますよ」


びくり、と肩が揺れた。

人間味を見た。

振り返った時には、もう白銀の彫像へ戻っていたが。


「エレオノール様。……突然ですね」


「あなたが、他の方よりナタリーに冷たいと。相談を受けましたの」


眉が、ごくわずかに寄る。


「どなたから? 私は誰に対しても同じ態度で接しているつもりです」


「ええ。そうでしょうね」


エレオノールは微笑む。


「でも、彼女だけは違う。だってあなたはナタリーが大好きですもの」


耳が赤く染まった。

わかりやすい。


「……用件はそれだけですか」


声は冷たいが少し早口だ。


「いいえ。相談がありますの」


「相談?」


「ええ。フォルタ王国の魔力資源について」


その瞬間、彼の目がわずかに開いた。


食いついた。


エレオノールは唇の端を上げた。


「少し、お時間をいただけるかしら」


図書館の奥まった一角は、別世界のように静かだった。


高い書架に囲まれ、人の気配は遠い。話し声も足音も届かず、紙をめくる微かな音だけが時折空気を揺らす。


エレオノールはその席へユーベルを導き、向かい合って腰を下ろした。


彼は背筋を崩さず座り、こちらをじっと見ている。警戒心と好奇心が半々、といったところだろう。


その視線を受け流しながら、エレオノールは鞄の中から一冊の本を取り出した。


薄い本だった。


誤解のないように言えば、厚みが薄いという意味である。決して別種の情熱が詰まった薄い本ではない。


古びた紙に、角の擦れた装丁。使い込まれた年代物に見える――よう丹念に仕上げた自信作だ。


「これを見てほしいの」


該当の頁を開き、彼の前へ差し出す。


そこに記されているのは、フォルタ王国における魔力資源枯渇の危険性だった。


鉱脈の不安定化。

採掘域の暴走。

連鎖的な大規模爆発の可能性。


ユーベルの視線が素早く文字を追う。


――ここで疑われれば終わる。


普段の彼なら、出典を確認し裏を取る。


だが今は、その顔が少しずつ強張っていく。

やがて彼は顔を上げた。


「……これは、本当ですか?」


低く抑えた声だった。だが、平静の下に緊張がある。

エレオノールは重々しく頷いた。


「ええ。魔力資源の鉱脈は、王家に伝わる固有魔術――『鎮め』によって均衡を保っていますの」


指先で頁の一節をなぞる。


「それが途絶えれば、数年のうちに不安定化し、やがて大爆発を起こす。国土の一部が焦土になる可能性すらある、と」


ユーベルの喉が小さく動いた。

その反応を見て、エレオノールは内心で頷く。


やはりこの男は、危機に対して真っ先に責任を考える。


「私は、いずれレガリアへ嫁ぐ身です」


まっすぐに視線を合わせる。


「万が一があってからでは遅い。そう思えば、あなたには伝えておくべきだと判断しました」


「……なぜ、私に?」


探るような目だった。

単純に信じ込むほど愚かではない。そこが彼の長所であり、面倒なところでもある。


「あなたなら、どのような局面でも冷静に対処できるでしょう」


そして、静かに切り札を置いた。


「それに――あなたはルイ殿下を裏切らない」


眼鏡越しに、彼の表情を見つめる。


ユーベルは数秒黙った。


「……そうでしょうか」


やがて返ってきた声は、いつも通り無機質だった。


「私が何を考えているか、あなたに分かるのですか」


試すような問い。


エレオノールは鼻で笑った。


「あなた、自覚がないのね」


彼の眉がぴくりと動く。

面白いほど正直だ。


「意外と、顔に出ていますわよ」


「……」


反論はなかった。


無言のまま視線だけが鋭くなる。だが、それ以上は追及してこない。


エレオノールは本を閉じ、椅子から立ち上がった。


「レガリアとフォルタ」


本を脇に抱え、柔らかく微笑む。


「これからも仲良くやっていきましょう」


それだけ告げて、踵を返した。


背中に視線が刺さる。

だが振り返らない。ここで余計な言葉を足せば、せっかく撒いた餌が不自然になる。


図書館の扉を抜け、人気のない廊下へ出たところで、エレオノールはようやく息を吐いた。


手にした本を見下ろす。


――フォルタ国史。


もちろん、本物ではない。


彼女が幼い頃、兄とふざけて作った架空の歴史譚をもとに再構築した、由緒正しき偽書である。


紙は古紙を選び、角はわざと擦り、綴じ糸まで変えてある。読み込まれた年代物に見えるよう、細部まで手を入れた。


じっくり調べられれば危なかった。

だが、ユーベルは疑念より先に責任を取る男だ。そこへ賭けた。


「ふふ……」


笑みが漏れる。


前世で身につけた同人誌づくりの知識が、まさか国家間外交じみた工作に役立つとは思わなかった。人生、何が資産になるかわからない。


――物語は、人を動かすためにある。


そして、次の発想が胸を弾ませる。


これまで作品は原稿のまま渡していた。だが今後は違う。文芸部の同志たちに協力してもらい、装丁まで凝った冊子にするのも面白い。


表紙。題字。紙質。栞。


考えるだけで楽しい。


足取りが自然と軽くなる。


気づけばエレオノールの足は、小さく弾むように廊下を進んでいた。

誰も見ていないことを確認してから、彼女は満足げにスキップした。


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