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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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34/35

その運命が、動き出す

その夜、ハルカの私室を訪れる者があった。


就寝前の支度を終え、侍女たちもすでに下がっている時間だった。室内には卓上灯の柔らかな光だけが残り、窓の外では夜風が枝葉を揺らしている。


不意に、窓辺のカーテンがかすかに動いた。


ハルカが顔を上げるより早く、黒衣の人物が音もなく室内へ入り込む。


「――あなたは」


問いかけようとした瞬間、相手は人差し指を唇の前へ立てた。


「このような形での訪問、非礼は承知しております。しかし一刻を争う状況ゆえ、ご容赦ください」


低く抑えた声だった。

そのまま片膝をつき、深く頭を垂れる。


「聖女様に、お頼みしたいことがございます」


「頼み……?」


ハルカの肩に力が入る。

男は扉の方へ軽く目をやり、人の気配がないことを確かめてから続けた。


「エレオノール様の処遇は、まだ正式には決定しておりません。ですがジョエル殿下は、ご自身の領地で預かる案を進めておられます」


背筋に冷たいものが走った。


「それって……閉じ込めるってことじゃないの?」


「言葉の上では保護でしょう。実際には監視に近いものになるかと」


感情を交えない説明が、かえって現実味を帯びる。


「もちろん、ルイ殿下が退けられました。しかし今後も同じとは限りません。王都から遠ざける案は他にも存在します。国外追放も、その一つです」


「そんな……!」


思わず高くなった声に、男は静かに首を振った。


「どうか、お声を抑えてください」


その口調には責める響きはなかった。


「お尋ねします。エレオノール様が穏やかに暮らせるのであれば、その場所はどこでも構いませんか」


「……何を言いたいの?」


「アンフェルス国なら、あの方の身は守られます」


その国名に、ハルカは眉を寄せた。


――アンフェルス? 知識としてはあった。詳しいことは知らない。ただ、国交がなく、閉ざされた竜の国とだけ聞いたことはある。

そんなところで、エレオノールが本当に守られるのだろうか。


「……どうして、そんなふうに言い切れるの」


「詳しい事情は申し上げられません。当然、疑われても仕方がない立場です。ですが私は、主君の命に従い、あの方を生かさねばならない」


そこで男は短く息を継ぐ。


「できることなら、アンフェルスへと」


主君。


その言葉に、ハルカの胸が小さくざわついた。


――ルイではない。では、この男は誰の命で動いているのか。


「……あなたの主人って、誰なの」


「今はお答えできません」


返答には迷いがなかった。


「聖女様からルイ殿下へお伝えいただきたいのです。アンフェルスへの追放こそ、最も安全な道だと」


「私から……?」


つまり、ルイへ直接働きかけろということだ。


ハルカは相手の顔を見つめた。黒布に隠されて表情は判然としない。それでも、軽い気持ちでここへ来たのではないと伝わってくる。


「……本当に、そこへ行けばエレオノールは幸せになれるの?」


男は即座に頷いた。


「はい。あの方を、あれほど強く望む方を……私は他に知りません」


「……え?」


男はそれ以上を語らなかった。


誰のことを言っているのか、問い返そうとする間もなかった。

男は懐へ手を差し入れ、小さく折り畳まれた羊皮紙を取り出す。表面には複雑な紋様が刻まれていた。

次の瞬間、もう片方の手に握った短剣で、自らの指先を浅く裂く。


男は顔色一つ変えなかった。


赤い雫が羊皮紙へ落ちると、紋様が鈍い光を帯びる。


ハルカは息を呑んだ。

脳裏に、モーリスの声が蘇る。


――「覚える必要はありません。ただ、存在だけ知っていてください」


禁術契約。


血を媒介に、自身を担保として誓約を結ぶ古い術式。破れば代償は契約者へ返る。軽い代価では済まない。


「こちらをお預けいたします」


差し出された羊皮紙には、まだ乾ききらない血が滲んでいた。


「もしエレオノール様がアンフェルスで不利益を被ったなら……私の命も地位も、あなたの裁量に委ねます」


ハルカの震える指先が、薄い紙を受け取る。

だが、その重みは人ひとり分どころではなかった。


「そこまでして……本気なの?」


「はい」


その潔さに、かえって言葉を失う。


「どうして、私なの?」


「あなたを通すのが、一番自然です。それに……私から言うと、怪しまれてしまうので」


男の口端が、少しだけ上がった。


そのとき、廊下側から扉を叩く音が響いた。


ハルカの肩が跳ねる。


「ハルカ、私だ」


聞き慣れたルイの声だった。


反射的に入口へ目を向け、すぐに窓辺へ戻すと、吹き込んだ夜風が白いカーテンを揺らしていた。

そこにいたはずの人物は、もう消えている。

冷えた山の空気を思わせる、遠い土地の匂いがかすかに残されていた。


「……ハルカ? 入るぞ」


返事を待たず、扉が開いた。


ハルカは窓辺に立っていた。夜気を入れていたのか、片側の窓が細く開いている。ルイの声に肩を揺らし、慌てて掛け金へ手を伸ばした。外へ向けていた顔を戻す動きが、どこかぎこちない。


「どうした?」


窓辺に残る冷たい空気まで悟られた気がして、鼓動が跳ねた。


「何でもありません」


できるだけ平静を装って答える。

ルイは室内を見回したあと、何かを考えるように口を閉ざした。問い詰められるかと思ったが、それ以上は聞いてこなかった。


「……そうか」


ルイが長椅子へ腰を下ろし、ハルカも隣へ座った。以前なら向かい合っていた距離なのに、今では自然と隣を選んでしまう。そんな変化を意識すると、少しだけ落ち着かなくなった。


沈黙ののち、ルイが口を開いた。


「エレオノールの件だが、ジョエルが自領へ移す案を出した」


すでに聞いていた話だった。それでも、改めてルイの口から告げられると、膝の上で重ねた手に自然と力がこもる。


「決定ではない。まだ審議中だ。参考人として呼ばれた侯爵夫人が、場を収めてくれた」


それを聞いても安心しきれない。

ジョエルの名を聞くだけで、地下牢へ閉じ込められたエレオノールの姿が頭をよぎる。


ふと、ルイの目が机の上の魔道具へ向けられた。


「……それと、『悪役令嬢の選択』。あれは君の仕業だな?」


観念して頷く。


「はい」


「やはりか。君が書いたのか?」


「いいえ。エレオノールが残したものに、別の人が手を加えました」


「なるほどな」


ルイは苦笑した。呆れと感心が半分ずつ混ざったような顔だった。


「たとえ物語でも、エレオノールなら自分をああいう形にはしないだろう」


その言葉に、ちゃんと分かる人には分かるのだ、と少しだけ救われた気がした。


「民衆にまで広がっている。おかげでジョエルの案は押し切られずに済んだ。世論を敵に回してまで進めるには、あまりに露骨だからな」


「よかった……」


自然と零れた声だったが、ルイの表情はまだ晴れていない。


「問題は、その先だ」


ルイは肘を膝へ置き、組んだ指へ力を込める。


「国外退去の流れ自体は変わらない。処罰なしで王都へ残すには、危険が多すぎる」


ハルカは唇を結んだ。


「受け入れ先って、そんなに難しいんですか」


「フォルタ王女という立場が厄介なんだ」


ルイは静かに説明をする。


「有力国が引き取れば、レガリアへの牽制札になる。国内の有力貴族へ預ければ、今度は王家への火種だ。誰の手元へ置いても政治利用される」


「……フォルタへ帰すことは?」


ルイは首を横へ振った。


「できない。資源供給は国家運営に直結している。彼女を帰した直後に交渉が止まれば混乱するし、止まらなかったとしても、“王女の機嫌次第で左右される”と周囲は受け取るだろう」


苦いものを飲み込むように、ルイは続けた。


「王家が、それを許容するはずがない」


「……誰も、エレオノールを人として見てないのね」


ルイは苛立ちを隠すように、拳を握りしめる。


「否定はできない。彼女も、俺も、そういう立場だ」


返す言葉が見つからなかった。


理屈は理解できる。

だからこそ苦しい。本人の意思より、立場と利害ばかりが先に語られていく、この世界が。


「だからジョエルの領地案に賛同する者もいた。表向きは保護。実際は棚上げだ。何年でも先送りできる」


地下牢よりましだと言われても、未来のない場所に変わりはない。


「……そんな場所、エレオノールが幸せになれるはずがない」


ルイは苦り切った表情で頷いた。


「私もそう思う」


ハルカは膝の上でスカートをつまむ。

胸の内で何度か言葉を組み立て、それでもうまくまとまらないまま口を開いた。


「……アンフェルス国、という選択肢はありませんか」


ルイの眉が片方だけ上がった。


「アンフェルス?」


山岳と断崖に囲まれた隣国。

竜の棲む森に守られ、他国の軍すら容易には踏み込めない。交易路は限られ、外に流れ込む情報も少ないため、王都では半ば伝説のように語られることさえある。


そんな国の名を、自分が口にした。

ハルカは今さらながら喉が渇くのを感じた。


「なぜそこが出てくる?」


問い返され、言葉が詰まる。


黒衣の人物のことは話せない。

禁術契約まで差し出した相手を、軽々しく売るわけにはいかなかった。


「……その……」


重苦しい空気が漂う。


ルイは急かさなかったが、それが余計に苦しい。

苦し紛れに考えた末、ハルカは真顔のまま答えた。


「……聖女の勘、です」


言ったあとで、自分でも無茶だと思った。

案の定、ルイは言葉を失っている。


けれど、笑い飛ばすこともしなかった。

呆れたように息を吐き、それから肩を揺らす。


「君は、とんでもないことを平然と言うな」


「すみません……」


顔を伏せかけたところで、ルイが小さく首を振った。


「いや」


額へ手を当て、苦笑する。


「だが、君がそう言うなら考える価値はある」


ハルカは思わず顔を上げた。


「信じてくれるんですか?」


「根拠もなく、君があの国の名前を出すとは思えない」


その言葉に、胸のつかえが少しだけ取れた。

全部を話せなくても、信じようとしてくれているのだと分かった。


ルイは窓の外へ目を向けながら続ける。


「確かにアンフェルスなら、他国の思惑から距離を置ける。王家としても“王都から遠ざけた”形にはなる。理屈は通るな」


立ち上がった彼の背を見つめながら、ハルカも後を追うように腰を上げた。


窓の外には深い夜が広がっている。

王宮の灯りだけが、遠く石畳を淡く照らしていた。


「……ただ、エレオノールが納得するかどうかだ」


誇り高い彼女が、追われるように異国へ渡る道を受け入れるのか。


黒衣の人物の言葉を思い出す。


――「あの方を、あれほど強く望む方を……私は他に知りません」


男の言葉は嘘には思えなかった。

ただ、それがエレオノールを幸せにできるのか、今のハルカにはわからない。


それでも――。


「エレオノールなら、大丈夫です」


自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。


「どこへ行っても、生きる方法を見つけます。紙とペンさえあれば」


ルイが吹き出すように笑う。


「彼女らしい評価だな」


「褒めてます」


「分かっているさ」


穏やかな声だった。


そのあと、ルイの手がそっと伸びる。

包み込むように握られた指先から、言葉にしない不安が伝わってくる。

ハルカはその手を、励ますように握り返した。


「明日、提言してみよう」


ハルカは深く頷いた。


「お願いします」


「ああ」


ルイは扉へ向かい、途中で足を止める。


振り返った先で、ハルカは胸元へ手を当てていた。

まるで大切なものを隠すような仕草だった。


禁術契約の羊皮紙。

まだ服の内側にしまったままのそれが、微かな熱を持っている気がする。


ルイは何も聞かなかった。

ただ静かに扉を開け、そのまま部屋を後にした。



前日の夜の提案が、翌日の議場で実行された。


議場には重苦しい空気が、深く覆っている。

重臣たちは互いの顔色を窺いながら、慎重に言葉を選ぶ。軽々しく口を開けば、それだけで立場を誤りかねない。そんな緊張が場の隅々まで染み込んでいた。


その沈黙を破ったのは、ルイだった。


「エレオノール・メルダの処遇について、一つ提案がある」


落ち着いた声が、広間へ響く。

集まった注目を正面から受け止めたまま、彼は続けた。


「アンフェルス国への追放だ」


議場が大きく波打った。


「アンフェルス国ですと!?」

「あの竜の国へ送るおつもりか……」


驚きと困惑が広がる中、ルイは表情を変えない。


「我が国とも他国とも距離を置いている国だ。政治利用の余地が少ない。王家に対して利用される余地もない」


理にかなってはいる。

だからこそ、誰も即座に否定できなかった。


ジョエルが椅子へ深く身を預け、口元に笑みを浮かべる。


「追放というより、死地への放逐ではありませんか?」


「彼女に安穏な余生を保証する必要はない」


感情を削ぎ落としたような返答だった。

ジョエルは面白そうに兄を見る。


「ずいぶん割り切られましたね。どういう心境の変化です?」


ルイは応じなかった。

議場に戸惑いが残る中、宰相が現実的な問題へ触れる。


「フォルタ王国からの反応は」


「現状は抗議のみです。軍事的行動へ移る兆候は確認されておりません」


簡潔な報告だった。

だが、この問題が国境を越える火種になり得ることは、誰もが理解している。


「……とはいえ、静観が続く保証もない」


宰相の低い呟きに、返答はなかった。


時間をかければ、そのぶん状況は悪化する。

先延ばしにできる段階ではない。


エレオノールは、ただの令嬢ではない。

フォルタ王国の王女であり、資源外交にも関わる存在だ。国内だけの理屈で処理できる問題ではないことを、議場にいる全員が改めて突きつけられていた。


宰相がゆっくりと顔を上げる。


「……陛下へ上奏を」


異論を唱える者はいなかった。


ほどなくして大扉が開き、国王が姿を現す。

その場にいた全員が立ち上がり、一斉に頭を垂れた。


王は何も語らぬまま高座へ進み、静かに腰を下ろす。


「楽にせよ」


言葉に従い、臣下たちも席へ戻った。


宰相がここまでの経緯を簡潔に報告する。

国内で広がる世論。フォルタ王国からの抗議。そしてアンフェルス国追放案。


王は最後まで口を挟まず聞き終えると、ゆっくりとルイへ目を向けた。


「……なぜ、アンフェルス国だ」


「フォルタへ帰せば、彼女は王女として保護されます。国内へ留めれば、王家内部の火種となる。第三国であり、なおかつ容易に介入できぬ土地――条件を満たすのは、あの国しかありません」


「移送路は」


「バイス公国経由です」


再び場内がざわめいた。


バイス公国。

レガリアの属国であり、険しい山岳地帯を治める小国だ。


「アンフェルスへ入る正規ルートは、フォルタ国側から川を遡上する一本のみ。これを避けるには、バイス公国経由の隧道だけです」


王の眼差しが鋭さを帯びた。


「生きて戻れぬ道とも聞くが」


「だからこそ、奪還も干渉も困難になります」


ルイは退かなかった。


王は口を閉ざしたまま、議場を見渡す。

反対する者はいない。

賛同する者もまたいなかった。


誰もが、この決断の責任を負いたくないのだ。


長い沈黙のあと、王は感情を削ぎ落とした声で告げた。


「エレオノール・メルダは王族待遇を剥奪し、国外追放とする。移送先はアンフェルス国。以後、レガリア王国への入国を禁ずる」


その宣告に、ジョエルは静かに目を細めた。

宰相は無表情のまま沈黙し、諸侯たちは息を殺す。


ただ一人、ルイだけが卓の下で強く拳を握り締めていた。


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