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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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29/35

その悪役を、救う

翌朝、学院の正門前には帰郷する卒業生たちの馬車が列を作っていた。


荷箱を積み込む音。別れを惜しむ笑い声。

門の前では生徒たちが肩を寄せ合い、卒業後の朝が自然に流れている。

その穏やかさだけが、現実味を欠いて見えた。


――まるで、何もなかったみたい。


窓辺に立ったまま、ハルカは小さく息を吐いた。

昨夜、大広間で起きた出来事が、胸の奥に黒く沈んでいる。


自分が戻る先は王城だ。

望んで帰る場所ではないけれど、今はそこにエレオノールがいる。


部屋の扉が叩かれる。


「聖女様、出立のご準備が整いました」


王家の使者の声だった。


ハルカは足元の簡素なトランクを持ち上げ、最後に室内を見回す。


この二年間を過ごした部屋。

笑ったことも、泣いたことも、数え切れないほどあったはずなのに、脳裏に浮かぶのはたった一つだけ。


兵に囲まれながら歩いていく、エレオノールの後ろ姿。


胸の締めつけを振り払うように、部屋の扉を閉めた。


外には王家の紋章入りの馬車が待機していた。

その傍らに立っていたのは、黒の騎士服をまとったヴァレルだった。


学院時代から士官候補生として任務に就いていた彼は、卒業後もそのまま聖女護衛の任を与えられている。


「おはようございます、聖女様」


「……おはよう」


短い挨拶を交わし、馬車へ案内される。


中にルイの姿はなかった。


乗り込もうとしていた足が止まる。

ハルカは振り返り、そのままヴァレルの前へ立った。


「お願いがあるの」


言い終える前に、彼は眉間へ皺を寄せた。


「エレオノールには会わせられない」


予想していた返答だった。


「お願い。少しだけでいいの。あなたなら通せるでしょう?」


「無理だ。今の彼女は被疑者扱いだ。地下に拘束されている以上、誰であっても簡単には――」


途中で言葉が止まった。

ハルカが彼の制服の裾を掴んでいたからだ。


自分でも驚いていた。


こんなふうに誰かへ縋ったことなど、ほとんどない。


けれど頭の中には、冷たい石牢の中にいるエレオノールの姿しか浮かばなかった。

何も言わず、一人で全部を背負おうとしている姿。


気づけば、頬を涙が伝っていた。


「……っ」


雫が落ち、黒い布地へ濃い染みを作る。


「エレオノールは……私を守るために、あんなことしたのに……」


言葉の途中で喉が詰まって、うまく呼吸ができない。


しばらくして、頭上から、深いため息が降ってきた。


「はぁ……」


見上げると、ヴァレルは顔を逸らしたまま、小さく呟く。


「……わかったから、泣くな」


呆れているようにも、諦めているようにも聞こえる声だった。



馬車の窓の外を、王都の街並みが流れていく。

見慣れたはずの景色が、今日はどこか遠かった。


これから先、自分には聖女としての役目が待っている。


王都各地の祭壇での祈祷。

瘴気発生源の浄化。

結界修復。

負傷兵や民への治癒。


そして、国を象徴する存在として人々の前へ立つこと。


――そんなの、今はどうでもいい。


ハルカの胸を占めているのは、ただ一つだった。


エレオノールを助けたい。


その想いだけが、何度も胸の内で繰り返される。


やがて馬車の速度が落ち、城門をくぐった。石畳の振動が止まり、到着を告げられる。


扉が開き、ヴァレルの手が差し出された。

その手を借りて地面へ降り立った直後、耳元へ低い声が囁く。


「部屋で待っていろ」


顔を上げる前に、彼はもう手を離していた。


迎えに出ていた侍女が、トランクを受け取りながら一礼する。


「お疲れさまでした、聖女様。お部屋へご案内いたします」


促されるまま、ハルカは王城へ足を踏み入れた。

以前と変わらないはずの光景なのに、今日は妙に冷たく感じる。


「……このあと、私は何をすれば?」


歩きながら問いかけると、侍女は少しだけ返答を選ぶ間を置いてから答えた。


「本日はご移動のお疲れもございますので、お休みいただくよう仰せつかっております。明日以降のご予定につきましては、今夜、神殿より正式な通達が届くかと」


「……そう」


それ以上は何も言わなかった。


部屋へ通された途端、押さえ込んでいた感情が一気に押し寄せる。


エレオノールのために、自分にできることは何か。


何度考えても、答えは出ない。


原稿はカイラとロウに託してある。

ナタリーも動いてくれている。

あの様子なら、きっと全力を尽くす。


――じゃあ、私は?


ハルカはトランクを開き、中からフォルタ産の魔石を取り出した。

淡い光を宿した石が、掌の上で静かに輝いている。

エレオノールへ疑いが向けられた原因だけど、あの石に細工など存在しなかった。


――あれは私の問題だ。


この力と魔石が強く共鳴したことで起きた暴走。


ならば、この力を制御できるのも自分だけだ。


ハルカは椅子へ腰掛け、小さな刃物を手に取った。


慎重に石へ刃を当てる。

少しずつ削り、形を整え、細かな溝を刻んでいく。

時間の感覚が曖昧になるほど作業へ没頭していた頃、不意に扉が叩かれた。


弾かれるように立ち上がり、扉を開けると、そこに立っていたのはヴァレルだった。

騎士服姿のまま、無駄な説明もなく包みを差し出してくる。


「これを着て出てこい」


それだけ告げると、彼は扉へ背を向けた。

ハルカは急いで扉を閉め、包みを広げる。


中に入っていたのは、侍女の制服だった。


「……なるほど」


理解した途端、胸の鼓動が速くなる。


迷っている暇はない。


服を着替え、髪を一つへまとめる。

黒髪を白い帽子の中へ押し込み、鏡の前へ立った。


そこに映っていたのは、王城で特別扱いされる聖女ではない。


どこにでもいる下働きの少女だった。


先ほど加工していた魔石をポケットへ忍ばせ、扉を開ける。

待っていたヴァレルは、ハルカを一度見て目を細めた。


「何?」


「なんでもない」


彼は歩き出し、手に持っていた袋をハルカに押し付けた。


「エレオノールの着替えだ。このまま俺の後ろについて来い。顔を上げるな。声も出すなよ」


ハルカはそれを抱きしめるように受け取り、小さく頷く。

そして、ヴァレルの後ろを追って歩き出した。



進む先は、ハルカが知る王宮の景色とはまるで違っていた。


磨き上げられた床も、豪奢な絵画も、煌びやかな装飾もない。

進むほどに装いは削ぎ落とされ、やがて無機質な石壁だけが続く通路へ変わっていく。

階段を下りるたび、空気が重く沈んでいった。湿った冷気が足元から這い上がり、肌へまとわりつく。


思わず両腕を抱き寄せた。


――エレオノールは、こんな場所にいるの。


胸の奥が鈍く痛んだ。


地下へ辿り着くと、そこには石造りの牢が並んでいた。


同じ王城の中とは思えないほど陰鬱な空間。

壁に掛けられた灯りは薄暗く、鉄格子の影が床へ黒く伸びている。


待機していた兵士たちはヴァレルの姿を見るなり背筋を正した。


「エレオノールは?」


ヴァレルの問いに、牢番の男が困り果てた顔で答える。


「……ドレスを脱ぎたいから服を用意しろ、その前に身体を洗わせろ、王女への扱いとして法に反する……などと、牢番を大変困らせております」


あまりにも彼女らしい言い草に、笑いそうになって、ハルカは慌てて奥歯を噛んだ。

同時に、こんな場所で平然としている姿が、逆に胸へ刺さる。


「一度、出す」


「はっ」


短いやり取りのあと、兵士たちが道を開ける。

ヴァレルは迷いなく奥へ進み、やがて一つの牢の前で立ち止まった。

周囲には他の囚人の気配もない。

静まり返った空間に、ヴァレルの声だけが響く。


「元気そうですね」


鉄格子の向こうから、聞き慣れた声が返ってきた。


「元気なわけないじゃない。こんな所へ閉じ込められて。私が病気になったら、どう責任取るの?」


ちゃんと話せている。

気丈に振る舞えている。


それが、余計につらかった。


「処罰が先かもしれませんよ。……後悔してます?」


「何を? 私は後悔するようなこと、一つもしていないわ」


「大した度胸ですね」


「それで? 用件は?」


「着替えです。明日には審問が始まるので」


鍵の外れる音が響く。

牢の扉が開くと、エレオノールは当然のように両手を差し出した。

その手首へ、ヴァレルが無言で手錠を掛ける。


金属音が、冷たく聞こえた。


「順応が早いですね」


「こうしないと外へ出られないって理解しただけよ」


鎖を引かれ、エレオノールが歩き出す。


ほんの数歩しか離れていないのに、声を掛けることもできない。


ハルカは帽子を深く被ったまま、黙って二人の後を追った。


地下から上へ続く階段を途中まで進んだところで、ヴァレルは進路を変えた。

人気のない通路を抜け、飾り気のない扉の前で立ち止まる。


扉を開け、中へ入る。


そこは簡素な小部屋だった。

中央に丸机と椅子が二脚。奥には寝台。その横の小卓には空っぽの水差し。

入ってすぐの左側に、もう一つ扉があった。


ヴァレルはエレオノールの手枷を外し、短く告げる。


「十分以内に支度を終えてください」


一度だけこちらを振り返り、部屋を出ていった。


扉が閉まると、エレオノールは手首を軽くさすり、ようやく肩の力を抜いた。


その仕草を見た途端、抑えていた感情が堰を切り、ハルカは彼女へ抱きついた。


「エレオノール……!」


抱きしめた身体は驚くほど冷えていて、胸が痛んだ。


「ハルカ!? どうして……」


驚きと困惑が混ざった声は、途中で途切れた。


身体を離し、真正面から彼女を見る。

目元が少し赤いけど、顔色は思ったほど悪くない。

けれど、閉ざされた空間にいたせいか、どこか痩せたようにも見えた。


「ちょっと待っててね」


ハルカは入口近くの扉を開ける。


中は小さな浴室だった。

さらに奥にもう一つ扉があり、厠へ繋がっているらしい。


火魔法で温めた湯へ布を浸し、固く絞る。

ヴァレルから預かった包みと一緒にエレオノールへ差し出した。


エレオノールがそれを受け取ると、ハルカは自然と背を向けた。


「随分思い切ったことしたわね」


ぱさりと、服が床に落ちる音がする。


「ヴァレルに頼んだの。意外と泣き落としに弱かったわ」


「……いつの間にそんな悪い女になったの?」


どこか楽しそうな声色は、いつものエレオノールだった。

その変わらなさに、少しだけ救われる。


「それより身体は平気? 変なことされてない?」


「大丈夫よ。……ジョエル、あれから何もしてきてない?」


「直接は何も。でも……あの流れ、完全に狙ってたよね?」


エレオノールは小さく息を吐く。


「そうね……着替え終わったわよ」


振り返ると、彼女は軽く髪をまとめ直していた。


囚われの身とは思えないほど落ち着いている。


「……あなたがカイラへ預けた原稿、読ませてもらった」


「……読んじゃったか」


エレオノールが少し居心地悪そうな顔をする。


「読んだ。全部」


「最悪のタイミングで読まれたわね」


「ほんとに最悪」


思わず声が強くなる。


「なんであんな話にしたの? どうして自分が悪役になる前提なの?」


エレオノールは少し考えるように黙ったあと、静かに答えた。


「簡単よ。その方が物語として綺麗に収まるから」


「物語の話じゃない! 現実のあなたの人生の話をしてるの!」


感情が抑えきれない。

エレオノールは逃げずにこちらを見る。


「誰かが悪者にならないと納得できない人間は多いの。だったら、その役を引き受けた方が早いでしょう?」


「だからって、自分が全部背負う必要ないじゃない……!」


「あるのよ」


迷いのない声だった。


「レガリアは、聖女より隣国の王女を庇う国ではないわ」


エレオノールはそこで瞼を伏せた。


「私なら悪役で済む。でも聖女や王太子が疑われれば、国はもっと壊れる」


その声は不思議なくらい穏やかだった。


「――それに私、ヴィランだもの」


「私はそんなの望んでない」


ハルカの言葉が震える。


「あなたに悪役なんてやってほしくない。ちゃんと幸せになってほしい」


エレオノールは困ったように笑った。


「私にとっての幸せは、フォルタへ帰ることなんだけど」


「それも危うくなってるじゃない」


「そうね。そこは計算外」


軽く返されて、ため息が漏れそうになる。


――この人は、本当に。


「……ごめん。エレオノール」


「何が?」


「あの小説、手を加える」


「え?」


「そのまま公開なんて、私もカイラも納得できない」


エレオノールの眉が少し上がる。


「……どうするつもり?」


「別の形で出す。あなたが伝えたかったことは残したまま、ちゃんと伝わる形に変える」


「……勝手に?」


「うん。怒ってもいい。でも止めないから」


ハルカの真剣な眼差しに、エレオノールが小さく笑った。


「別にいいわよ。二次創作歓迎だし」


廊下を歩く足音が近づき、自然と声が急いた。


「だけど……誰が書くの?」


「ロウ。構想はカイラ」


「……ロウか。面白くなりそうね。私も読めるかしら」


「名義も変える予定。ロウに迷惑が掛からないように」


「そうね。その方がいいわ」


あまりにもあっさり受け入れられて、逆に肩透かしを食らう。


そのとき、終わりの時間を告げるように扉が叩かれた。


「エレオノール、これ」


ハルカはポケットから魔石を取り出した。

削り、形を整え、守護術式を刻み込んだもの。


エレオノールが目を見開く。


「これ……」


「持ってて。聖女のお守り。悪しきものから身を守って、幸福をもたらす――気休めかもしれないけど」


聖女の力を魔道具化する研究の中で知った、聖女の加護。

エレオノールはしばらくその石を見つめたあと、丁寧に受け取った。


「ありがとう、ハルカ」


「絶対、助けるから」


その言葉に、エレオノールは静かに頷く。


直後、扉が開いた。

入ってきたヴァレルが無言で彼女へ手錠を掛けると、乾いた金属音が部屋へ響いた。


連れて行かれる背中を、ハルカは見送ることしかできなかった。



その夜、ハルカの部屋に訪れたルイの姿を見た途端、押さえていた感情が溢れ出した。

ハルカは逃げるように、その胸へ飛び込む。

しがみつくように服を掴んだまま、ハルカは顔を上げられなかった。

ルイは何も言わず、ただ背へ回した腕に力を込め、包み込むように抱き寄せる。

小さな嗚咽だけが、部屋に響いていた。


しばらくして、呼吸を整えたハルカは、涙の残る声で口を開いた。


「私……エレオノールに、会ってきました」


ぴくり、とルイの方が揺れた。


「……ヴァレルが、通してくれました」


「……何をしている」


即座に返ってきた声には、はっきりとした苛立ちが滲んでいた。


「危険だと分かっているはずだ。もし見つかりでもしたら――」


ルイの冷えた指が、ハルカの手首を掴んだ。


「分かってます」


それでもハルカは目を逸らさなかった。


「それでも、会いたかったんです」


ルイの瞳が揺らぎ、手首から指が放れていく。

何も言わず、その目はただハルカを見つめていた。

長く続いた沈黙のあと、ルイの強張っていた身体から力が抜けた。


「……そうか」


その声には、先ほどまでの鋭さは薄れていた。


「今、魔術師団長が自ら魔石の解析に入っている」


「師団長が?」


思わず聞き返す。


「モーリスが直接頼み込んだらしい」


あの日、誰よりも早く会場を離れた背中を思い出す。

彼はあの時から、もう動いていたのだ。


「……俺は、何も知らなかった」


胸を掴まれるような声で、ルイは苦し気に額を押さえた。


「光華祭の件、エレオノールが真犯人に辿り着いていたことは知っていたか?」


ハルカは記憶を手繰りながら答える。


「はい。エレオノールが書いた小説を読んで。そのあと、ヴァレルが持っていってしまって……」


――エレオノールは、もうずっと前から動いていたんだ。


「ユーベルから聞いた。フォルタの新資源の独占交渉と引き換えに、真犯人の調査を依頼していたそうだ」


「その小説を渡されたとき、エレオノールがヴァレルに聞いていたんです。彼の家の魔道具師のことを。話を聞きたかったけど、もう亡くなっているって……」


言い終えると、ルイの顔つきが険しくなる。

彼は乱暴に前髪を掻き上げた。


「どうして、そんな危ない真似をするんだ」


「事件の狙いを知るためと……たぶん、私からヴァレルを遠ざけるためです」


「まったく……」


ルイは深く息を吐いた。


「彼女はジャンにも小説を預けていた……ジョエルの本性を、彼女はとっくに見抜いていたんだ」


その目が伏せられる。


「俺がもっと早く気づけていたら……」


「誰も気づけなかったと思います」


ハルカの手が、ルイの手に重なる。


「あの二人は本性を隠すのが上手です。――ある意味、とてもよく似ていた。だから、お互いの正体に気づいたのかもしれません」


ルイは一度大きく深呼吸をしてから、重ねられた手を握った。


「――宰相からは、資源に関してフォルタとの契約は違反行為でないと証明させる。今回の件にも関与していないことを明確にするつもりだ」


平静な口調だったが、その裏ですでに多くの手が打たれていることが伝わった。


「……ナタリーも動いています」


そう告げると、ルイの目が細められた。


「貴族側を抑えるために」


「……なるほど。妙に静かだと思ったが、そういうことか」


「それから……エレオノールは、小説を残してました」


「……またか」


呆れたような返答に、笑みが込み上げた。


「今、彼女の了承をもらって手直ししています。名誉を守るための形に」


「そうか」


ルイは疲れを滲ませながらも、口元を和らげた。


「……あまり、無茶はするなよ」


ハルカが頷くと、ルイは言った。


「エレオノールを助けるぞ」


具体的な方法は語られない。それでも、その一言だけで十分だった。


明日、審問が始まる。


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