その運命が、動き出す
その夜、ハルカの私室を訪れる者があった。
就寝前の支度を終え、侍女たちもすでに下がっている時間だった。室内には卓上灯の柔らかな光だけが残り、窓の外では夜風が枝葉を揺らしている。
不意に、窓辺のカーテンがかすかに動いた。
ハルカが顔を上げるより早く、黒衣の人物が音もなく室内へ入り込む。
「――あなたは」
問いかけようとした瞬間、相手は人差し指を唇の前へ立てた。
「このような形での訪問、非礼は承知しております。しかし一刻を争う状況ゆえ、ご容赦ください」
低く抑えた声だった。
そのまま片膝をつき、深く頭を垂れる。
「聖女様に、お頼みしたいことがございます」
「頼み……?」
ハルカの肩に力が入る。
男は扉の方へ軽く目をやり、人の気配がないことを確かめてから続けた。
「エレオノール様の処遇は、まだ正式には決定しておりません。ですがジョエル殿下は、ご自身の領地で預かる案を進めておられます」
背筋に冷たいものが走った。
「それって……閉じ込めるってことじゃないの?」
「言葉の上では保護でしょう。実際には監視に近いものになるかと」
感情を交えない説明が、かえって現実味を帯びる。
「もちろん、ルイ殿下が退けられました。しかし今後も同じとは限りません。王都から遠ざける案は他にも存在します。国外追放も、その一つです」
「そんな……!」
思わず高くなった声に、男は静かに首を振った。
「どうか、お声を抑えてください」
その口調には責める響きはなかった。
「お尋ねします。エレオノール様が穏やかに暮らせるのであれば、その場所はどこでも構いませんか」
「……何を言いたいの?」
「アンフェルス国なら、あの方の身は守られます」
その国名に、ハルカは眉を寄せた。
――アンフェルス? 知識としてはあった。詳しいことは知らない。ただ、国交がなく、閉ざされた竜の国とだけ聞いたことはある。
そんなところで、エレオノールが本当に守られるのだろうか。
「……どうして、そんなふうに言い切れるの」
「詳しい事情は申し上げられません。当然、疑われても仕方がない立場です。ですが私は、主君の命に従い、あの方を生かさねばならない」
そこで男は短く息を継ぐ。
「できることなら、アンフェルスへと」
主君。
その言葉に、ハルカの胸が小さくざわついた。
――ルイではない。では、この男は誰の命で動いているのか。
「……あなたの主人って、誰なの」
「今はお答えできません」
返答には迷いがなかった。
「聖女様からルイ殿下へお伝えいただきたいのです。アンフェルスへの追放こそ、最も安全な道だと」
「私から……?」
つまり、ルイへ直接働きかけろということだ。
ハルカは相手の顔を見つめた。黒布に隠されて表情は判然としない。それでも、軽い気持ちでここへ来たのではないと伝わってくる。
「……本当に、そこへ行けばエレオノールは幸せになれるの?」
男は即座に頷いた。
「はい。あの方を、あれほど強く望む方を……私は他に知りません」
「……え?」
男はそれ以上を語らなかった。
誰のことを言っているのか、問い返そうとする間もなかった。
男は懐へ手を差し入れ、小さく折り畳まれた羊皮紙を取り出す。表面には複雑な紋様が刻まれていた。
次の瞬間、もう片方の手に握った短剣で、自らの指先を浅く裂く。
男は顔色一つ変えなかった。
赤い雫が羊皮紙へ落ちると、紋様が鈍い光を帯びる。
ハルカは息を呑んだ。
脳裏に、モーリスの声が蘇る。
――「覚える必要はありません。ただ、存在だけ知っていてください」
禁術契約。
血を媒介に、自身を担保として誓約を結ぶ古い術式。破れば代償は契約者へ返る。軽い代価では済まない。
「こちらをお預けいたします」
差し出された羊皮紙には、まだ乾ききらない血が滲んでいた。
「もしエレオノール様がアンフェルスで不利益を被ったなら……私の命も地位も、あなたの裁量に委ねます」
ハルカの震える指先が、薄い紙を受け取る。
だが、その重みは人ひとり分どころではなかった。
「そこまでして……本気なの?」
「はい」
その潔さに、かえって言葉を失う。
「どうして、私なの?」
「あなたを通すのが、一番自然です。それに……私から言うと、怪しまれてしまうので」
男の口端が、少しだけ上がった。
そのとき、廊下側から扉を叩く音が響いた。
ハルカの肩が跳ねる。
「ハルカ、私だ」
聞き慣れたルイの声だった。
反射的に入口へ目を向け、すぐに窓辺へ戻すと、吹き込んだ夜風が白いカーテンを揺らしていた。
そこにいたはずの人物は、もう消えている。
冷えた山の空気を思わせる、遠い土地の匂いがかすかに残されていた。
「……ハルカ? 入るぞ」
返事を待たず、扉が開いた。
ハルカは窓辺に立っていた。夜気を入れていたのか、片側の窓が細く開いている。ルイの声に肩を揺らし、慌てて掛け金へ手を伸ばした。外へ向けていた顔を戻す動きが、どこかぎこちない。
「どうした?」
窓辺に残る冷たい空気まで悟られた気がして、鼓動が跳ねた。
「何でもありません」
できるだけ平静を装って答える。
ルイは室内を見回したあと、何かを考えるように口を閉ざした。問い詰められるかと思ったが、それ以上は聞いてこなかった。
「……そうか」
ルイが長椅子へ腰を下ろし、ハルカも隣へ座った。以前なら向かい合っていた距離なのに、今では自然と隣を選んでしまう。そんな変化を意識すると、少しだけ落ち着かなくなった。
沈黙ののち、ルイが口を開いた。
「エレオノールの件だが、ジョエルが自領へ移す案を出した」
すでに聞いていた話だった。それでも、改めてルイの口から告げられると、膝の上で重ねた手に自然と力がこもる。
「決定ではない。まだ審議中だ。参考人として呼ばれた侯爵夫人が、場を収めてくれた」
それを聞いても安心しきれない。
ジョエルの名を聞くだけで、地下牢へ閉じ込められたエレオノールの姿が頭をよぎる。
ふと、ルイの目が机の上の魔道具へ向けられた。
「……それと、『悪役令嬢の選択』。あれは君の仕業だな?」
観念して頷く。
「はい」
「やはりか。君が書いたのか?」
「いいえ。エレオノールが残したものに、別の人が手を加えました」
「なるほどな」
ルイは苦笑した。呆れと感心が半分ずつ混ざったような顔だった。
「たとえ物語でも、エレオノールなら自分をああいう形にはしないだろう」
その言葉に、ちゃんと分かる人には分かるのだ、と少しだけ救われた気がした。
「民衆にまで広がっている。おかげでジョエルの案は押し切られずに済んだ。世論を敵に回してまで進めるには、あまりに露骨だからな」
「よかった……」
自然と零れた声だったが、ルイの表情はまだ晴れていない。
「問題は、その先だ」
ルイは肘を膝へ置き、組んだ指へ力を込める。
「国外退去の流れ自体は変わらない。処罰なしで王都へ残すには、危険が多すぎる」
ハルカは唇を結んだ。
「受け入れ先って、そんなに難しいんですか」
「フォルタ王女という立場が厄介なんだ」
ルイは静かに説明をする。
「有力国が引き取れば、レガリアへの牽制札になる。国内の有力貴族へ預ければ、今度は王家への火種だ。誰の手元へ置いても政治利用される」
「……フォルタへ帰すことは?」
ルイは首を横へ振った。
「できない。資源供給は国家運営に直結している。彼女を帰した直後に交渉が止まれば混乱するし、止まらなかったとしても、“王女の機嫌次第で左右される”と周囲は受け取るだろう」
苦いものを飲み込むように、ルイは続けた。
「王家が、それを許容するはずがない」
「……誰も、エレオノールを人として見てないのね」
ルイは苛立ちを隠すように、拳を握りしめる。
「否定はできない。彼女も、俺も、そういう立場だ」
返す言葉が見つからなかった。
理屈は理解できる。
だからこそ苦しい。本人の意思より、立場と利害ばかりが先に語られていく、この世界が。
「だからジョエルの領地案に賛同する者もいた。表向きは保護。実際は棚上げだ。何年でも先送りできる」
地下牢よりましだと言われても、未来のない場所に変わりはない。
「……そんな場所、エレオノールが幸せになれるはずがない」
ルイは苦り切った表情で頷いた。
「私もそう思う」
ハルカは膝の上でスカートをつまむ。
胸の内で何度か言葉を組み立て、それでもうまくまとまらないまま口を開いた。
「……アンフェルス国、という選択肢はありませんか」
ルイの眉が片方だけ上がった。
「アンフェルス?」
山岳と断崖に囲まれた隣国。
竜の棲む森に守られ、他国の軍すら容易には踏み込めない。交易路は限られ、外に流れ込む情報も少ないため、王都では半ば伝説のように語られることさえある。
そんな国の名を、自分が口にした。
ハルカは今さらながら喉が渇くのを感じた。
「なぜそこが出てくる?」
問い返され、言葉が詰まる。
黒衣の人物のことは話せない。
禁術契約まで差し出した相手を、軽々しく売るわけにはいかなかった。
「……その……」
重苦しい空気が漂う。
ルイは急かさなかったが、それが余計に苦しい。
苦し紛れに考えた末、ハルカは真顔のまま答えた。
「……聖女の勘、です」
言ったあとで、自分でも無茶だと思った。
案の定、ルイは言葉を失っている。
けれど、笑い飛ばすこともしなかった。
呆れたように息を吐き、それから肩を揺らす。
「君は、とんでもないことを平然と言うな」
「すみません……」
顔を伏せかけたところで、ルイが小さく首を振った。
「いや」
額へ手を当て、苦笑する。
「だが、君がそう言うなら考える価値はある」
ハルカは思わず顔を上げた。
「信じてくれるんですか?」
「根拠もなく、君があの国の名前を出すとは思えない」
その言葉に、胸のつかえが少しだけ取れた。
全部を話せなくても、信じようとしてくれているのだと分かった。
ルイは窓の外へ目を向けながら続ける。
「確かにアンフェルスなら、他国の思惑から距離を置ける。王家としても“王都から遠ざけた”形にはなる。理屈は通るな」
立ち上がった彼の背を見つめながら、ハルカも後を追うように腰を上げた。
窓の外には深い夜が広がっている。
王宮の灯りだけが、遠く石畳を淡く照らしていた。
「……ただ、エレオノールが納得するかどうかだ」
誇り高い彼女が、追われるように異国へ渡る道を受け入れるのか。
黒衣の人物の言葉を思い出す。
――「あの方を、あれほど強く望む方を……私は他に知りません」
男の言葉は嘘には思えなかった。
ただ、それがエレオノールを幸せにできるのか、今のハルカにはわからない。
それでも――。
「エレオノールなら、大丈夫です」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
「どこへ行っても、生きる方法を見つけます。紙とペンさえあれば」
ルイが吹き出すように笑う。
「彼女らしい評価だな」
「褒めてます」
「分かっているさ」
穏やかな声だった。
そのあと、ルイの手がそっと伸びる。
包み込むように握られた指先から、言葉にしない不安が伝わってくる。
ハルカはその手を、励ますように握り返した。
「明日、提言してみよう」
ハルカは深く頷いた。
「お願いします」
「ああ」
ルイは扉へ向かい、途中で足を止める。
振り返った先で、ハルカは胸元へ手を当てていた。
まるで大切なものを隠すような仕草だった。
禁術契約の羊皮紙。
まだ服の内側にしまったままのそれが、微かな熱を持っている気がする。
ルイは何も聞かなかった。
ただ静かに扉を開け、そのまま部屋を後にした。
♢
前日の夜の提案が、翌日の議場で実行された。
議場には重苦しい空気が、深く覆っている。
重臣たちは互いの顔色を窺いながら、慎重に言葉を選ぶ。軽々しく口を開けば、それだけで立場を誤りかねない。そんな緊張が場の隅々まで染み込んでいた。
その沈黙を破ったのは、ルイだった。
「エレオノール・メルダの処遇について、一つ提案がある」
落ち着いた声が、広間へ響く。
集まった注目を正面から受け止めたまま、彼は続けた。
「アンフェルス国への追放だ」
議場が大きく波打った。
「アンフェルス国ですと!?」
「あの竜の国へ送るおつもりか……」
驚きと困惑が広がる中、ルイは表情を変えない。
「我が国とも他国とも距離を置いている国だ。政治利用の余地が少ない。王家に対して利用される余地もない」
理にかなってはいる。
だからこそ、誰も即座に否定できなかった。
ジョエルが椅子へ深く身を預け、口元に笑みを浮かべる。
「追放というより、死地への放逐ではありませんか?」
「彼女に安穏な余生を保証する必要はない」
感情を削ぎ落としたような返答だった。
ジョエルは面白そうに兄を見る。
「ずいぶん割り切られましたね。どういう心境の変化です?」
ルイは応じなかった。
議場に戸惑いが残る中、宰相が現実的な問題へ触れる。
「フォルタ王国からの反応は」
「現状は抗議のみです。軍事的行動へ移る兆候は確認されておりません」
簡潔な報告だった。
だが、この問題が国境を越える火種になり得ることは、誰もが理解している。
「……とはいえ、静観が続く保証もない」
宰相の低い呟きに、返答はなかった。
時間をかければ、そのぶん状況は悪化する。
先延ばしにできる段階ではない。
エレオノールは、ただの令嬢ではない。
フォルタ王国の王女であり、資源外交にも関わる存在だ。国内だけの理屈で処理できる問題ではないことを、議場にいる全員が改めて突きつけられていた。
宰相がゆっくりと顔を上げる。
「……陛下へ上奏を」
異論を唱える者はいなかった。
ほどなくして大扉が開き、国王が姿を現す。
その場にいた全員が立ち上がり、一斉に頭を垂れた。
王は何も語らぬまま高座へ進み、静かに腰を下ろす。
「楽にせよ」
言葉に従い、臣下たちも席へ戻った。
宰相がここまでの経緯を簡潔に報告する。
国内で広がる世論。フォルタ王国からの抗議。そしてアンフェルス国追放案。
王は最後まで口を挟まず聞き終えると、ゆっくりとルイへ目を向けた。
「……なぜ、アンフェルス国だ」
「フォルタへ帰せば、彼女は王女として保護されます。国内へ留めれば、王家内部の火種となる。第三国であり、なおかつ容易に介入できぬ土地――条件を満たすのは、あの国しかありません」
「移送路は」
「バイス公国経由です」
再び場内がざわめいた。
バイス公国。
レガリアの属国であり、険しい山岳地帯を治める小国だ。
「アンフェルスへ入る正規ルートは、フォルタ国側から川を遡上する一本のみ。これを避けるには、バイス公国経由の隧道だけです」
王の眼差しが鋭さを帯びた。
「生きて戻れぬ道とも聞くが」
「だからこそ、奪還も干渉も困難になります」
ルイは退かなかった。
王は口を閉ざしたまま、議場を見渡す。
反対する者はいない。
賛同する者もまたいなかった。
誰もが、この決断の責任を負いたくないのだ。
長い沈黙のあと、王は感情を削ぎ落とした声で告げた。
「エレオノール・メルダは王族待遇を剥奪し、国外追放とする。移送先はアンフェルス国。以後、レガリア王国への入国を禁ずる」
その宣告に、ジョエルは静かに目を細めた。
宰相は無表情のまま沈黙し、諸侯たちは息を殺す。
ただ一人、ルイだけが卓の下で強く拳を握り締めていた。




