疑惑は、まだ消えない
用意されていた服は、黄みを帯びた緑色の長衣だった。
指先で布を撫でた途端、粗い織り目が肌を擦る。王城で身につけていた絹とも、学院の制服とも違う。囚人用に近い実用品なのだろう。
妙に冷静な頭の片隅で、エレオノールはそんな感想を抱いた。
――この感触は、覚えておいた方がいいかもしれないわね。
自分でも嫌になるほど、状況への適応が早い。
手首には鈍い重み。
金属の輪と鎖が擦れ合うたび、耳障りな金属音が石壁に反響する。
兵士に先導され、地下通路を進んだ先にあったのは、牢とは別の一室だった。
中央に古びた机。向かい合わせに椅子が二脚。
飾り気もなく、窓もない。
審問のためだけに用意された部屋だと、ひと目でわかる。
促されるまま腰を下ろす。
拘束具は外されないまま、兵士が入口脇に立った。
耳に届くのは、自分の呼吸音だけ。
地下特有の湿った空気が、じわりと衣服に染み込んでくる。
しばらくして、廊下の向こうから靴音が近づいてきた。
扉が開き、入ってきた男を見て、エレオノールは内心で眉をひそめる。
痩せた身体。後ろへ撫でつけた色素の薄い髪。
鋭い鷲鼻と、感情を削ぎ落したような顔立ち。
貴族特有の洗練はある。けれど、人を安心させる温度は欠片もなかった。
男は正面へ腰掛けると、書類を整えながら名乗った。
「審問官、スタニック・ランボヴィルだ」
机の上へ並べられた紙束の中に、見覚えのある冊子が混じっている。
やっぱりそこから来るのね、と胸中で呟いた。
「……エレオノール・メルダ。貴女が“創作”と称しているこの原稿だが」
スタニックはページを開き、こちらへ滑らせた。
「聖女暴走事件以前に、類似した描写が存在している」
「偶然ですわ」
できる限り穏やかな調子を保ちながら返す。
「作中で描かれているのは、光に閉じ込められる状況です。でも実際に起きたのは、聖女の力が外へ拡散した現象。構造はまるで逆でしょう? 似ているというより、無理に結びつけているように見えますけれど」
スタニックは反応を変えなかった。
「では魔石については?」
書類を一枚めくる。
「あの時点でフォルタ製魔石の流通は限定的だった。扱えるのはフォルタ関係者、ダンボワーズ家、あるいは王族許可を受けた者のみ」
紙面を指でなぞる。
「宰相家からも報告が届いている。保管庫への出入り、閲覧履歴、管理名簿――すべて確認済みだ」
そこまで進んでいるの、と頭の奥で舌打ちする。
「貴女の名前は存在しない。だが、間接的に接触可能な経路はいくつも確認されている」
「可能性の話ばかりですのね」
「調査とはそういうものだ」
「入手できることと、細工が可能なことは別問題ですわ」
スタニックが初めて顔を上げた。
「聖女の力へ強く反応する性質は把握していたはずだ」
「高い親和性があるとは聞いていました。ただ、術式を組み込むには魔力操作が必要です。私は魔力を持たない。発動条件の固定も、継続維持も不可能です」
「貴女自身が行う必要はない。第三者に任せれば済む」
「証拠もなければ、動機も成立しておりませんが」
「動機?」
スタニックの口元が薄く歪んだ。
「明白だろう。貴女は自分が物語の中心になれないと悟り、現実そのものを書き換えようとした。あるいは、殿下の関心を引き留めるために聖女を利用した」
呆れを飲み込みながら、エレオノールは静かに返す。
「随分と想像力が豊かですこと。私は物語の主役になりたいと思ったことなどありませんし、殿下との関係についても周囲がご存じの通りです。相性が悪い。それだけですわ」
「どうだろうな」
スタニックは原稿を整え直す。
「貴女の作品には偏りが見られる。同性愛を扱ったものなど、常識から外れた内容が多い。作家特有の歪んだ妄執が、現実犯罪へ繋がる事例は過去にも存在する」
その瞬間、頭の芯が冷えて、怒りが腹の底に沸いた。
声が崩れそうになるのを懸命に押しとどめる。
「価値観の違いでしょう」
ゆっくりと言葉を置く。
「理解できない感情を“歪み”と呼ぶのは、ずいぶん便利な整理方法ですのね」
スタニックの指先が机を軽く叩いた。
「執着は犯罪の要因になり得る」
「それをどう扱うかは本人次第です」
これだけは、譲れなかった。
「創作と現実を同列に語るべきではありません」
「だが、今回は実際に事件が起きている」
「だからこそ、因果関係の立証が必要では?」
エレオノールは真っ直ぐに言葉を返す。
「原稿が存在するから犯人。そんな順序で結論づける方が危険ですわ」
やがてスタニックは小さく息を吐き、別の書類を開く。
「光華祭当日。貴女は暴走した魔道具を破壊したそうだな」
「被害を止めるためです」
「証拠隠滅ではなく?」
「何を隠す必要が?」
「魔道具はそのままモーリス・トレトンへ渡された。痕跡を壊した上で、調査の主導権を外部へ逃がした可能性がある」
「何もしていないのに、何を恐れる必要がありますの」
スタニックは首を傾けた。
「犯人は現場へ戻るものだ」
「ずいぶん芝居じみた理論ですこと」
「状況確認、証拠処理、あるいは支配欲の再確認。理由はいくらでもある」
「飛躍していますわね」
「飛躍でも、危険性は残る。貴女がレガリアにとって不安定因子である事実は変わらん」
エレオノールは一度目を伏せ、それから口を開いた。
「なら、別の可能性も検討されるべきでしょう?」
スタニックの眉が動く。
「別の可能性?」
「私ではない誰かが仕組んだ、と考える方が自然ではありませんか」
その場の空気が少し変わった。
だが、スタニックは追及を逸らすように、新しい話題を持ち出す。
「それと、プロムでの発言だ」
書類へ目を落とす。
「貴女はルイ殿下へ“不貞”を告白したという証言が複数ある」
「不貞、ですか」
「証言内容は一致している」
エレオノールは小さく息を吐いた。
「では、その証拠は?」
「現段階では証言のみだ」
「なら解釈の問題ですわね」
スタニックの目が細まる。
「どういう意味だ」
「私が申し上げたのは、“愛する者がいる”という事実だけです。その相手が“人間”であるとは、一言も述べておりません」
地下室に、沈黙が落ちた。
スタニックは値踏みするようにエレオノールを眺める。
「……なるほど」
低い声には、苛立ちが滲んでいた。
「認めぬならば、物理的証拠を掘り起こすまでだ。魔石鑑定の結果が出れば、貴女の虚偽も明らかになる」
そして苛立ちを隠さないまま、背後の兵士へ怒鳴る。
「魔術師団の報告はまだか!」
その声を待っていたかのように、扉が開いた。
最初に感じたのは、静けさだった。
廊下から近づいてくるはずの足音が、ほとんど耳に届かない。
それなのに、部屋の空気だけがゆっくり塗り替えられていく。
重い。
圧力に似た気配が、入口からじわりと広がってきた。
現れた男を見た途端、兵士たちの空気が変わった。
深い紺の魔導衣に、胸元と袖に刻まれた複雑な銀糸の紋様。
魔力そのものを織り込んだようなマントが、歩みに合わせて静かに揺れる。
レガリア魔法師団長――エドゥアール・ロマーニ。
その名を知らない者は、この国にはほとんどいない。
スタニックの顔から、初めて余裕が消えた。
「スタニック」
低い声だった。
穏やかですらあるのに、部屋全体を押さえ込むような重みがある。
「待っていただろう。鑑定結果だ」
数枚の書類が机へ置かれる。
「……師団長自らお越しいただく必要までは――」
言いかけたスタニックが、紙面へ目を落としたまま止まる。
読み進めるにつれ、その顔色が目に見えて悪くなっていった。
「……そんな。完全なシロ、だと?」
「ああ」
ロマーニは答える。
「私自身で確認した。その後、上位魔法師数名にも再鑑定を行わせている。結果は一致した」
静かな口調のまま、続けた。
「術式痕は検出されなかった。干渉痕跡、残留魔力、結晶構造の歪み――いずれも異常なしだ」
スタニックが唇を引き結ぶ。
「……見落としの可能性は?」
「ない。検出系統は三重。仮に細工が施されていたなら、どこか一箇所は必ず反応する」
部屋に再び沈黙が落ちる。
スタニックは書類を握りしめたまま動かなかった。
「……痕跡を完全消去した可能性は」
「理論上は存在する」
ロマーニは肩の力を抜いたまま答える。
「だが、それを行えるのは極めて限られた魔法師のみだ。しかも発動後の完全消去となれば、さらに難度が上がる」
「モーリス・トレトンは?」
スタニックが食い下がる。
「被疑者と親しい関係にあったと報告を受けています」
「その点も考慮済みだ」
ロマーニの口元に、薄く笑みが浮かんだ。
「本人から直接、私へ鑑定依頼が来た。利害関係を避けたいとな」
エレオノールは小さく目を見開く。
――モーリスが?
「……自分では鑑定しなかった、と」
「できるだけの技量はある」
ロマーニはさらりと言った。
「だが今回は、自ら手を引いた。信用性を優先したんだろう」
その目が、エレオノールへ向けられる。
「彼なりの判断だ」
スタニックは不快そうに眉を寄せた。
「ずいぶんと被疑者に肩入れしているようですね」
「珍しくもない」
ロマーニは気にも留めない。
「優秀な魔法師ほど、自分の鑑定に疑義が差し込まれる状況を嫌う」
そこで言葉を区切る。
「それに――」
細められた双眸が、こちらを捉えた。
「あいつが頭を下げる相手というのは、少々興味深かった」
胸の奥が不意に熱を持ち、エレオノールは咄嗟に目を伏せた。
「私は……」
声がうまく出ない。
「友人、だと思っていました。彼がどう考えているかまでは、わかりませんけれど」
「そうか」
ロマーニは静かに頷いた。
「あいつにも大事な友人ができたんだな」
その言葉に、鼻の奥に熱いものがこみ上げてきた。
泣くものかと思いながら、一度だけ静かに息を整える。
その空気を断ち切るように、スタニックがわざとらしく咳払いをする。
「つまり、結論としては」
書類を机へ置き直した。
「魔石への細工は確認されなかった。聖女暴走事件は、外的干渉によるものではない――そういう認識でよろしいか」
「あくまで現時点では、だがな」
ロマーニは答える。
「当日の聖女の精神的不安定。それに伴う魔力暴走。目撃者であるモーリス・トレトン、および聖女本人からも証言は得ている」
さらに続けた。
「過去の聖女にも類似事例は存在した。学院側の報告も含め、私も同意見だ」
スタニックは苦々しげに書類を閉じた。
「……ならば、“魔石への細工”という仮説の立証は困難ということになりますね」
「そういうことだ」
ロマーニは椅子から身体を離しかけたが、不意に言葉を足す。
「ただし、これで全てが終わったわけではない」
空気が再び引き締まる。
「原稿との一致。事前知識の有無。周囲の動き。検討すべき点はまだ残っている」
その目が、再びエレオノールへ向いた。
「結論を急ぐ段階ではないだろう」
エレオノールは静かに頷く。
それから、少しためらった末に口を開いた。
「……師団長。一つだけ、お願いしてもよろしいですか」
「内容次第だ」
「モーリスへ伝言をお願いしたいのです。直接会える保証がありませんから」
「構わん。何だ」
エレオノールは息を吸った。
「ありがとう、と」
ロマーニが片眉を上げる。
「それだけか?」
「はい」
数秒だけ静寂が続いたあと、彼は小さく頷いた。
「了解した。伝えておこう」
それだけ言い残し、ロマーニは踵を返す。
入ってきた時と同じく、ほとんど音を立てないまま扉が閉じられた。
残されたのは、再び向かい合う机と、積み上げられた書類。
スタニックは原稿用紙を指先で叩き、肩の力を抜く暇もなく再び審問が始まる。
次に取り出されたのは、別の証言書だった。
「魔石に細工がなかった件は確認された。次は契約についてだ」
紙面をめくる。
「フォルタ新資源をダンボワーズ家が独占的に扱っている件。貴女の関与は?」
「何のことでしょう?」
表情を崩さず返す。
「交渉初期から他家の介入余地が存在しなかったという報告がある。結果として流通はダンボワーズ家へ集約された」
「結果については承知していますわ。独占契約が成立したことも」
そこで初めて、組んでいた手のひらへ汗がにじんでいることに気づいた。
「ただし、交渉実務はフォルタ本国の担当範囲です。レガリア滞在中の私が逐一把握できる立場ではありません」
スタニックが書類をめくる。
「だが、貴女は王女だ。影響力はある」
「影響力と実務権限は別です」
エレオノールは冷静に返した。
「契約条件を決めるのは担当官。私個人の一存ではありません」
「では、こう聞こう」
スタニックが顔を上げる。
「光華祭事件の調査にダンボワーズ家が関与した件。彼らへ調査を委ねるよう働きかけたのは貴女では?」
「知りませんわ」
即座に返す。
「調査主体の決定はレガリア側の判断でしょう。外部人員、それも一学生に指定権限があるとは思えませんけれど」
「条件提示の見返りに調査を任せた可能性は?」
「仮定を重ねても事実にはなりません」
机を叩く音。
「否定ばかりでは話が進まない」
「根拠のない話に肯定はできません」
エレオノールは真っ直ぐ言葉を返した。
「契約成立経緯が問題なら、交渉記録、署名者、立会人――すべて文書で残っているはずです。まず確認すべきはそちらでは?」
「照会はかけている」
「なら、その結果を基準に判断されるべきでしょう」
スタニックはしばらく黙り、それから書類を閉じる。
「……一貫しているな」
「事実しか申し上げておりませんので」
「その態度が、貴女自身を不利にする場合もある」
「承知しています」
エレオノールは静かに答える。
「それでも、事実以外を口にするつもりはありません」
スタニックは薄く笑った。
「結構。発言内容と態度、双方とも報告へ記載する」
椅子が軋む音。
「本日の審問はここまでだ。続きは追って行う」
兵士へ合図が送られる。背後で鎖が鳴り、再び手首へ重みが戻る。
立ち上がるよう促され、そのまま地下通路へ連れ戻された。
辿り着いたのは、卒業の夜から閉じ込められている牢。
鉄扉が閉じ、鍵が回る。
エレオノールは寝台へ腰を下ろすと、そのまま横になる。
深く息を吐き、天井を見上げる。
ふと、ポケットへ手を入れた。
取り出したのは、ハルカから渡された魔石。
青みを帯びた緑色。
雫型へ削られた小さな石の中心に、淡い光が灯っている。
ここには、まだ繋がっているものがある。
二年という時間は、疑いだけで断ち切れるほど薄くなかった。
――信じてる。
魔石をそっと握り込み、そのまま目を閉じる。
掌の内側に宿る微かな熱が、暗い牢の中で小さな灯火みたいに感じられた。




