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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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31/35

その悪役に、別の結末を

明日には、エレオノールの処遇が決まるかもしれない。


机の上には、刷り上がった紙の束が幾重にも積み重なっていた。

きっちりと端を揃えられた冊子の隣で、印刷に使っていた箱型の魔道具が鈍い熱を残している。金属部分に触れれば、まだじんわりと温かかった。


部屋の空気には、乾ききらないインクと紙の匂いが漂っている。


広すぎる寝台では、ナタリーとカイラが並んで眠っていた。

二人とも掛け布もろくに整えないまま倒れ込むように横になっている。ほんの少し前まで、指先を黒く汚しながら作業を続けていたのだ。


ロウから原稿が届いた直後、三人は休む間もなく動き始めた。


原稿を読み合わせ、修正を重ね、魔道具で刷り上げる。

単純な作業の繰り返しなのに、気を抜けばすぐ手順を間違えそうになった。


それでも手を止めなかった。


完成した冊子は、全部で五十部。

机の上に並ぶそれらは、もうただの紙束ではない。


朝になれば、それぞれの家の伝手を通じて、まず貴族たちの間へ流れる。

いったん広まり始めれば、もう誰にも止められないだろう。


ハルカは、そのうちの一冊を静かに手に取った。


窓から差し込む月明かりと、机の端に残した小さな灯りだけが室内を照らしている。

紙面へ目を落とし、指先でなぞるように文字を追った。


そこに描かれている令嬢は、もう最初の原稿とは別人だった。


傲慢で、嫉妬深く、聖女を陥れる悪女――そんな単純な存在ではない。

誰にも理解されないまま、それでも自分なりのやり方で守ろうとしていた少女として描かれている。


ロウの筆は、エレオノールを断罪するためではなく、掬い上げるために使われていた。


知らず、胸の奥が熱を帯びる。

ロウが書いたのに、声はエレオノールのものだった。


エレオノールなら、きっと笑うだろう。

「やりすぎよ」と呆れながら、それでも最後には受け入れてしまいそうな気がした。


ページをめくる音だけが、静かな部屋に小さく響く。


――ここから先は、もう自分たちの手を離れる。


誰が読み、どう受け取るのか。

エレオノールを悪女として見るのか、それとも別の姿を見出すのか。もう選ぶことはできない。



『 悪役令嬢の選択』


調理室から漂うバターの甘い香りが廊下まで届いていた。


「アイリス、絶対においしいって! 早く食べてみようよ」


ポピーが焼き立てのクッキーへ手を伸ばしかけるのを、アイリスは苦笑いで止めた。


「だめ。冷ましてから。熱々のは崩れるんだから」


アーロン魔法学校の制服は調理で少し汚れてしまったが、クッキーはちゃんときれいな焼き色に仕上がっていた。それだけで十分だった。


「じゃあわたしは先に戻ってる!」


ポピーが手を振って廊下の角を曲がっていく。一人になって、アイリスは袋を胸に抱えながら外へ出た。


秋の日差しが穏やかで、枯れ葉が風にくるくると舞っていた。焼きたてのクッキーを持って歩いていると、世界まで少し甘くなった気がした。


――だから、油断していたのかもしれない。


「ねえ、ちょっと待ちなさい」


背後から、冷たい声が落ちてきた。


振り返ると、豪奢な赤毛を波打たせた少女が、三人の取り巻きを従えて立っていた。公爵令嬢、ローズ・アルバニア。端整な顔立ちに、品の悪い笑みを貼りつかせている。


「平民がずいぶん楽しそうね」


「……失礼します」


アイリスは深く頭を下げ、その場を離れようとした。関わってはいけない。靴に押しピンが入っていた朝のことも、廊下で肩を突き飛ばされたことも、全部覚えている。足が自然と速まった。


「無視するの?」


ぱしっ、と鋭い音がした。


ローズの扇子が、アイリスの持つ袋を弾いた。袋の口が開いて、クッキーが数枚、石畳の上に飛んでいく。


「あっ――」


手を伸ばしたときにはもう遅かった。クッキーは木立の下へ滑り込んでいった。


「あらあら、不注意ねえ」


扇子で口元を隠して笑うローズの、その笑いの奥に何か違うものが一瞬よぎった。

だがアイリスには、それに気づく余裕がなかった。


そのとき。


「――ローズ」


低く、静かな声が木立の方から聞こえた。


全員の動きが止まった。


木立の影から歩み出てきたのは、長い黒髪を後ろで束ねた青年だった。第一王子、クレム・エルヴァニア。鋭い金色の瞳が、感情を押し殺したようにローズたちを見据えている。


「クレム様……!」


ローズは笑みを貼り直した。いつものように。


「まあ、こんなところにいらっしゃるなんて。わたくしはただ――」


「ここで何をしていた」


問うともなく言われた言葉に、ローズの顔がさっと青ざめた。


「……失礼しますわ」


それだけ言って、踵を返す。取り巻きたちが慌ててついていく。


アイリスは、その背中をぽかんと見送った。



ローズは振り返らなかった。


振り返れば、見てしまうから。木立の下で、クレムがあの少女に向かってゆっくりと歩み寄っていく姿を。


ローズがクレムを意識したのは、十二歳の頃だった。父に連れられて王宮へ赴いたとき、玉座の脇に立っていた黒髪の少年が、まっすぐローズを見た。値踏みでも品定めでもなく、ただ、見た。


その金色の目が、忘れられなかった。


婚約者になれた。傍にいられる。それだけで十分だと思っていた。


――学院に入るまでは。


クレムはいつも遠かった。礼儀正しく接しながら、心だけは開かなかった。政略婚約として割り切っている、そういう目だった。それでも構わないと思っていた。距離があっても、傍にいられるなら。


アイリスが来るまでは。


光属性の平民の少女が入学してきた日から、クレムの目が変わった。

廊下でふと立ち止まる二人を見た。木立のベンチで話す二人を見た。

アイリスが笑うたびに、クレムの顔に普段は決して見せないような、柔らかい表情が浮かぶのを、ローズはぜんぶ見ていた。

握っていた扇子が軋んだ音を立てる。ローズは何事もなかったように、そっと持ち直した。


そして、嫌がらせをした。


――嫉妬だけではなかった。


ローズはクレムのことを知っていた。彼は責任感が強すぎる。婚約も、国の都合も、すべてを背負って、自分の気持ちを殺して生きていける人間だ。このまま何もしなければ、クレムはアイリスへの気持ちを胸の奥に仕舞い込んだまま、ローズとの政略婚姻を受け入れるだろう。


それが、耐えられなかった。


愛している人に、我慢したまま生きてほしくなかった。だから、ローズは悪役を選んだ。自分が充分に悪事を重ねれば、いつかそれが露見する。婚約破棄の理由になる。クレムは政略に縛られず、好きな人を選べる。


他に方法が思いつかなかった。


嫌がらせをするたびに、アイリスの顔が歪むたびに、ローズの胸も同じように痛んだ。この子は何も悪くない。わかっている。だからこそ、自分のしていることが正しいとも思えなかった。


それでも、やめられなかった。



魔術の授業が終わった後、アイリスは木立のベンチで一人、空を見ていた。


その朝、トイレでバケツの冷水を浴びせられた。制服がびしょびしょになって、着替えて、笑って、授業を受けた。普通にやれていたと思う。でも、もう限界だった。


「……何があった」


気配もなくクレムが隣に座ったので、アイリスは慌てて目を拭った。


「なんでもないです。疲れただけで」


「嘘だ。目が赤い」


返す言葉がなかった。クレムはしばらく黙っていて、やがて小さく言った。


「俺には何も言えないか」


「……言っても、何も変わりません」


「アイリス」


 名前を呼ばれた。それだけで、胸の真ん中がきゅっとした。


「君が悪いわけじゃない」


「……わかってます」


「わかっていても、こたえるだろう」


それだけ言って、クレムは空を見上げた。


傍にいてくれるだけで、不思議と息が楽になった。アイリスはこの気持ちを、そっと心の隅に押し込めた。


――クレム殿下には、婚約者がいる。



クレムもまた、同じ思いを抱えていた。


ローズとの婚約は政治的な均衡の問題だ。王太子である自分が個人の感情でひっくり返せるものではなかった。


わかっている。わかっているのに。


授業中にアイリスが光の魔法を使ったとき、一瞬だけ教室全体が白く輝いて、クレムはペンを持ったまま目を細めた。教師のゼファーが、静かな目でそれを見ていた。


後日、回廊でゼファーに声をかけられた。


「殿下は、お気づきですか?」


「何がだ」


「アイリスの光は、あなたの側にいる時だけ、不自然なほど強くなる」


クレムは黙った。


「光属性は感情と結びつきが深い。特に、強く誰かを想った時は」


「……そうか」


クレムは回廊に立ったまま、しばらく動けなかった。



冬が来て、卒業の季節が近づいた頃。


ローズは最後の賭けに出た。


図書館から一人で帰るアイリスを、学外の人間が廊下の端に追い込んだ。身動きが取れなくなったところへ、ローズが現れた。扇子を優雅に広げ、冷たく微笑んで。


「光属性の魔力を封じる薬品が手に入ったの」


――これで、終わりにする。


これだけのことをすれば、もう言い逃れはできない。クレムも、国も、婚約を続けるわけにはいかなくなる。ローズはそう決めていた。アイリスが羽交い締めにされ、瓶を取り出した。


そのとき。


「アイリスを放せ!」


廊下の向こうから、クレムが来た。


――来てしまった。


ローズの胸が締め付けられた。来ないでほしかった。これは、あなたに見せるためのものじゃない。


取り巻きが反射的に攻撃魔法を放った。アイリスへ向かう軌道に、クレムが割り込んだ。


鈍い衝撃が、廊下を震わせた。


「クレム様っ!」


アイリスの悲鳴が上がる。男たちが怯えて逃げていく。


ローズは動けなかった。


クレムが片膝をついていた。右腕から血が滲んでいる。アイリスがその傍に膝をつき、両手に光を集めていた。廊下全体が白く満たされるほど強い光が、傷を塞いでいく。


ローズはその光を見た。


あの子の光は、クレムのそばで輝いている。


――ああ、やっぱり。


どれだけ足掻いても、この二人の間にあるものには、敵わなかったのだ。


ゆっくりと扇子を閉じた。涙は出なかった。もう、泣く資格もないと思った。



卒業プロムの夜、大広間は光と音楽で満ちていた。


アイリスは控えめな白いドレスで壁際に立っていた。

内側に隠した小瓶に、ドレスの上からそっと触れる。あの日、ローズが持っていた瓶の中身は、結局ただの水だった。その事実を知っているのは、アイリスだけだ。


そこへ、クレムが歩いてきた。燕尾服の正装で、いつもよりさらに整って見える。その後ろに、ローズがいた。


「……ローズ」


クレムが振り返り、ローズと向き合った。広間が少しざわめく。


「俺はお前との婚約を、今日をもって破棄する」


ざわめきが大きくなった。


「……クレム様?」


「アイリスへの嫌がらせ。廊下での暴行。あの日の男たちの雇い主――すべてお前だ。雇われた男たちがすでに証言している。薬品の購入記録も、アルバニア家の家令の名義で出ている」


ローズの顔から、すっと色が消えた。


泣いてもいいのかもしれない、とローズは思った。喚いてもいいのかもしれない。でも、声が出なかった。クレムの目を見た。その金色の目が、初めて会った日と同じようにまっすぐローズを見ていた。ただ、今はその隣に、アイリスがいた。


――よかった。本当に、よかった。


アイリスが一歩踏み出したのを、ローズの視線が止めた。

大広間の扉が開き、兵士が数人入ってきた。ローズの腕が捕えられた。喚けばよかったのかもしれない。でもローズは静かに、連れられていった。


扉の外に出る寸前、ローズは一度だけ振り返った。


クレムがアイリスへ手を差し伸べている。


「踊れるか」


「下手ですよ」


「俺も得意ではない。だが……君となら、悪くない」


アイリスはくすりと笑った。手を取ると、クレムの指が静かにアイリスの手を包んだ。

音楽に合わせてステップを踏みながら、クレムは言った。


「ずっと、言えなかったことがある」


「……はい」


「婚約がある間は、言う資格がないと思っていた。だが……君を見ていると、どうしても諦めきれなかった」


アイリスはクレムを見上げた。


「クレム様」


「なんだ」


「わたしも、ずっと気づいていました。自分の気持ちに。抑えていたけど、消えませんでした」


クレムはしばらくアイリスを見ていた。それから、珍しく少し困ったような顔をして言った。


「では改めて言う。……好きだ」


アイリスは笑った。泣きそうになりながら、笑った。


「わたしも、です」


アイリスの胸から光が溢れ出す。シャンデリアと混じり合って、大広間全体が二人を祝福するように白く光った。


ローズは目を閉じる。


――どうか、幸せに。



ハルカは冊子を閉じ、そっと抱き締めた。


窓の外では、夜明け前の風が木々を揺らしている。

長い夜は、まだ終わっていなかった。


これは誰かを断罪するための物語じゃない。

たった一つの見方しか与えられていない世界に、別の形を差し込むためのものだ。


――それだけでいい。


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