悪役は、語られ始める
侯爵家令嬢イザベル・バアラは、つい数日前に学院を卒業したばかりだった。
本来なら、しばらくは華やかな余韻の中にいる時期だ。
親しい友人たちと贈り物を交換し合い、次に開かれる夜会の話で笑い合う。母からは縁談についてそれとなく話を振られ、社交界へ正式に踏み出す準備を始める。そんな穏やかな日々が待っているはずだった。
華やかな思い出は、今年の卒業プロムによって、誰の記憶にも重苦しい形で刻み込まれてしまった。
王太子による婚約解消の宣言。
大広間での糾弾。
そして、異国の王女が兵に囲まれて連れて行かれた光景。
煌びやかな音楽も、シャンデリアの光も、あの瞬間を境に別のものへ変わってしまったように思える。
イザベルの脳裏にも、あの夜の空気がいまだ焼き付いていた。
楽団の演奏が止まり、人々のざわめきだけが広間を満たしていたこと。
誰もが息を潜め、ただ成り行きを見守るしかなかったこと。
そして、あの王女が最後まで背筋を崩さず、静かな顔で立っていたこと。
あまりにも鮮烈で、忘れようとしても忘れられなかった。
そんな朝だった。
まだ朝食の支度も整いきっていない時間帯に、親しい友人の家から使いの者が訪れた。
「お嬢様へ、急ぎでお読みいただきたいとのことです」
そう言って差し出されたのは、薄い一冊の冊子だった。
イザベルは昔から本が好きだった。
学院時代には、匿名作家“ミス・ヴィラン”の新作が出るたび、誰より早く読もうとしていたほどである。
皮肉と機知に満ちていて、ときに胸の奥を鋭く抉るような物語を書く作家。
学内では、熱心な読者も多かった。
そして卒業の夜、その作者が誰だったのかを、多くの者が知ることになった。
――あの方は今、どこにいるのだろう。
自然と、異国の王女の姿が浮かぶ。
彼女はあの夜、無数の目に晒されながらも、取り乱すことなく立っていた。
冷え切った広間の中央で、まるで舞台の幕引きを見届ける役者のように静かだった。
イザベルは手元の冊子へ目を落とした。
『悪役令嬢の選択』
表紙に作者名はない。
筆跡も、これまで出回っていたミス・ヴィランの原稿とは違っていた。
それなのに、胸の奥が騒ぐ。
指先に落ち着かない熱が残るまま、椅子へ腰を下ろし、最初の頁を開いた。
読み始めてから、時間の感覚は曖昧になっていた。
気づけば、窓辺に置かれた紅茶からはもう湯気が消えている。
カップに口をつけても、ぬるくなった液体が舌へ広がるだけだった。
冊子を閉じても、すぐには立ち上がれなかった。
膝の上へ置いたまま、しばらく呼吸を整える。
これは単なる恋物語ではない。
まして、ありふれた婚約破棄劇でもなかった。
読んでいるうちに、イザベルの胸へ何度も浮かんできたのは、卒業プロムの夜に見たあの王女の姿だった。
誰かを傷つけるためではなく。
誰かを自由にするために、自分から悪役になろうとした令嬢。
その姿が、物語の向こうに透けて見えた。物語の令嬢の顔と、あの夜広間に立っていた王女の姿が重なる。
「……お母様」
ぽつりと呟いてから、イザベルは冊子を抱え込むように立ち上がった。
母ならきっと、この本が何を意味しているのか理解する。
そしておそらく、これはもう一冊の物語として片付けられるものではない。
社交界へ流れ始めれば、貴族たちの見方そのものを変えていく。
そんな予感があった。
♢
その日の昼過ぎ。
午前中まで柔らかな陽射しを落としていた空は、いつの間にか厚い雲に覆われていた。
窓の外には鈍色の空が広がり、遠くで鳴る馬車の音まで沈んで聞こえる。
それとは対照的に、バアラ侯爵夫人マルゴーのサロンは、いつも通り華やかな空気に包まれていた。
壁際には季節の花々が飾られ、磨き込まれた銀器が淡い光を返している。
焼き菓子の甘い香りと、上質な茶葉を蒸らした湯気がゆるやかに室内へ広がり、夫人たちの笑い声が絶え間なく重なっていた。
いつもの集まりだった。
上流貴族の夫人たちが数名集まり、菓子皿を囲みながら社交界の話題を交わす。
どの家が新たな縁談を進めているのか。
先日の夜会では誰が誰と踊っていたのか。
流行の染料や、新しく王都へ入った宝飾商の噂まで、話題は次々に移り変わっていく。
その輪の中心で、マルゴーは一冊の冊子を手にしていた。
白い表紙には余計な装飾もなく、ただ題名だけが静かに記されている。
『悪役令嬢の選択』
「今朝、娘の友人から届きましたの」
そう口にすると、向かいに座っていた婦人が目を丸くした。
「まあ。わたくしのところにも参りましたわ」
「うちにもです」
別の夫人が扇を閉じながら、小さく笑う。
「読み始めたら止まらなくて。皆様にもお見せしようと思っておりましたのに、もう回っておりましたのね」
「そんなに話題なんですの?」
まだ読んでいない若い夫人が、興味深そうに身を乗り出した。
冊子が順に手渡されていく。
長い話ではない。
読み終えるだけなら十五分もかからない程度の分量だ。
平民の少女。王子。婚約者である公爵令嬢。繰り返される嫌がらせ。卒業舞踏会での婚約破棄。
筋書きだけを抜き出せば、どこにでもある恋愛譚に見えたが、読み進めるほどに、夫人たちの間から笑みが消えていった。
あまりにも、覚えがあった。
「……品がありませんこと」
最初に冊子を閉じた子爵夫人が、鼻を鳴らす。
「実在の出来事を、こうして物語に仕立てるなんて。王家に盾突くおつもりかしら」
「巻き込まれる側はたまりませんわね」
「でも……面白おかしく、という感じでもありませんでしたけれど」
伯爵夫人が、ゆっくりと首を傾げた。
「わたくし、読んでいて少し印象が違いましたの。悪役令嬢とされる娘が、単なる愚かな女として描かれていないでしょう?」
「同情でもなさるおつもり?」
「同情というより……何か別の事情があったのでは、と考えさせられる書き方ですわね」
その言葉に、空気が少しだけ変わった。
先日の騒動。卒業プロムでの婚約破棄。異国の王女の連行。そして地下牢へ入れられたという噂。
あの夜の出来事は、すでに社交界全体へ広がっている。
マルゴーは冊子を閉じ、静かに机へ置いた。
「厄介ですわね」
穏やかな調子だったが、その一言に、何人かの夫人が自然と居住まいを正す。
年若い婦人が、おそるおそる問い返した。
「……何が、ですか?」
「真実か作り話かは、もはや大きな問題ではありません」
マルゴーは窓の外へ目を向ける。
石畳の通りでは馬車が絶え間なく行き交い、荷車を押す商人たちが威勢よく声を張り上げていた。使用人たちも忙しなく出入りし、王都は普段と変わらぬ顔で動いている。
だが、その裏では、確実に別の流れが生まれ始めていた。
「最初に植え付けられた印象も厄介ですけれど……別の顔を見せられると、人は案外そちらも忘れられないものですわ」
部屋の隅で、静かに冊子を閉じる音がした。
「しかも、この物語は上手いわ。読んでいるうちに、気づけば悪役令嬢の側へ立たされる。読んだ後では、“本当にただの悪女だったのかしら”と、一度は考えてしまうでしょうね」
「……では、あの方は本当に」
伯爵夫人が途中で言葉を飲み込んだ。
マルゴーは答えない代わりに、もう一度表紙へ指先を滑らせる。
『悪役令嬢の選択』
たったそれだけの題名が、胸へ残る。
子爵婦人が扇子の下で面白そうに告げる。
「台所でも話題になっているそうよ。下働きの娘たちは“恋を諦めた令嬢”として読んで泣いているとか」
「まあ……」
「広がるのが早すぎますわね」
「さらに写されて広がっているそうですわ。でもいったい誰が――」
その言葉が終わる前だった。
廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてくる。
やがて執事が扉を叩き、控えめな声で告げた。
「奥様。宮中より使者の方がお見えです」
サロンの空気がぴたりと止まり、夫人たちの顔色が変わる中、マルゴーだけは小さく口元を緩めた。
王宮もまた、この小さな冊子を、もう見過ごせなくなったのだ。
♢
執事が扉を開けると、王家の紋章を胸元に留めた男が、硬い足取りでサロンへ入ってきた。
室内を見渡した途端、その表情が目に見えて引き締まる。
バアラ侯爵夫人を筆頭に、伯爵夫人、子爵夫人――社交界で影響力を持つ女たちが一堂に会していた。軽率な失言ひとつで噂は広がり、明日には別の意味を帯びて王宮へ届く。そんな場だった。
使者は慎重に呼吸を整え、深く一礼する。
「侯爵夫人マルゴー・バアラ様。至急、宮城へお越しいただきたく存じます」
マルゴーは驚いた様子もなく、優雅にカップをソーサーへ戻した。
「どなたからのお呼び出しかしら」
「宰相閣下よりにございます」
王家の日常的な用件なら、秘書官や文官が来る。
わざわざ宰相の名義で呼び出されるということは、個人の噂話では済まない案件だ。
子爵婦人が、無意識のうちに膝の上で指を組み直していた。
マルゴーだけは表情を崩さず、外出用の手袋へ軽く触れる。布の縫い目を確かめるように撫でてから、静かに問い返した。
「用件を伺っても?」
「本日、王族ならびに重臣各位による協議が開かれます。社交界の動向について、ご意見を賜りたいとのことです」
社交界の動向。
つまり王宮は、冊子がどこまで広がっているか、まだ正確に掴めていない。
あるいは掴めていたとしても、実際に空気がどう傾き始めているのかを知りたがっている。
マルゴーは卓上へ置かれた冊子へ目を落とした。
『悪役令嬢の選択』
白い表紙に記された題名は、そこにあるだけなのに、異様な存在感を放っている。
「承知しました。支度を致します」
使者は安堵したように頭を下げ、そのまま退出した。
扉が閉まった途端、それまで押し殺されていた声があちこちで重なる。
「まぁ……本当に王宮まで動きますの?」
「たかが読み物ひとつで……」
「“たかが”ではなくてよ」
席を立ちながら、マルゴーが穏やかに訂正した。
侍女がすぐに上着を持ってくる。深い藍色の外套を肩へ掛けられながら、彼女はゆっくりと言葉を続けた。
「法令や報告書は、読む者が限られます。ですが物語は違う。貴族の奥方も、商家の娘も、台所の下働きにも届くのです」
その場にいた全員が、自然と卓上の冊子へ目を向ける。
薄い紙束にすぎない。
それなのに、この半日で貴族街から使用人部屋まで入り込み、人の感情を揺らしている。
若い伯爵夫人が、不安げに口を開いた。
「では……本当に、あの王女殿下のお立場が変わることも?」
「どうかしら」
マルゴーは侍女に髪を整えさせながら、小さく笑った。
「同情がそのまま無罪になるほど、政治は甘くありません」
そこで言葉を切り、ゆるやかに目を細める。
「けれど、有罪にする側にとっても厄介になりましたわね」
子爵夫人が身を乗り出した。
「誰が書いたのでしょう。やはり……」
「そこは本質ではありません」
マルゴーは振り返る。
「名もない誰かが書いたなら、それは民意。名ある者が書いたなら、明確な意志です。どちらにせよ、火はもう点きました」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
サロンの窓の外では、灰色の雲がさらに厚みを増している。
雨が来るかもしれない。そんな空模様だった。
マルゴーは卓上の冊子を手に取り、扉へ向かう。だが途中で足を止め、集まった夫人たちへ振り返った。
「皆様、本日は軽率な発言をなさらないように。誰がどちら側へ転ぶか、まだ誰にもわかりません」
それだけ告げると、彼女はサロンを後にした。
王宮では、すでに重臣たちが険しい顔で議論を始めている頃だろう。
異国の王女を罪人として処理するべきか。それとも――。
王宮が物語に動かされるならば、自分の目で見ておきたかった。
馬車へ乗り込んだマルゴーは、膝の上へ冊子を置く。
紙越しに伝わる薄い感触を指先で確かめながら、小さく呟いた。
「さて……物語と現実、どちらが強いかしらね」




