裁きは、誰のため
地下牢にも、そろそろ新鮮味がなくなってきた。
エレオノールは寝台へ背を預けたまま、石造りの天井をぼんやり見上げる。
壁に染み込んだ湿気、冷えた空気、味気ない食事も。
最初こそ環境の変化に神経が向いていたものの、人間というのは案外慣れる生き物らしい。四日も経てば、この不快さすら日常へ変わり始めていた。
議場が開かれる、午前中のことだった。
通路の奥から、規則正しい靴音が響いてくる。
兵士とも違う歩き方だと気づき、エレオノールはゆっくり身体を起こした。
「やぁ、エレオノール様」
鉄格子の前へ現れたのは、ジョエルだった。
少し癖のある金髪も、柔らかな笑みも、学院で見慣れてきた頃と変わらない。
場所さえ違えば、午後の茶会へ招くために訪れたようにすら見える。
「……何の用?」
「退屈している頃かと思いまして」
ジョエルは片手に持っていた薄い冊子を掲げた。
「今朝から、面白い小説が出回っているんです。ぜひ、あなたの感想を伺いたくて」
差し出された冊子を受け取り、エレオノールは表紙へ目を落とす。
『悪役令嬢の選択』
作者名はない。
だが、ページをめくればすぐにわかった。
ローズは最後まで“悪役”として描かれている。
だが、その胸に何があったのかも、きちんと書かれていた。
自分なら、あそこまで優しくは書かない。
読み進めるうちに、口元が自然と緩んでいく。
あまりにも彼女たちらしい。
不器用で、真っ直ぐで、感情を隠しきれない文章だった。
「作者はあなたでしょう?」
冊子を閉じたタイミングに合わせるように、ジョエルが問いを差し込んできた。
「何のことかしら」
「誤魔化しても意味はありません。こんなもの、あなた以外に誰が書けるんです?」
「私は牢の中よ。紙もペンも与えられていないのに、どうやって執筆するの?」
「誰に託しました?」
エレオノールは小首を傾げる。
「どうやって? 地下牢から秘密の文通でもしたと?」
ジョエルの微笑みに、わずかな亀裂が走った。
「すでに市中へ流れています。王都の印刷所も調べさせました。あなたへの同情を煽り、罪を軽く見せるための工作でしょう?」
「市中に?」
エレオノールは目を瞬かせる。
「印刷所を使ったの? それ、かなりの部数が出てるってことよね」
次の瞬間には、鉄格子へ身を寄せていた。
「こんなに早くどうやったのかしら。気になるわ。ぜひ私にも教えてほしいくらい」
ジョエルは答えない。
探りを入れるような目で、ただ静かに彼女を見つめていた。
こちらの表情の端から、呼吸の揺れまで拾おうとしている。
「……本当に知らない?」
「ええ」
エレオノールは目を逸らさなかった。先に沈黙を崩したのはジョエルだった。
小さな舌打ちが、石壁に反響する。
その音に、エレオノールは眉を上げた。
「ずいぶん余裕がないのね」
「どのみち、あなたが無罪になることはありませんよ」
「でしょうね」
返事はあっさりしていた。
「私の小説は都合が良すぎたもの。辻褄が合えば、それは証拠の一つになる。婚約破棄まで起こして、全部偶然でしたなんて見逃してくれるほど――この国は甘くない」
ジョエルは黙って聞いている。
「……追放が妥当な線かしらね」
「話が早くて助かります」
「それで?」
エレオノールは鉄格子へ寄りかかったまま、問う。
「私はどこへ捨てられるの?」
ジョエルの口元が、ゆっくり弧を描く。
「僕の領地です」
その答えに、“鳥かご”と言う言葉が、頭によぎった。
エレオノールの表情が止まったのを見て、ジョエルは楽しげに続ける。
「北方ですから冬は厳しいですが、空気は綺麗ですよ。静かに暮らすには悪くない場所です」
彼女は何も返さない。
「他国には渡せない。フォルタへ帰すのも危険だ。なら、僕が預かるしかないでしょう?」
ジョエルは鉄格子へ手をかけた。
「もう盤面は動きません。今さら何をしても変わりませんよ」
細い指先が、彼女の髪をひと房すくい取る。
だが、エレオノールの目に怯えは浮かばなかった。
ジョエルを見返す眼差しが、静かに冴えている。
「……まだよ」
「何がです?」
「相変わらず、自分が指している側だと思っているのね」
ジョエルの笑みが止まると、エレオノールはゆるやかに微笑んだ。
「自分こそ盤の上の駒かもしれないのに」
ジョエルは、喉の奥で小さく笑った。
「では、その駒を動かしているのは誰です?」
「さあ?」
エレオノールは肩をすくめる。
「あなたのお兄様かもしれないし、神様かもしれない」
「それがあなたの味方なら良いですね」
「少なくとも、あなたの味方には見えないわ」
ジョエルは口元だけで笑い、それ以上は何も言わなかった。
踵を返し、通路の奥へ消えていく。
硬い靴音だけが、地下牢に長く残った。
♢
王宮中央棟にある議場。
白亜の柱が高い天井を支え、壁にはレガリア王家の紋章が等間隔に掲げられている。
本来であれば、格式と秩序を示すための空間だ。
だが、この日の議場には別種の熱が満ちていた。
長机を囲む席には、すでに主要な顔ぶれが揃っている。
宰相、法務卿、財務卿、騎士団長ブロイ、魔法師団長ロマーニ、審問官スタニック、有力貴族が数人。
そして王太子ルイと、第二王子ジョエル。
国王は姿を見せていない。
まずは諮問会議として意見を整理し、その後に裁可を仰ぐ段取りになっていた。
静まり返った室内で、スタニックが咳払いをひとつ落とす。
「では、始めましょう」
整えられた紙束へ手を置き、高めの声が議題を読み上げた。
「本日の案件は、エレオノール・メルダの処遇、および先日の騒擾に関する最終報告です」
書類をめくる乾いた音が響く。
「現時点で確認されている容疑は三点。第一に、聖女暴走事件への関与。第二に、王家および公的秩序を損なう文書の作成。第三に、婚約破棄の場における虚偽発言と混乱誘発」
読み上げが終わる前に、ルイが片肘をついたまま口を挟んだ。
「随分と都合よく積み上げたものだな」
「事実を整理したまでです」
スタニックの声色は変わらない。
「なお、第一の件については、魔術師団による鑑定の結果、直接的証拠は確認されませんでした」
「“確認されませんでした”じゃない。“無関係だった”だろう」
ルイの訂正にも、スタニックは表現を変えなかった。
「術式痕は見つかっておりません。しかし、動機と機会は依然として残っています」
「動機?」
ルイが冷ややかに笑う。
「気に入らない女を陥れるため、自分から王家を敵に回し、牢へ入るよう仕向けたと? 随分と手の込んだ自滅だな」
スタニックの声が少し裏返った。
「追い詰められた人間は、時に合理性を失います」
その言葉を引き継ぐように、ジョエルが穏やかな口調で口を開いた。
「兄上。感情論で議場を乱されるのはお控えください」
ルイの目が細くなる。
「これも、お前の描いた筋書きか?」
ジョエルは微笑を崩さない。
「何を仰るのか。私は王家の安定を優先しただけです」
「なら聞こう」
ルイは椅子へ深く座り直しながらも、鋭さを緩めなかった。
「お前は、いつエレオノールを罪人だと判断した?」
「証言と状況証拠が揃った段階です」
「誰の証言だ」
「複数あります」
「名を出せ」
ジョエルは答えない。
代わりにスタニックが口を挟んだ。
「証人保護の観点から、現段階での開示は――」
「黙れ」
低い一言が議場を打った。
「今、俺は弟に聞いている」
ジョエルは卓上で指を組み、兄を見返した。
「兄上は何をお望みです? 彼女の無罪放免ですか」
「違う」
ルイの返答は即座だった。
「俺が求めているのは、まともな審理だ」
騎士団長が居心地悪そうに咳払いをして割って入る。
「ルイ殿下。お気持ちは理解しますが、すでに市中まで騒ぎが広がっています。このまま長引けば、王家の威信にも関わる」
そう言って、机上に置かれていた冊子を掲げた。
白い表紙には飾り気のない題名。
『悪役令嬢の選択』
それを目にした何人かが、露骨に顔をしかめた。
「町で回収したものです。すでに写本まで出回っております。現在は語り部まで現れているとか。耳にした方もおられるでしょう」
「出所は掴めておらんのか」
法務卿の問いに、騎士団長が首を横へ振る。
「王都の印刷所は全て調査しました。しかし、どこも関与を否定しています」
「これだけ出回っているんだぞ。王都外の工房か?」
「仮にそうだとしても、広がる速度が異常です。一夜でここまで浸透するとは考えにくい」
波打つように広がった議場の声は、ジョエルが冷ややかに断ち切った。
「たかが創作物です。国家判断が左右されるべきではない」
「その通りだ」
ルイは間髪入れず応じる。
「だからこそ、創作に負けないだけの真実を出せと言っている」
誰も口を挟まない。
ルイはジョエルから目を逸らさないまま続けた。
「お前がエレオノールを切り捨てた。その判断自体は理解できる。王族として、国を優先したと言うならな」
ジョエルの笑みが、ほんの少しだけ硬くなったのをルイは見逃さなかった。
「だが――最初から都合のいい結論へ誘導していたなら、話は別だ」
スタニックが勢いよく立ち上がる。
「それはジョエル殿下への侮辱――」
「座れ」
宰相の声が議場を貫いた。
決して大声ではない。それでも場を押さえ込むには十分だった。
スタニックは言葉を呑み込み、苦い顔のまま椅子へ腰を下ろす。
その直後、議場の大扉が外側から開かれ、家令が深く一礼した。
「侯爵夫人マルゴー・バアラ様、ご到着にございます」
室内にいた全員の意識が、扉口へ向けられる。
社交界の流れを誰より早く読み取り、貴族たちの本音を把握する女。
王都を巡る噂は、必ず一度は彼女の耳へ届く――そう囁かれる存在だった。
その当人が、議場へ姿を現す。
カツンと踵が鳴り、議場内の視線が集まる。
深い青のドレスは装飾を抑えているにもかかわらず、かえって品格を際立たせていた。長い年月を社交界で渡ってきた者だけが纏う落ち着きがある。侍従に椅子を引かれると、彼女は王族へ丁寧に礼を取り、そのまま自然な所作で席についた。
「急なお呼び立てにて失礼いたします」
宰相が軽く顎を引く。
「貴殿には、現在の社交界の空気を聞かせてもらいたい」
「でしたら、曖昧な言い回しは省きましょう」
マルゴーは騎士団長の前に置かれていた冊子へ目を落とし、自ら持参した同じ一冊を卓上へ置いた。
『悪役令嬢の選択』――白い表紙に記された題名が、議場の灯りを受けて浮かび上がる。
「この本は、もう止まりません」
「匿名の冊子ごときで、国政が揺らぐとでも?」
法務卿の声には苛立ちが滲んでいたが、マルゴーは微笑を崩さなかった。
「揺らぐのではありませんわ。見えなかったものが表へ出てきただけです」
穏やかな調子でありながら、言葉には重みがある。
「皆が胸の奥で感じていた違和感に、形が与えられたのです」
ジョエルが初めて真正面から彼女を見た。
「違和感、とは?」
「処置の速さにございます、ジョエル殿下」
議場の空気が鋭く張ったが、マルゴーは動じることなく続けた。
「疑惑が浮上した直後に連行され、そのまま拘束。あまりに手際が整いすぎております。まるで、結論だけが先に決められていたように映りました」
スタニックが机を叩いた。
「無礼な発言だ!」
「それを無礼と取るかどうかは、すでに貴族たちが判断しております」
少しも怯まない声だった。
「あの夜から何度も同じ問いを耳にしました。“なぜ王太子殿下の元婚約者が、あれほど容易く切り捨てられたのか”――と」
ルイは腕を組んだまま沈黙している。
肯定も否定もしない。その態度が、かえって多くを語っていた。
対照的に、ジョエルの笑みは崩れない。
「王家に近しい立場であろうと、罪があれば裁かれる。当然のことです」
「ええ。罪があれば、ですが」
返された言葉が、静かに場を刺した。
「では、その罪を証明なさってくださいませ」
ジョエルの隣で、スタニックが慌てるように書類を引き寄せる。
「容疑は十分に――」
「容疑ではなく、立証です」
スタニックの手の中の書類が乱れた。
マルゴーは冊子を持ち上げ、表紙を皆へ向けた。
「社交界の人間は、法文の細部までは追いません。見るのは筋道です」
そのまま続ける。
「そして今、人々は“こちらの物語の方が自然だ”と感じ始めております」
財務卿が胃痛を堪えるように、腹を押さえた。
「厄介なことになったな……」
「まことに」
マルゴーは冊子を卓へ戻す。
「愛する相手のため、自ら悪役となって身を引いた令嬢。愚かで、美しく、記憶に残りやすい構図ですもの」
そこには冷静な分析と、わずかな皮肉が混じっていた。
「人は、こういう話に弱いのです」
マルゴーはそこで一度言葉を区切った。
「だからこそ、実際に何があったのかが重要になります」
彼女はルイへ顔を向ける。
「――ところで、ルイ殿下。婚約解消のお話は、お二人の間で以前から決まっていたことなのですか?」
「ああ」
ルイは迷いなく答えた。
「私は聖女であるハルカを后に迎えたいと考えている。エレオノールも了承済みだった」
議場にどよめきが走った。
その余韻が消え切る前に、マルゴーは別の人物へ問う。
「では、ロマーニ師団長にもお尋ねいたします」
それまで黙っていた男へ、周囲の注目が集まる。
「古い伝承にもございますわね。聖女の力は、愛する者の傍にいる時ほど強くなると」
マルゴーはロマーニへ視線を向けた。
「師団長、その認識で相違ありませんか?」
「ええ。ありません」
「まあ」
扇の下のマルゴーの口元に、笑みが浮かんだ。
「ではエレオノール様は、ルイ殿下……ひいてはレガリア王国のため、自ら退いたとも解釈できるわけですわね」
ロマーニは少しだけ目を細める。
「そう受け取る者もいるでしょう」
議場に広がっていたざわめきの中、宰相が口を開いた。
「侯爵夫人。貴殿の見立てでは、このまま拘束を続けた場合、どう転ぶ」
「同情が確信へ変わります」
即答だった。
「“何か隠しているから、表へ出せないのだ”と。そこまで進めば、人々にとって物語は真実になります」
騎士団長の眉間に深い皺が刻まれる。
「だからといって釈放すれば、王家が誤りを認めたと受け取られる」
「では――地方へ移すのはどうでしょう?」
不意に差し挟まれた提案へ、議場の意識が一斉に向く。
椅子の肘掛けへ手を添え、壮年の貴族――ランシアン公爵が静かに立ち上がった。
長年、中央政務に携わってきた男らしく、言葉を選ぶ慎重さが滲んでいる。
「王都から離せば、市井の熱もやがて落ち着きましょう。少なくとも、現在のように噂ばかりが独り歩きする状況は抑えられるかと」
財務卿が低く唸り、顎へ手を当てる。
「……地方か。確かに、人目から遠ざければ騒動は沈静化しやすい」
騎士団長も腕を組んだまま口を開いた。
「警備面でも扱いやすくなるな。王都内に置き続けるよりは安全だ」
議場の空気が、じわりとそちらへ傾く。
その流れを見届けてから、ジョエルが声を挟んだ。
「でしたら、私が彼女を預かりましょう」
室内が水を打ったように静まり返る。
何人かが第二王子へ顔を向けた。
ジョエルは動揺を見せることなく、そのまま続ける。
「現時点で、完全な潔白を断定できるだけの材料は揃っていない。ですが、王都へ留め置けば騒ぎはさらに拡大します。社交界も民衆も、彼女を面白半分に消費し続けるでしょう」
感情を切り分けたような口調だった。
「身柄は王都外へ移すべきです。北方領グランセルには王家直轄の離宮があります。警備体制も整っている。外部との接触を制限するにも都合が良い」
誰もすぐには返答しなかった。そんな中、沈黙を破ったのはルイだった。
「……幽閉か」
ジョエルが兄へ顔を向ける。
「保護です」
「言葉を置き換えただけだな」
「違います。地下牢へ閉じ込めておくより、遥かに待遇は良い。侍女も医師も付けられる。“預かり”という形にもできるでしょう」
その言葉にスタニックが勢いづく。
「さすがはジョエル殿下。実に現実的なご判断――」
「黙れ」
鋭く落とされたルイの声に、審問官の喉が止まる。
ルイは弟から目を外さなかった。
「ジョエル。本気で、それが公正だと思っているのか」
「最善策です」
「誰にとっての?」
問い返されても、ジョエルは迷わない。
「国家にとって、です」
ルイの口元に冷えた笑みが浮かぶ。
「……つまり、彼女自身は計算に入っていないわけだ」
ジョエルの眉が険しく寄った。
「情で政治は動きません」
「これは情の話じゃない」
ルイの声は低かったが、その場にいた誰よりも明瞭だった。
「証も曖昧なまま王都から切り離し、外との接触を断つ。そうして何年でも保留にできる」
さらに言葉を重ねる。
「便利だな。都合の悪い証言も、本人の声も、全部届かなくなる」
「兄上」
ジョエルの声に、初めて硬さが混じる。
「発言にはご注意を」
「十分慎重に話しているさ」
ルイは真正面から弟を見据えた。
「本音を言え。お前は裁きたいんじゃない。彼女を自分の手元へ置きたいだけだろう」
空気が凍りついた。
スタニックの額には汗が浮かび、財務卿は露骨に目を伏せた。
法務卿も咳払いしかけたまま口を閉ざす。
ジョエルだけが表情を崩さない。
「……根拠のない中傷です」
「なら、はっきり否定してみろ」
「私は王族として――」
パチン、と扇が閉じられる音が議場へ響いた。
「殿下方」
マルゴーの声は穏やかだったが、場の熱を制するには十分だった。
「お二人とも、結論はすでに出ておりますわ」
全員の注意が彼女へ向く。
「ジョエル殿下のご提案は合理的です。ええ、とても」
そこで一度言葉を切り、マルゴーは続けた。
「だからこそ危ういのです」
ジョエルの目が細められる。
「……どういう意味でしょう」
「人は“合理”という言葉で私情を覆い隠せます。そして社交界は、そうした匂いに敏感ですの」
彼女は扇を閉じたまま卓へ置いた。
「もし王女殿下がジョエル殿下の領地へ送られれば、王都では様々な噂が飛び交うでしょう。兄弟間の政争。口封じ。あるいは――横取り」
スタニックが顔を紅潮させる。
「下劣な憶測にすぎん!」
「社交界とは、そういう下劣な憶測で動く場所ですわ」
返された言葉に、審問官は押し黙った。
ルイが椅子から立ち上がる。
「十分だ」
卓を見渡し、断言する。
「証拠不十分のまま行う拘束移送案は却下する。エレオノールの処遇は保留だ」
なおもスタニックが食い下がろうとした。
「ですが殿下、このままでは――」
「聞こえなかったか」
一言で封じられ、審問官は唇を噛むしかなかった。
ジョエルが兄を見る。
「……夫人の言葉に背を押されましたか」
「違うな」
ルイは即座に返した。
「お前の提案が気に入らなかっただけだ」
ジョエルはしばらく兄を見つめ、それから柔らかく微笑む。
「そういうことにしておきましょう」
そのやり取りを見ながら、マルゴーは扇で口元を隠した。
静かな眼差しだけが、冷たく冴えていた。




