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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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33/35

裁きは、誰のため

地下牢にも、そろそろ新鮮味がなくなってきた。


エレオノールは寝台へ背を預けたまま、石造りの天井をぼんやり見上げる。

壁に染み込んだ湿気、冷えた空気、味気ない食事も。

最初こそ環境の変化に神経が向いていたものの、人間というのは案外慣れる生き物らしい。四日も経てば、この不快さすら日常へ変わり始めていた。


議場が開かれる、午前中のことだった。


通路の奥から、規則正しい靴音が響いてくる。

兵士とも違う歩き方だと気づき、エレオノールはゆっくり身体を起こした。


「やぁ、エレオノール様」


鉄格子の前へ現れたのは、ジョエルだった。


少し癖のある金髪も、柔らかな笑みも、学院で見慣れてきた頃と変わらない。

場所さえ違えば、午後の茶会へ招くために訪れたようにすら見える。


「……何の用?」


「退屈している頃かと思いまして」


ジョエルは片手に持っていた薄い冊子を掲げた。


「今朝から、面白い小説が出回っているんです。ぜひ、あなたの感想を伺いたくて」


差し出された冊子を受け取り、エレオノールは表紙へ目を落とす。


『悪役令嬢の選択』


作者名はない。

だが、ページをめくればすぐにわかった。


ローズは最後まで“悪役”として描かれている。

だが、その胸に何があったのかも、きちんと書かれていた。


自分なら、あそこまで優しくは書かない。


読み進めるうちに、口元が自然と緩んでいく。

あまりにも彼女たちらしい。

不器用で、真っ直ぐで、感情を隠しきれない文章だった。


「作者はあなたでしょう?」


冊子を閉じたタイミングに合わせるように、ジョエルが問いを差し込んできた。


「何のことかしら」


「誤魔化しても意味はありません。こんなもの、あなた以外に誰が書けるんです?」


「私は牢の中よ。紙もペンも与えられていないのに、どうやって執筆するの?」


「誰に託しました?」


エレオノールは小首を傾げる。


「どうやって? 地下牢から秘密の文通でもしたと?」


ジョエルの微笑みに、わずかな亀裂が走った。


「すでに市中へ流れています。王都の印刷所も調べさせました。あなたへの同情を煽り、罪を軽く見せるための工作でしょう?」


「市中に?」


エレオノールは目を瞬かせる。


「印刷所を使ったの? それ、かなりの部数が出てるってことよね」


次の瞬間には、鉄格子へ身を寄せていた。


「こんなに早くどうやったのかしら。気になるわ。ぜひ私にも教えてほしいくらい」


ジョエルは答えない。


探りを入れるような目で、ただ静かに彼女を見つめていた。

こちらの表情の端から、呼吸の揺れまで拾おうとしている。


「……本当に知らない?」


「ええ」


エレオノールは目を逸らさなかった。先に沈黙を崩したのはジョエルだった。

小さな舌打ちが、石壁に反響する。


その音に、エレオノールは眉を上げた。


「ずいぶん余裕がないのね」


「どのみち、あなたが無罪になることはありませんよ」


「でしょうね」


返事はあっさりしていた。


「私の小説は都合が良すぎたもの。辻褄が合えば、それは証拠の一つになる。婚約破棄まで起こして、全部偶然でしたなんて見逃してくれるほど――この国は甘くない」


 ジョエルは黙って聞いている。


「……追放が妥当な線かしらね」


「話が早くて助かります」


「それで?」


エレオノールは鉄格子へ寄りかかったまま、問う。


「私はどこへ捨てられるの?」


ジョエルの口元が、ゆっくり弧を描く。


「僕の領地です」


その答えに、“鳥かご”と言う言葉が、頭によぎった。

エレオノールの表情が止まったのを見て、ジョエルは楽しげに続ける。


「北方ですから冬は厳しいですが、空気は綺麗ですよ。静かに暮らすには悪くない場所です」


彼女は何も返さない。


「他国には渡せない。フォルタへ帰すのも危険だ。なら、僕が預かるしかないでしょう?」


ジョエルは鉄格子へ手をかけた。


「もう盤面は動きません。今さら何をしても変わりませんよ」


細い指先が、彼女の髪をひと房すくい取る。

だが、エレオノールの目に怯えは浮かばなかった。

ジョエルを見返す眼差しが、静かに冴えている。


「……まだよ」


「何がです?」


「相変わらず、自分が指している側だと思っているのね」


ジョエルの笑みが止まると、エレオノールはゆるやかに微笑んだ。


「自分こそ盤の上の駒かもしれないのに」


ジョエルは、喉の奥で小さく笑った。


「では、その駒を動かしているのは誰です?」


「さあ?」


エレオノールは肩をすくめる。


「あなたのお兄様かもしれないし、神様かもしれない」


「それがあなたの味方なら良いですね」


「少なくとも、あなたの味方には見えないわ」


ジョエルは口元だけで笑い、それ以上は何も言わなかった。

踵を返し、通路の奥へ消えていく。

硬い靴音だけが、地下牢に長く残った。



王宮中央棟にある議場。


白亜の柱が高い天井を支え、壁にはレガリア王家の紋章が等間隔に掲げられている。

本来であれば、格式と秩序を示すための空間だ。


だが、この日の議場には別種の熱が満ちていた。

 

長机を囲む席には、すでに主要な顔ぶれが揃っている。

宰相、法務卿、財務卿、騎士団長ブロイ、魔法師団長ロマーニ、審問官スタニック、有力貴族が数人。

そして王太子ルイと、第二王子ジョエル。


国王は姿を見せていない。

まずは諮問会議として意見を整理し、その後に裁可を仰ぐ段取りになっていた。


静まり返った室内で、スタニックが咳払いをひとつ落とす。


「では、始めましょう」


整えられた紙束へ手を置き、高めの声が議題を読み上げた。


「本日の案件は、エレオノール・メルダの処遇、および先日の騒擾(そうじょう)に関する最終報告です」


書類をめくる乾いた音が響く。


「現時点で確認されている容疑は三点。第一に、聖女暴走事件への関与。第二に、王家および公的秩序を損なう文書の作成。第三に、婚約破棄の場における虚偽発言と混乱誘発」


読み上げが終わる前に、ルイが片肘をついたまま口を挟んだ。


「随分と都合よく積み上げたものだな」


「事実を整理したまでです」


スタニックの声色は変わらない。


「なお、第一の件については、魔術師団による鑑定の結果、直接的証拠は確認されませんでした」


「“確認されませんでした”じゃない。“無関係だった”だろう」


ルイの訂正にも、スタニックは表現を変えなかった。


「術式痕は見つかっておりません。しかし、動機と機会は依然として残っています」


「動機?」


ルイが冷ややかに笑う。


「気に入らない女を陥れるため、自分から王家を敵に回し、牢へ入るよう仕向けたと? 随分と手の込んだ自滅だな」


スタニックの声が少し裏返った。


「追い詰められた人間は、時に合理性を失います」


その言葉を引き継ぐように、ジョエルが穏やかな口調で口を開いた。


「兄上。感情論で議場を乱されるのはお控えください」


ルイの目が細くなる。


「これも、お前の描いた筋書きか?」


ジョエルは微笑を崩さない。


「何を仰るのか。私は王家の安定を優先しただけです」


「なら聞こう」


ルイは椅子へ深く座り直しながらも、鋭さを緩めなかった。


「お前は、いつエレオノールを罪人だと判断した?」


「証言と状況証拠が揃った段階です」


「誰の証言だ」


「複数あります」


「名を出せ」


ジョエルは答えない。

代わりにスタニックが口を挟んだ。


「証人保護の観点から、現段階での開示は――」


「黙れ」


低い一言が議場を打った。


「今、俺は弟に聞いている」


ジョエルは卓上で指を組み、兄を見返した。


「兄上は何をお望みです? 彼女の無罪放免ですか」


「違う」


ルイの返答は即座だった。


「俺が求めているのは、まともな審理だ」


騎士団長が居心地悪そうに咳払いをして割って入る。


「ルイ殿下。お気持ちは理解しますが、すでに市中まで騒ぎが広がっています。このまま長引けば、王家の威信にも関わる」


そう言って、机上に置かれていた冊子を掲げた。


白い表紙には飾り気のない題名。


『悪役令嬢の選択』


それを目にした何人かが、露骨に顔をしかめた。


「町で回収したものです。すでに写本まで出回っております。現在は語り部まで現れているとか。耳にした方もおられるでしょう」


「出所は掴めておらんのか」


法務卿の問いに、騎士団長が首を横へ振る。


「王都の印刷所は全て調査しました。しかし、どこも関与を否定しています」


「これだけ出回っているんだぞ。王都外の工房か?」


「仮にそうだとしても、広がる速度が異常です。一夜でここまで浸透するとは考えにくい」


波打つように広がった議場の声は、ジョエルが冷ややかに断ち切った。


「たかが創作物です。国家判断が左右されるべきではない」


「その通りだ」


ルイは間髪入れず応じる。


「だからこそ、創作に負けないだけの真実を出せと言っている」


誰も口を挟まない。

ルイはジョエルから目を逸らさないまま続けた。


「お前がエレオノールを切り捨てた。その判断自体は理解できる。王族として、国を優先したと言うならな」


ジョエルの笑みが、ほんの少しだけ硬くなったのをルイは見逃さなかった。


「だが――最初から都合のいい結論へ誘導していたなら、話は別だ」


スタニックが勢いよく立ち上がる。


「それはジョエル殿下への侮辱――」


「座れ」


宰相の声が議場を貫いた。


決して大声ではない。それでも場を押さえ込むには十分だった。

スタニックは言葉を呑み込み、苦い顔のまま椅子へ腰を下ろす。


その直後、議場の大扉が外側から開かれ、家令が深く一礼した。


「侯爵夫人マルゴー・バアラ様、ご到着にございます」


室内にいた全員の意識が、扉口へ向けられる。


社交界の流れを誰より早く読み取り、貴族たちの本音を把握する女。

王都を巡る噂は、必ず一度は彼女の耳へ届く――そう囁かれる存在だった。


その当人が、議場へ姿を現す。

カツンと踵が鳴り、議場内の視線が集まる。


深い青のドレスは装飾を抑えているにもかかわらず、かえって品格を際立たせていた。長い年月を社交界で渡ってきた者だけが纏う落ち着きがある。侍従に椅子を引かれると、彼女は王族へ丁寧に礼を取り、そのまま自然な所作で席についた。


「急なお呼び立てにて失礼いたします」


宰相が軽く顎を引く。


「貴殿には、現在の社交界の空気を聞かせてもらいたい」


「でしたら、曖昧な言い回しは省きましょう」


マルゴーは騎士団長の前に置かれていた冊子へ目を落とし、自ら持参した同じ一冊を卓上へ置いた。


『悪役令嬢の選択』――白い表紙に記された題名が、議場の灯りを受けて浮かび上がる。


「この本は、もう止まりません」


「匿名の冊子ごときで、国政が揺らぐとでも?」


法務卿の声には苛立ちが滲んでいたが、マルゴーは微笑を崩さなかった。


「揺らぐのではありませんわ。見えなかったものが表へ出てきただけです」


穏やかな調子でありながら、言葉には重みがある。


「皆が胸の奥で感じていた違和感に、形が与えられたのです」


ジョエルが初めて真正面から彼女を見た。


「違和感、とは?」


「処置の速さにございます、ジョエル殿下」


議場の空気が鋭く張ったが、マルゴーは動じることなく続けた。


「疑惑が浮上した直後に連行され、そのまま拘束。あまりに手際が整いすぎております。まるで、結論だけが先に決められていたように映りました」


スタニックが机を叩いた。


「無礼な発言だ!」


「それを無礼と取るかどうかは、すでに貴族たちが判断しております」


少しも怯まない声だった。


「あの夜から何度も同じ問いを耳にしました。“なぜ王太子殿下の元婚約者が、あれほど容易く切り捨てられたのか”――と」


ルイは腕を組んだまま沈黙している。

肯定も否定もしない。その態度が、かえって多くを語っていた。


対照的に、ジョエルの笑みは崩れない。


「王家に近しい立場であろうと、罪があれば裁かれる。当然のことです」


「ええ。罪があれば、ですが」


返された言葉が、静かに場を刺した。


「では、その罪を証明なさってくださいませ」


ジョエルの隣で、スタニックが慌てるように書類を引き寄せる。


「容疑は十分に――」


「容疑ではなく、立証です」


スタニックの手の中の書類が乱れた。

マルゴーは冊子を持ち上げ、表紙を皆へ向けた。


「社交界の人間は、法文の細部までは追いません。見るのは筋道です」


そのまま続ける。


「そして今、人々は“こちらの物語の方が自然だ”と感じ始めております」


財務卿が胃痛を堪えるように、腹を押さえた。


「厄介なことになったな……」


「まことに」


マルゴーは冊子を卓へ戻す。


「愛する相手のため、自ら悪役となって身を引いた令嬢。愚かで、美しく、記憶に残りやすい構図ですもの」


そこには冷静な分析と、わずかな皮肉が混じっていた。


「人は、こういう話に弱いのです」


マルゴーはそこで一度言葉を区切った。


「だからこそ、実際に何があったのかが重要になります」


彼女はルイへ顔を向ける。


「――ところで、ルイ殿下。婚約解消のお話は、お二人の間で以前から決まっていたことなのですか?」


「ああ」


ルイは迷いなく答えた。


「私は聖女であるハルカを后に迎えたいと考えている。エレオノールも了承済みだった」


議場にどよめきが走った。

その余韻が消え切る前に、マルゴーは別の人物へ問う。


「では、ロマーニ師団長にもお尋ねいたします」


それまで黙っていた男へ、周囲の注目が集まる。


「古い伝承にもございますわね。聖女の力は、愛する者の傍にいる時ほど強くなると」


マルゴーはロマーニへ視線を向けた。


「師団長、その認識で相違ありませんか?」


「ええ。ありません」


「まあ」


扇の下のマルゴーの口元に、笑みが浮かんだ。


「ではエレオノール様は、ルイ殿下……ひいてはレガリア王国のため、自ら退いたとも解釈できるわけですわね」


ロマーニは少しだけ目を細める。


「そう受け取る者もいるでしょう」


議場に広がっていたざわめきの中、宰相が口を開いた。


「侯爵夫人。貴殿の見立てでは、このまま拘束を続けた場合、どう転ぶ」


「同情が確信へ変わります」


即答だった。


「“何か隠しているから、表へ出せないのだ”と。そこまで進めば、人々にとって物語は真実になります」


騎士団長の眉間に深い皺が刻まれる。


「だからといって釈放すれば、王家が誤りを認めたと受け取られる」


「では――地方へ移すのはどうでしょう?」


不意に差し挟まれた提案へ、議場の意識が一斉に向く。


椅子の肘掛けへ手を添え、壮年の貴族――ランシアン公爵が静かに立ち上がった。

長年、中央政務に携わってきた男らしく、言葉を選ぶ慎重さが滲んでいる。


「王都から離せば、市井の熱もやがて落ち着きましょう。少なくとも、現在のように噂ばかりが独り歩きする状況は抑えられるかと」


財務卿が低く唸り、顎へ手を当てる。


「……地方か。確かに、人目から遠ざければ騒動は沈静化しやすい」


騎士団長も腕を組んだまま口を開いた。


「警備面でも扱いやすくなるな。王都内に置き続けるよりは安全だ」


議場の空気が、じわりとそちらへ傾く。

その流れを見届けてから、ジョエルが声を挟んだ。


「でしたら、私が彼女を預かりましょう」


室内が水を打ったように静まり返る。

何人かが第二王子へ顔を向けた。

ジョエルは動揺を見せることなく、そのまま続ける。


「現時点で、完全な潔白を断定できるだけの材料は揃っていない。ですが、王都へ留め置けば騒ぎはさらに拡大します。社交界も民衆も、彼女を面白半分に消費し続けるでしょう」


感情を切り分けたような口調だった。


「身柄は王都外へ移すべきです。北方領グランセルには王家直轄の離宮があります。警備体制も整っている。外部との接触を制限するにも都合が良い」


誰もすぐには返答しなかった。そんな中、沈黙を破ったのはルイだった。


「……幽閉か」


ジョエルが兄へ顔を向ける。


「保護です」


「言葉を置き換えただけだな」


「違います。地下牢へ閉じ込めておくより、遥かに待遇は良い。侍女も医師も付けられる。“預かり”という形にもできるでしょう」


その言葉にスタニックが勢いづく。


「さすがはジョエル殿下。実に現実的なご判断――」


「黙れ」


鋭く落とされたルイの声に、審問官の喉が止まる。


ルイは弟から目を外さなかった。


「ジョエル。本気で、それが公正だと思っているのか」


「最善策です」


「誰にとっての?」


問い返されても、ジョエルは迷わない。


「国家にとって、です」


ルイの口元に冷えた笑みが浮かぶ。


「……つまり、彼女自身は計算に入っていないわけだ」


ジョエルの眉が険しく寄った。


「情で政治は動きません」


「これは情の話じゃない」


ルイの声は低かったが、その場にいた誰よりも明瞭だった。


「証も曖昧なまま王都から切り離し、外との接触を断つ。そうして何年でも保留にできる」


さらに言葉を重ねる。


「便利だな。都合の悪い証言も、本人の声も、全部届かなくなる」


「兄上」


ジョエルの声に、初めて硬さが混じる。


「発言にはご注意を」


「十分慎重に話しているさ」


ルイは真正面から弟を見据えた。


「本音を言え。お前は裁きたいんじゃない。彼女を自分の手元へ置きたいだけだろう」


空気が凍りついた。


スタニックの額には汗が浮かび、財務卿は露骨に目を伏せた。

法務卿も咳払いしかけたまま口を閉ざす。


ジョエルだけが表情を崩さない。


「……根拠のない中傷です」


「なら、はっきり否定してみろ」


「私は王族として――」


パチン、と扇が閉じられる音が議場へ響いた。


「殿下方」


マルゴーの声は穏やかだったが、場の熱を制するには十分だった。


「お二人とも、結論はすでに出ておりますわ」


全員の注意が彼女へ向く。


「ジョエル殿下のご提案は合理的です。ええ、とても」


そこで一度言葉を切り、マルゴーは続けた。


「だからこそ危ういのです」


ジョエルの目が細められる。


「……どういう意味でしょう」


「人は“合理”という言葉で私情を覆い隠せます。そして社交界は、そうした匂いに敏感ですの」


彼女は扇を閉じたまま卓へ置いた。


「もし王女殿下がジョエル殿下の領地へ送られれば、王都では様々な噂が飛び交うでしょう。兄弟間の政争。口封じ。あるいは――横取り」


スタニックが顔を紅潮させる。


「下劣な憶測にすぎん!」


「社交界とは、そういう下劣な憶測で動く場所ですわ」


返された言葉に、審問官は押し黙った。

ルイが椅子から立ち上がる。


「十分だ」


卓を見渡し、断言する。


「証拠不十分のまま行う拘束移送案は却下する。エレオノールの処遇は保留だ」


なおもスタニックが食い下がろうとした。


「ですが殿下、このままでは――」


「聞こえなかったか」


一言で封じられ、審問官は唇を噛むしかなかった。

ジョエルが兄を見る。


「……夫人の言葉に背を押されましたか」


「違うな」


ルイは即座に返した。


「お前の提案が気に入らなかっただけだ」


ジョエルはしばらく兄を見つめ、それから柔らかく微笑む。


「そういうことにしておきましょう」


そのやり取りを見ながら、マルゴーは扇で口元を隠した。

静かな眼差しだけが、冷たく冴えていた。


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