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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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32/35

悪役は、語られ始める

侯爵家令嬢イザベル・バアラは、つい数日前に学院を卒業したばかりだった。


本来なら、しばらくは華やかな余韻の中にいる時期だ。


親しい友人たちと贈り物を交換し合い、次に開かれる夜会の話で笑い合う。母からは縁談についてそれとなく話を振られ、社交界へ正式に踏み出す準備を始める。そんな穏やかな日々が待っているはずだった。


華やかな思い出は、今年の卒業プロムによって、誰の記憶にも重苦しい形で刻み込まれてしまった。


王太子による婚約解消の宣言。

大広間での糾弾。

そして、異国の王女が兵に囲まれて連れて行かれた光景。


煌びやかな音楽も、シャンデリアの光も、あの瞬間を境に別のものへ変わってしまったように思える。


イザベルの脳裏にも、あの夜の空気がいまだ焼き付いていた。


楽団の演奏が止まり、人々のざわめきだけが広間を満たしていたこと。

誰もが息を潜め、ただ成り行きを見守るしかなかったこと。

そして、あの王女が最後まで背筋を崩さず、静かな顔で立っていたこと。


あまりにも鮮烈で、忘れようとしても忘れられなかった。


そんな朝だった。


まだ朝食の支度も整いきっていない時間帯に、親しい友人の家から使いの者が訪れた。


「お嬢様へ、急ぎでお読みいただきたいとのことです」


そう言って差し出されたのは、薄い一冊の冊子だった。


イザベルは昔から本が好きだった。

学院時代には、匿名作家“ミス・ヴィラン”の新作が出るたび、誰より早く読もうとしていたほどである。


皮肉と機知に満ちていて、ときに胸の奥を鋭く抉るような物語を書く作家。

学内では、熱心な読者も多かった。


そして卒業の夜、その作者が誰だったのかを、多くの者が知ることになった。


――あの方は今、どこにいるのだろう。


自然と、異国の王女の姿が浮かぶ。


彼女はあの夜、無数の目に晒されながらも、取り乱すことなく立っていた。

冷え切った広間の中央で、まるで舞台の幕引きを見届ける役者のように静かだった。


イザベルは手元の冊子へ目を落とした。


『悪役令嬢の選択』


表紙に作者名はない。

筆跡も、これまで出回っていたミス・ヴィランの原稿とは違っていた。


それなのに、胸の奥が騒ぐ。

指先に落ち着かない熱が残るまま、椅子へ腰を下ろし、最初の頁を開いた。


読み始めてから、時間の感覚は曖昧になっていた。


気づけば、窓辺に置かれた紅茶からはもう湯気が消えている。

カップに口をつけても、ぬるくなった液体が舌へ広がるだけだった。


冊子を閉じても、すぐには立ち上がれなかった。


膝の上へ置いたまま、しばらく呼吸を整える。


これは単なる恋物語ではない。


まして、ありふれた婚約破棄劇でもなかった。


読んでいるうちに、イザベルの胸へ何度も浮かんできたのは、卒業プロムの夜に見たあの王女の姿だった。


誰かを傷つけるためではなく。

誰かを自由にするために、自分から悪役になろうとした令嬢。


その姿が、物語の向こうに透けて見えた。物語の令嬢の顔と、あの夜広間に立っていた王女の姿が重なる。


「……お母様」


ぽつりと呟いてから、イザベルは冊子を抱え込むように立ち上がった。


母ならきっと、この本が何を意味しているのか理解する。

そしておそらく、これはもう一冊の物語として片付けられるものではない。

社交界へ流れ始めれば、貴族たちの見方そのものを変えていく。


そんな予感があった。



その日の昼過ぎ。


午前中まで柔らかな陽射しを落としていた空は、いつの間にか厚い雲に覆われていた。

窓の外には鈍色の空が広がり、遠くで鳴る馬車の音まで沈んで聞こえる。


それとは対照的に、バアラ侯爵夫人マルゴーのサロンは、いつも通り華やかな空気に包まれていた。


壁際には季節の花々が飾られ、磨き込まれた銀器が淡い光を返している。

焼き菓子の甘い香りと、上質な茶葉を蒸らした湯気がゆるやかに室内へ広がり、夫人たちの笑い声が絶え間なく重なっていた。


いつもの集まりだった。


上流貴族の夫人たちが数名集まり、菓子皿を囲みながら社交界の話題を交わす。

どの家が新たな縁談を進めているのか。

先日の夜会では誰が誰と踊っていたのか。

流行の染料や、新しく王都へ入った宝飾商の噂まで、話題は次々に移り変わっていく。


その輪の中心で、マルゴーは一冊の冊子を手にしていた。


白い表紙には余計な装飾もなく、ただ題名だけが静かに記されている。


『悪役令嬢の選択』


「今朝、娘の友人から届きましたの」


そう口にすると、向かいに座っていた婦人が目を丸くした。


「まあ。わたくしのところにも参りましたわ」


「うちにもです」


別の夫人が扇を閉じながら、小さく笑う。


「読み始めたら止まらなくて。皆様にもお見せしようと思っておりましたのに、もう回っておりましたのね」


「そんなに話題なんですの?」


まだ読んでいない若い夫人が、興味深そうに身を乗り出した。


冊子が順に手渡されていく。


長い話ではない。

読み終えるだけなら十五分もかからない程度の分量だ。


平民の少女。王子。婚約者である公爵令嬢。繰り返される嫌がらせ。卒業舞踏会での婚約破棄。


筋書きだけを抜き出せば、どこにでもある恋愛譚に見えたが、読み進めるほどに、夫人たちの間から笑みが消えていった。


あまりにも、覚えがあった。


「……品がありませんこと」


最初に冊子を閉じた子爵夫人が、鼻を鳴らす。


「実在の出来事を、こうして物語に仕立てるなんて。王家に盾突くおつもりかしら」


「巻き込まれる側はたまりませんわね」


「でも……面白おかしく、という感じでもありませんでしたけれど」


伯爵夫人が、ゆっくりと首を傾げた。


「わたくし、読んでいて少し印象が違いましたの。悪役令嬢とされる娘が、単なる愚かな女として描かれていないでしょう?」


「同情でもなさるおつもり?」


「同情というより……何か別の事情があったのでは、と考えさせられる書き方ですわね」


その言葉に、空気が少しだけ変わった。


先日の騒動。卒業プロムでの婚約破棄。異国の王女の連行。そして地下牢へ入れられたという噂。


あの夜の出来事は、すでに社交界全体へ広がっている。


マルゴーは冊子を閉じ、静かに机へ置いた。


「厄介ですわね」


穏やかな調子だったが、その一言に、何人かの夫人が自然と居住まいを正す。

年若い婦人が、おそるおそる問い返した。


「……何が、ですか?」


「真実か作り話かは、もはや大きな問題ではありません」


マルゴーは窓の外へ目を向ける。


石畳の通りでは馬車が絶え間なく行き交い、荷車を押す商人たちが威勢よく声を張り上げていた。使用人たちも忙しなく出入りし、王都は普段と変わらぬ顔で動いている。


だが、その裏では、確実に別の流れが生まれ始めていた。


「最初に植え付けられた印象も厄介ですけれど……別の顔を見せられると、人は案外そちらも忘れられないものですわ」


部屋の隅で、静かに冊子を閉じる音がした。


「しかも、この物語は上手いわ。読んでいるうちに、気づけば悪役令嬢の側へ立たされる。読んだ後では、“本当にただの悪女だったのかしら”と、一度は考えてしまうでしょうね」


「……では、あの方は本当に」


伯爵夫人が途中で言葉を飲み込んだ。

マルゴーは答えない代わりに、もう一度表紙へ指先を滑らせる。


『悪役令嬢の選択』


たったそれだけの題名が、胸へ残る。


子爵婦人が扇子の下で面白そうに告げる。


「台所でも話題になっているそうよ。下働きの娘たちは“恋を諦めた令嬢”として読んで泣いているとか」


「まあ……」


「広がるのが早すぎますわね」


「さらに写されて広がっているそうですわ。でもいったい誰が――」


その言葉が終わる前だった。


廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてくる。

やがて執事が扉を叩き、控えめな声で告げた。


「奥様。宮中より使者の方がお見えです」


サロンの空気がぴたりと止まり、夫人たちの顔色が変わる中、マルゴーだけは小さく口元を緩めた。


王宮もまた、この小さな冊子を、もう見過ごせなくなったのだ。



執事が扉を開けると、王家の紋章を胸元に留めた男が、硬い足取りでサロンへ入ってきた。


室内を見渡した途端、その表情が目に見えて引き締まる。

バアラ侯爵夫人を筆頭に、伯爵夫人、子爵夫人――社交界で影響力を持つ女たちが一堂に会していた。軽率な失言ひとつで噂は広がり、明日には別の意味を帯びて王宮へ届く。そんな場だった。


使者は慎重に呼吸を整え、深く一礼する。


「侯爵夫人マルゴー・バアラ様。至急、宮城へお越しいただきたく存じます」


マルゴーは驚いた様子もなく、優雅にカップをソーサーへ戻した。


「どなたからのお呼び出しかしら」


「宰相閣下よりにございます」


王家の日常的な用件なら、秘書官や文官が来る。

わざわざ宰相の名義で呼び出されるということは、個人の噂話では済まない案件だ。


子爵婦人が、無意識のうちに膝の上で指を組み直していた。


マルゴーだけは表情を崩さず、外出用の手袋へ軽く触れる。布の縫い目を確かめるように撫でてから、静かに問い返した。


「用件を伺っても?」


「本日、王族ならびに重臣各位による協議が開かれます。社交界の動向について、ご意見を賜りたいとのことです」


社交界の動向。


つまり王宮は、冊子がどこまで広がっているか、まだ正確に掴めていない。

あるいは掴めていたとしても、実際に空気がどう傾き始めているのかを知りたがっている。


マルゴーは卓上へ置かれた冊子へ目を落とした。

『悪役令嬢の選択』

白い表紙に記された題名は、そこにあるだけなのに、異様な存在感を放っている。


「承知しました。支度を致します」


使者は安堵したように頭を下げ、そのまま退出した。

扉が閉まった途端、それまで押し殺されていた声があちこちで重なる。


「まぁ……本当に王宮まで動きますの?」


「たかが読み物ひとつで……」


「“たかが”ではなくてよ」


席を立ちながら、マルゴーが穏やかに訂正した。


侍女がすぐに上着を持ってくる。深い藍色の外套を肩へ掛けられながら、彼女はゆっくりと言葉を続けた。


「法令や報告書は、読む者が限られます。ですが物語は違う。貴族の奥方も、商家の娘も、台所の下働きにも届くのです」


その場にいた全員が、自然と卓上の冊子へ目を向ける。


薄い紙束にすぎない。

それなのに、この半日で貴族街から使用人部屋まで入り込み、人の感情を揺らしている。


若い伯爵夫人が、不安げに口を開いた。


「では……本当に、あの王女殿下のお立場が変わることも?」


「どうかしら」


マルゴーは侍女に髪を整えさせながら、小さく笑った。


「同情がそのまま無罪になるほど、政治は甘くありません」


そこで言葉を切り、ゆるやかに目を細める。


「けれど、有罪にする側にとっても厄介になりましたわね」


子爵夫人が身を乗り出した。


「誰が書いたのでしょう。やはり……」


「そこは本質ではありません」


マルゴーは振り返る。


「名もない誰かが書いたなら、それは民意。名ある者が書いたなら、明確な意志です。どちらにせよ、火はもう点きました」


その言葉に、誰もすぐには返せなかった。


サロンの窓の外では、灰色の雲がさらに厚みを増している。

雨が来るかもしれない。そんな空模様だった。


マルゴーは卓上の冊子を手に取り、扉へ向かう。だが途中で足を止め、集まった夫人たちへ振り返った。


「皆様、本日は軽率な発言をなさらないように。誰がどちら側へ転ぶか、まだ誰にもわかりません」


それだけ告げると、彼女はサロンを後にした。


王宮では、すでに重臣たちが険しい顔で議論を始めている頃だろう。

異国の王女を罪人として処理するべきか。それとも――。

王宮が物語に動かされるならば、自分の目で見ておきたかった。


馬車へ乗り込んだマルゴーは、膝の上へ冊子を置く。

紙越しに伝わる薄い感触を指先で確かめながら、小さく呟いた。


「さて……物語と現実、どちらが強いかしらね」


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