戦う理由を、消してしまえば
二度目の聖女特別授業の日、教室にはまだ穏やかな午後の光が満ちているのに、エレオノールの胸中だけが落ち着かなかった。
モーリスはまだ来ていない。
窓辺から差し込む明るさが机の角を白く照らし、空気中の細かな塵まで見せている。
机を寄せ合ったまま、エレオノールとハルカだけが教室にいた。
「ねぇ」
ハルカが声を潜め、机越しに身を寄せてくる。
「この前の雑音石だっけ? モーリスに取り上げられたままなの?」
「そう。危ないからって」
肩をすくめてみせると、ハルカの眉はさらに下がった。
「フラグを折るどころか、危険人物認定されてない?」
「たぶん大丈夫よ」
そう答えながら、内心では少しだけ自信がなかった。
あそこまで強烈な反応になるとは、正直想定していなかった。
魔力には整った波長がある。ならば外側から乱せば、指輪の追跡機能にも干渉できるのではないか――そんな軽い発想だったのだ。
結果は、魔法師二人が耳を押さえてうずくまる惨状である。
「でも、撹乱できる可能性は見えたでしょう?」
「うん……でも耳が取れるかと思った」
「改良するわ」
言い切ったところで、扉が開いた。
金具の鳴る乾いた音に、二人の会話がぴたりと止まる。
入ってきたモーリスは、いつも以上に機嫌が悪そうだった。無表情なのに不機嫌とわかるのだから、ある意味わかりやすい。
教壇へ向かうかと思いきや、まっすぐエレオノールの机の前まで来る。
「なんなんですか、これは」
開口一番、机の上へ置かれたのは雑音石と、“置き忘れた”ノートだった。
エレオノールは首を傾げる。
「なに、とは?」
「これです」
彼は雑音石を指先で軽く叩いた。
「分解して内部構造を確認しました。どうしたらこんなでたらめなものができるんですか?」
「でたらめとは失礼ね」
「逆に高度な理論が隠れているのかと疑いましたよ。ですが整合性が皆無だ」
少し早口だった。
感情の起伏を表に出さない男が、珍しく苛立ちを滲ませている。
「適当に作ったから……」
ぽつりと告げると、モーリスが止まった。
「……本当に、適当に?」
「ええ」
「だとしたら」
彼は額に手を当てる。
「理論もなく偶然でこの振動を生み出したということですか。こんな危険物を?」
「結果的に危険になっただけよ」
「だけで済ませないでください」
怒りを抑えた声音だった。
それが妙に可笑しくて、エレオノールは少し口元を緩める。
モーリスは雑音石を見下ろしたまま、低く何かを呟き始めた。
「不純物の混合率……いや、格子構造が崩れている。なのに振動だけ維持される理屈が――」
完全に研究者の顔だった。
警戒も牽制も忘れ、対象物に没頭している。
その隙にノートへ手を伸ばすと、彼の視線が素早く移る。先に取ったのはモーリスのほうだった。
無遠慮にページをめくる。
「……魔力を持たず迫害されていた人間が、脳への干渉を契機に力を得る。周囲に認められる一方、その強さゆえ孤立していく――あなたの創作ですか?」
あらすじまで把握している。
思った以上に読んでいるではないか。
少し感動しながら、エレオノールは頷いた。
「あなたは、魔力が人為的に生まれると考えているのですか」
探るような目だった。
「そんなこともあるかもしれない、という想像ですわ。あくまで物語の中の話」
「この石といい、この内容といい……」
ノートを閉じる音が教室に響く。
「魔力がなくても魔法に対抗できると暗に示している。まるで僕への宣戦布告だ」
エレオノールは目を瞬いた。
そこまで受け取るのか。
けれど同時に、腑に落ちる。
孤独な天才。力ゆえに理解されず、周囲と断絶している男。
ノートの主人公に、自分を重ねたのだろう。
「そんなつもりはありません」
穏やかに言う。
「私はただ、ハルカの助けになりたいだけ。ノートも空想を書き留めただけですわ。誰かに見せるつもりはありませんでしたのに」
勝手に読んだのはあなたでしょう、と遠回しに刺す。
モーリスはわずかに視線を逸らした。
効いたらしい。
エレオノールは立ち上がり、彼と向き合う。
「モーリス。私は魔力の有無で人を測りません。私自身、ほとんど魔力を持たないもの」
その言葉に、彼の瞳がかすかに揺れた。
「それでも、できることはあるわ。……協力してほしいの」
「……協力?」
警戒と興味が同時に滲む声。
「ええ。聖女の力を、魔道具に変えられないかと考えています」
「聖女の力を?」
初めて、明確な動揺が見えた。
「魔道具化できれば、今後“聖女召喚”なんて危険な儀式を繰り返さずに済むかもしれない」
視線を逸らさずに告げる。
「あなたは召喚のあと、一週間寝込んだと聞きました」
彼が沈黙する。
事実なのだろう。
「ハルカも協力してくれると」
視線を向けると、ハルカは力強く頷いた。
モーリスの視線がその姿に止まる。計算ではなく、可能性を見る目だった。
恋愛ではなく、依存でもなく、共同研究。
それならこの男とも対等に並べる。
「私の発想と、ハルカの力。そしてあなたの知識と魔力」
エレオノールは笑みを浮かべて言った。
「できそうな気がしません?」
やがて、モーリスの口元がわずかに緩む。
氷の表面がほんの少し溶けたような、初めて見る自然な笑みだった。
「あなたの発想はともかく……聖女の魔道具、ですか」
目の奥に灯ったのは、純粋な知的好奇心だった。
「面白そうだ」
その瞬間、彼は頼れる協力者へと位置を変えた。
ハルカが訓練を受ける横で、エレオノールは窓の外を見ながら考える。
聖女の仕事――。
レガリア国内に張り巡らされた結界の維持。
回復薬のポーションを遥かに上回る癒しの力。
そして、戦場へ兵を戻し続けるための力。
レガリアが聖女を欲しがる理由。
それは癒しか、破壊か。
聖女の力は純度が高く、干渉力も強い。使い方次第では兵器になる。
レガリアが喉から手が出るほど欲しがる力だ。
けれどハルカは、それを望まない。
なら必要なのは、防御。
誰も傷つけず、誰も傷つかない形。
「うぅ……」
考え込みすぎて机に突っ伏すと、冷えた声が飛んだ。
「授業の妨げです」
モーリスだった。
「退室していただきますよ」
エレオノールはぴたりと止まる。
術式は乱せる。
聖女の波形は増幅できる。
魔法は心に強く影響されるという。
「あっ!」
教壇から深いため息。
はい、すみません。
両手を合わせて謝罪しながらも、思考は止まらない。
雑音石。
術式を乱す、あの不協和音のように。
戦場そのものを無力化できないか。
攻撃魔法も、防御魔法も、興奮も、殺意も。
すべて鎮めてしまえばいい。
戦う理由ごと薄めてしまえば。
授業が終わるや否や、エレオノールは椅子を引いた。
「ねぇ、聞いて」
思いつきを一気に話す。
ハルカは少し不安そうに眉を寄せた。
「でも、私にそんな力あるかな」
「あるわ。それに増幅用の魔石もあるでしょう?」
モーリスが顔を上げる。
エレオノールは勢いのまま続けた。
「聖女の波形を増幅して、戦場の術式全部に上書きするの。攻撃も、防御も、戦意も」
平穏へ書き換える、強制停止。
モーリスは顎に手を当て、長く黙った。
「……できるな」
その一言に、胸が跳ねる。
「そのためにも、まず」
彼の視線がハルカへ向く。
「聖女の力を安定させる必要があります」
「私は何をすればいいの?」
「特別なことは不要です。訓練を継続してください。それと、精神状態を安定させること。魔法は心に強く影響されます」
ハルカは真剣に頷いた。
「わかりました」
エレオノールは指を折って整理する。
「癒しの力はポーション化できるわよね?」
「ええ。最上級品になるでしょう。そちらも研究対象です」
よし。
残る問題は一つ。
「モーリス。聖女の心の安定のためにも、その指輪なんとかならない?」
「無理です」
刃物のように鋭い拒否。
さすがに王命までは覆せない。
保留だ。
ハルカを見ると、彼女は小さく頷いた。
不安は消えていない。
それでもハルカは、もう逃げる顔をしていなかった。
その夜、ミス・ヴィランは書き続けた。
翌朝、あの令嬢に呼び止められるとは知らずに。




