物語は、人を動かす
下弦の月だけが窓の外に浮かび、寮の一室は深い夜に沈んでいた。
静寂を破るのは、紙を擦るペン先の音だけ。
エレオノールは机に身を乗り出したまま、ひたすら手を動かす。
書いているのはただの物語ではない。
いつか現実を動かすための、布石でもあった。
書き始めた物語は思った以上に勢いを持ち、登場人物たちは勝手に喋り、勝手に揉め、勝手に恋までし始める。
けれど、どこへ向かわせるかだけは、彼女が決めている。
――そろそろ寝るべきだわ。
理性は何度か忠告した。だが、そのたびに次の一文が頭へ降ってきて、彼女の手を急かす。
ようやく一区切りついた頃、エレオノールは長く息を吐き、ようやくペンを置いた。
固まりきった肩がじんと痛む。両腕を上げて伸びをすると、背中の筋が小さく軋んだ。机上に散らばる原稿は、まだ濡れたインクを鈍く照り返している。
「……よし」
呟いた声は眠気に掠れていた。
大きなあくびを一つこぼし、そのまま寝台へ潜り込む。まぶたは重いのに、頭だけが冴えていた。
モーリスの件は順調だ。
少なくとも今の彼の関心は、ハルカではなく研究へ向いている。エレオノールが間に入り続ける限り、甘い空気になる余地は薄い。
ならば次だ。
将軍家の嫡男ヴァレル。宰相家の嫡男ユーベル。
正反対の二人の顔を思い浮かべる。
ヴァレルは一見、武そのものなのに、中身はオタク君見てる~?とか言いそうなイケメンチャラ男。
一方のユーベル。
こちらも容姿は整っているが、熱がない。切れ味の鋭い刃物のような美貌。誰に対しても礼儀正しく、誰にも踏み込ませない。女子たちは憧れても近づかず、遠巻きに眺めるだけ。
しかも婚約者持ち。
婚約者がいながらヒロインへ心を寄せる。ゲームというものは、つくづく都合がよろしい。
この世界では愛の有無など、婚約には関係ない。そこに恋が生まれるとも限らない。
少なくとも、自分とルイの間にはなかった。だからこそ彼はハルカへ惹かれている。
では、ユーベルは。
婚約者の名はナタリー・ベルナール。公爵家の次女。亜麻色の髪が印象的な、楚々とした美貌の持ち主だと記憶している。ゲームでは彼女は静かに身を引く役目だったという。
……なんて都合のいい当て馬。
天井を見上げたまま、小さく息をつく。
次に折るなら、どちらからか。
そう考えているうちに、意識は闇へ沈んだ。
◇
翌朝。
鐘の音が容赦なく眠りを断ち切った。
「……まぶし……」
窓から差し込む朝日が、寝不足の目には暴力的だった。エレオノールは呻きながら起き上がり、冷水で顔を洗う。制服に袖を通し、鏡を見れば、そこには明らかな寝不足顔の王女がいた。
机の上には昨夜の原稿。
乾いた紙束を整え、鍵付きの引き出しへしまう。鍵の回る音が妙に大きく響いた。
何食わぬ顔で寮を出る。
学院までの道は短い。朝の空気は冷たく、歩くほどに頭が冴えていく。
「エレオノール様」
柔らかな声に呼び止められ、振り返る。
朝日に透ける亜麻色の髪。
ナタリー・ベルナールだった。
思わず瞬きをする。彼女の方から声をかけてくるなど予想していなかった。しかも表情は真剣そのものだ。
「……お話があります」
胸の奥が冷える。
何かしたか、と問われれば、した。
彼女の婚約者を、男同士の恋愛小説の参考資料にした。
……いつか刺されるとは思っていた。
血の気が引くのを感じながら、エレオノールは笑みを貼り付けた。
「な、何かしら?」
ナタリーは隣へ並び、歩調を合わせる。しばし迷った末、決意したように口を開いた。
「ミス・ヴィラン様の正体は……エレオノール様、ですよね?」
沈黙がそのまま肯定になった。
「すみません、カイラに……いえ、彼女は悪くないのです。私が問い詰めてしまって」
文芸部の同級生。責める気にはなれなかった。彼女の真剣な表情で追い詰められれば口も滑る。
そしてナタリーは、顔を赤くしながら本題を告げた。
「あの……ユーベル様は、本当は殿方がお好きなのですか?」
「……は?」
素で間抜けな声が出た。眼鏡がずれ、慌てて押し上げる。
「どういう意味かしら?」
「『氷のカーテン越しに口づけを』、拝読しました」
背中に冷たい汗が伝う。
ユーベルとヴァレルを下敷きにした新作。名指しはしていない。していないが。
「パトリックのモデルがユーベル様だと……噂で」
噂、立っているの!?
「い、いえ、あれはその……立ち位置が少し似ただけでして。決してユーベル殿が男色という意味ではなくてですわね。おほほ……」
笑い声が空回る。
だがナタリーは怒っていない。むしろ、ひどく不安そうだった。
エレオノールは横から彼女の顔を覗き込む。
「……何か、お悩みなの?」
そう問うと、彼女は視線を落とし、静かに打ち明けた。
「私は婚約者ですが……ユーベル様は、私を嫌っておいでのようで」
胸が少し痛んだ。
「私はあの方をお慕いしています。でも、目も合わせてくださらないのです」
ナタリーは指先を強く握りしめる。
「他に想う女性がいるのかとも考えました。けれど、誰とも親しくされない。……そんな時にあの物語を読んで、もしや、と」
なるほど。そこへ飛躍したのか。
「ユーベル殿にその気はないと思いますわ」
エレオノールははっきり言った。
「……そう、見えますか?」
「ええ」
攻略対象の一人なのだから――とは言えない。
ナタリーの表情が少しだけ緩む。
やがて彼女は声を潜めた。
「……あの物語のパトリックは、幸せになれますか?」
エレオノールは口元を上げる。
「あなたは、どうなってほしいの?」
「……幸せになってほしいです」
その答えに、エレオノールは満足げに頷いた。
「でしたら、きっとそうなりますわ」
そこで別れた。
◇
それ以来、エレオノールはユーベルを観察するようになった。
廊下の角。図書室の窓際。講義室の最後列。視界の端へ常に彼を置く。
銀の髪を整然と結い、隙なく整った横顔。感情の揺れを感じさせないその姿から、生徒たちは彼をこう呼ぶ。
――白銀の彫像。
言い得て妙だった。
誰にも丁寧で、誰にも淡白。礼儀正しく、近づき難い。
相手の話は最後まで聞くが、自分のことは語らない。
問いには答える。だが、会話を“終わらせる方向”にしか返さない。
だが、見続ければ違いがあった。
まずルイ。王太子に対するそれは形式的な忠誠ではない。発言の前に視線を送り、決定には迷いなく従う。そこには信頼がある。
次にヴァレル。見るたび眉間に一瞬だけ皺が寄る。嫌悪が隠しきれていない。水と油だ。
そしてナタリー。
彼女の言う通り、視線は合わせない。会話も事務的。誰より冷たい。
――だが。
彼女が背を向けた時だけ、追う視線。
誰も見ていない時だけ、目元がわずかに緩む。
彼女に向ける声だけ、低い。
抑えているのではない。漏れている。
……どう見ても、好き避け。
氷像のくせに、中身は中学生男子ではないか。
エレオノールは腕を組み、深く頷いた。
これは折る案件ではない。押す案件だ。
◇
昼下がりの図書館は静かだった。
高窓から差し込む光が、書架の影を床へ落としている。
その一角で、ユーベルが本棚の前に立っていた。背表紙を指でなぞる姿まで無駄がない。
エレオノールは背後へ忍び寄り、囁く。
「ナタリーが、不安がっていますよ」
びくり、と肩が揺れた。
人間味を見た。
振り返った時には、もう白銀の彫像へ戻っていたが。
「エレオノール様。……突然ですね」
「あなたが、他の方よりナタリーに冷たいと。相談を受けましたの」
眉が、ごくわずかに寄る。
「どなたから? 私は誰に対しても同じ態度で接しているつもりです」
「ええ。そうでしょうね」
エレオノールは微笑む。
「でも、彼女だけは違う。だってあなたはナタリーが大好きですもの」
耳が赤く染まった。
わかりやすい。
「……用件はそれだけですか」
声は冷たいが少し早口だ。
「いいえ。相談がありますの」
「相談?」
「ええ。フォルタ王国の魔力資源について」
その瞬間、彼の目がわずかに開いた。
食いついた。
エレオノールは唇の端を上げた。
「少し、お時間をいただけるかしら」
図書館の奥まった一角は、別世界のように静かだった。
高い書架に囲まれ、人の気配は遠い。話し声も足音も届かず、紙をめくる微かな音だけが時折空気を揺らす。
エレオノールはその席へユーベルを導き、向かい合って腰を下ろした。
彼は背筋を崩さず座り、こちらをじっと見ている。警戒心と好奇心が半々、といったところだろう。
その視線を受け流しながら、エレオノールは鞄の中から一冊の本を取り出した。
薄い本だった。
誤解のないように言えば、厚みが薄いという意味である。決して別種の情熱が詰まった薄い本ではない。
古びた紙に、角の擦れた装丁。使い込まれた年代物に見える――よう丹念に仕上げた自信作だ。
「これを見てほしいの」
該当の頁を開き、彼の前へ差し出す。
そこに記されているのは、フォルタ王国における魔力資源枯渇の危険性だった。
鉱脈の不安定化。
採掘域の暴走。
連鎖的な大規模爆発の可能性。
ユーベルの視線が素早く文字を追う。
――ここで疑われれば終わる。
普段の彼なら、出典を確認し裏を取る。
だが今は、その顔が少しずつ強張っていく。
やがて彼は顔を上げた。
「……これは、本当ですか?」
低く抑えた声だった。だが、平静の下に緊張がある。
エレオノールは重々しく頷いた。
「ええ。魔力資源の鉱脈は、王家に伝わる固有魔術――『鎮め』によって均衡を保っていますの」
指先で頁の一節をなぞる。
「それが途絶えれば、数年のうちに不安定化し、やがて大爆発を起こす。国土の一部が焦土になる可能性すらある、と」
ユーベルの喉が小さく動いた。
その反応を見て、エレオノールは内心で頷く。
やはりこの男は、危機に対して真っ先に責任を考える。
「私は、いずれレガリアへ嫁ぐ身です」
まっすぐに視線を合わせる。
「万が一があってからでは遅い。そう思えば、あなたには伝えておくべきだと判断しました」
「……なぜ、私に?」
探るような目だった。
単純に信じ込むほど愚かではない。そこが彼の長所であり、面倒なところでもある。
「あなたなら、どのような局面でも冷静に対処できるでしょう」
そして、静かに切り札を置いた。
「それに――あなたはルイ殿下を裏切らない」
眼鏡越しに、彼の表情を見つめる。
ユーベルは数秒黙った。
「……そうでしょうか」
やがて返ってきた声は、いつも通り無機質だった。
「私が何を考えているか、あなたに分かるのですか」
試すような問い。
エレオノールは鼻で笑った。
「あなた、自覚がないのね」
彼の眉がぴくりと動く。
面白いほど正直だ。
「意外と、顔に出ていますわよ」
「……」
反論はなかった。
無言のまま視線だけが鋭くなる。だが、それ以上は追及してこない。
エレオノールは本を閉じ、椅子から立ち上がった。
「レガリアとフォルタ」
本を脇に抱え、柔らかく微笑む。
「これからも仲良くやっていきましょう」
それだけ告げて、踵を返した。
背中に視線が刺さる。
だが振り返らない。ここで余計な言葉を足せば、せっかく撒いた餌が不自然になる。
図書館の扉を抜け、人気のない廊下へ出たところで、エレオノールはようやく息を吐いた。
手にした本を見下ろす。
――フォルタ国史。
もちろん、本物ではない。
彼女が幼い頃、兄とふざけて作った架空の歴史譚をもとに再構築した、由緒正しき偽書である。
紙は古紙を選び、角はわざと擦り、綴じ糸まで変えてある。読み込まれた年代物に見えるよう、細部まで手を入れた。
じっくり調べられれば危なかった。
だが、ユーベルは疑念より先に責任を取る男だ。そこへ賭けた。
「ふふ……」
笑みが漏れる。
前世で身につけた同人誌づくりの知識が、まさか国家間外交じみた工作に役立つとは思わなかった。人生、何が資産になるかわからない。
――物語は、人を動かすためにある。
そして、次の発想が胸を弾ませる。
これまで作品は原稿のまま渡していた。だが今後は違う。文芸部の同志たちに協力してもらい、装丁まで凝った冊子にするのも面白い。
表紙。題字。紙質。栞。
考えるだけで楽しい。
足取りが自然と軽くなる。
気づけばエレオノールの足は、小さく弾むように廊下を進んでいた。
誰も見ていないことを確認してから、彼女は満足げにスキップした。




