その悪役を、救う
翌朝、学院の正門前には帰郷する卒業生たちの馬車が列を作っていた。
荷箱を積み込む音。別れを惜しむ笑い声。
門の前では生徒たちが肩を寄せ合い、卒業後の朝が自然に流れている。
その穏やかさだけが、現実味を欠いて見えた。
――まるで、何もなかったみたい。
窓辺に立ったまま、ハルカは小さく息を吐いた。
昨夜、大広間で起きた出来事が、胸の奥に黒く沈んでいる。
自分が戻る先は王城だ。
望んで帰る場所ではないけれど、今はそこにエレオノールがいる。
部屋の扉が叩かれる。
「聖女様、出立のご準備が整いました」
王家の使者の声だった。
ハルカは足元の簡素なトランクを持ち上げ、最後に室内を見回す。
この二年間を過ごした部屋。
笑ったことも、泣いたことも、数え切れないほどあったはずなのに、脳裏に浮かぶのはたった一つだけ。
兵に囲まれながら歩いていく、エレオノールの後ろ姿。
胸の締めつけを振り払うように、部屋の扉を閉めた。
外には王家の紋章入りの馬車が待機していた。
その傍らに立っていたのは、黒の騎士服をまとったヴァレルだった。
学院時代から士官候補生として任務に就いていた彼は、卒業後もそのまま聖女護衛の任を与えられている。
「おはようございます、聖女様」
「……おはよう」
短い挨拶を交わし、馬車へ案内される。
中にルイの姿はなかった。
乗り込もうとしていた足が止まる。
ハルカは振り返り、そのままヴァレルの前へ立った。
「お願いがあるの」
言い終える前に、彼は眉間へ皺を寄せた。
「エレオノールには会わせられない」
予想していた返答だった。
「お願い。少しだけでいいの。あなたなら通せるでしょう?」
「無理だ。今の彼女は被疑者扱いだ。地下に拘束されている以上、誰であっても簡単には――」
途中で言葉が止まった。
ハルカが彼の制服の裾を掴んでいたからだ。
自分でも驚いていた。
こんなふうに誰かへ縋ったことなど、ほとんどない。
けれど頭の中には、冷たい石牢の中にいるエレオノールの姿しか浮かばなかった。
何も言わず、一人で全部を背負おうとしている姿。
気づけば、頬を涙が伝っていた。
「……っ」
雫が落ち、黒い布地へ濃い染みを作る。
「エレオノールは……私を守るために、あんなことしたのに……」
言葉の途中で喉が詰まって、うまく呼吸ができない。
しばらくして、頭上から、深いため息が降ってきた。
「はぁ……」
見上げると、ヴァレルは顔を逸らしたまま、小さく呟く。
「……わかったから、泣くな」
呆れているようにも、諦めているようにも聞こえる声だった。
♢
馬車の窓の外を、王都の街並みが流れていく。
見慣れたはずの景色が、今日はどこか遠かった。
これから先、自分には聖女としての役目が待っている。
王都各地の祭壇での祈祷。
瘴気発生源の浄化。
結界修復。
負傷兵や民への治癒。
そして、国を象徴する存在として人々の前へ立つこと。
――そんなの、今はどうでもいい。
ハルカの胸を占めているのは、ただ一つだった。
エレオノールを助けたい。
その想いだけが、何度も胸の内で繰り返される。
やがて馬車の速度が落ち、城門をくぐった。石畳の振動が止まり、到着を告げられる。
扉が開き、ヴァレルの手が差し出された。
その手を借りて地面へ降り立った直後、耳元へ低い声が囁く。
「部屋で待っていろ」
顔を上げる前に、彼はもう手を離していた。
迎えに出ていた侍女が、トランクを受け取りながら一礼する。
「お疲れさまでした、聖女様。お部屋へご案内いたします」
促されるまま、ハルカは王城へ足を踏み入れた。
以前と変わらないはずの光景なのに、今日は妙に冷たく感じる。
「……このあと、私は何をすれば?」
歩きながら問いかけると、侍女は少しだけ返答を選ぶ間を置いてから答えた。
「本日はご移動のお疲れもございますので、お休みいただくよう仰せつかっております。明日以降のご予定につきましては、今夜、神殿より正式な通達が届くかと」
「……そう」
それ以上は何も言わなかった。
部屋へ通された途端、押さえ込んでいた感情が一気に押し寄せる。
エレオノールのために、自分にできることは何か。
何度考えても、答えは出ない。
原稿はカイラとロウに託してある。
ナタリーも動いてくれている。
あの様子なら、きっと全力を尽くす。
――じゃあ、私は?
ハルカはトランクを開き、中からフォルタ産の魔石を取り出した。
淡い光を宿した石が、掌の上で静かに輝いている。
エレオノールへ疑いが向けられた原因だけど、あの石に細工など存在しなかった。
――あれは私の問題だ。
この力と魔石が強く共鳴したことで起きた暴走。
ならば、この力を制御できるのも自分だけだ。
ハルカは椅子へ腰掛け、小さな刃物を手に取った。
慎重に石へ刃を当てる。
少しずつ削り、形を整え、細かな溝を刻んでいく。
時間の感覚が曖昧になるほど作業へ没頭していた頃、不意に扉が叩かれた。
弾かれるように立ち上がり、扉を開けると、そこに立っていたのはヴァレルだった。
騎士服姿のまま、無駄な説明もなく包みを差し出してくる。
「これを着て出てこい」
それだけ告げると、彼は扉へ背を向けた。
ハルカは急いで扉を閉め、包みを広げる。
中に入っていたのは、侍女の制服だった。
「……なるほど」
理解した途端、胸の鼓動が速くなる。
迷っている暇はない。
服を着替え、髪を一つへまとめる。
黒髪を白い帽子の中へ押し込み、鏡の前へ立った。
そこに映っていたのは、王城で特別扱いされる聖女ではない。
どこにでもいる下働きの少女だった。
先ほど加工していた魔石をポケットへ忍ばせ、扉を開ける。
待っていたヴァレルは、ハルカを一度見て目を細めた。
「何?」
「なんでもない」
彼は歩き出し、手に持っていた袋をハルカに押し付けた。
「エレオノールの着替えだ。このまま俺の後ろについて来い。顔を上げるな。声も出すなよ」
ハルカはそれを抱きしめるように受け取り、小さく頷く。
そして、ヴァレルの後ろを追って歩き出した。
♢
進む先は、ハルカが知る王宮の景色とはまるで違っていた。
磨き上げられた床も、豪奢な絵画も、煌びやかな装飾もない。
進むほどに装いは削ぎ落とされ、やがて無機質な石壁だけが続く通路へ変わっていく。
階段を下りるたび、空気が重く沈んでいった。湿った冷気が足元から這い上がり、肌へまとわりつく。
思わず両腕を抱き寄せた。
――エレオノールは、こんな場所にいるの。
胸の奥が鈍く痛んだ。
地下へ辿り着くと、そこには石造りの牢が並んでいた。
同じ王城の中とは思えないほど陰鬱な空間。
壁に掛けられた灯りは薄暗く、鉄格子の影が床へ黒く伸びている。
待機していた兵士たちはヴァレルの姿を見るなり背筋を正した。
「エレオノールは?」
ヴァレルの問いに、牢番の男が困り果てた顔で答える。
「……ドレスを脱ぎたいから服を用意しろ、その前に身体を洗わせろ、王女への扱いとして法に反する……などと、牢番を大変困らせております」
あまりにも彼女らしい言い草に、笑いそうになって、ハルカは慌てて奥歯を噛んだ。
同時に、こんな場所で平然としている姿が、逆に胸へ刺さる。
「一度、出す」
「はっ」
短いやり取りのあと、兵士たちが道を開ける。
ヴァレルは迷いなく奥へ進み、やがて一つの牢の前で立ち止まった。
周囲には他の囚人の気配もない。
静まり返った空間に、ヴァレルの声だけが響く。
「元気そうですね」
鉄格子の向こうから、聞き慣れた声が返ってきた。
「元気なわけないじゃない。こんな所へ閉じ込められて。私が病気になったら、どう責任取るの?」
ちゃんと話せている。
気丈に振る舞えている。
それが、余計につらかった。
「処罰が先かもしれませんよ。……後悔してます?」
「何を? 私は後悔するようなこと、一つもしていないわ」
「大した度胸ですね」
「それで? 用件は?」
「着替えです。明日には審問が始まるので」
鍵の外れる音が響く。
牢の扉が開くと、エレオノールは当然のように両手を差し出した。
その手首へ、ヴァレルが無言で手錠を掛ける。
金属音が、冷たく聞こえた。
「順応が早いですね」
「こうしないと外へ出られないって理解しただけよ」
鎖を引かれ、エレオノールが歩き出す。
ほんの数歩しか離れていないのに、声を掛けることもできない。
ハルカは帽子を深く被ったまま、黙って二人の後を追った。
地下から上へ続く階段を途中まで進んだところで、ヴァレルは進路を変えた。
人気のない通路を抜け、飾り気のない扉の前で立ち止まる。
扉を開け、中へ入る。
そこは簡素な小部屋だった。
中央に丸机と椅子が二脚。奥には寝台。その横の小卓には空っぽの水差し。
入ってすぐの左側に、もう一つ扉があった。
ヴァレルはエレオノールの手枷を外し、短く告げる。
「十分以内に支度を終えてください」
一度だけこちらを振り返り、部屋を出ていった。
扉が閉まると、エレオノールは手首を軽くさすり、ようやく肩の力を抜いた。
その仕草を見た途端、抑えていた感情が堰を切り、ハルカは彼女へ抱きついた。
「エレオノール……!」
抱きしめた身体は驚くほど冷えていて、胸が痛んだ。
「ハルカ!? どうして……」
驚きと困惑が混ざった声は、途中で途切れた。
身体を離し、真正面から彼女を見る。
目元が少し赤いけど、顔色は思ったほど悪くない。
けれど、閉ざされた空間にいたせいか、どこか痩せたようにも見えた。
「ちょっと待っててね」
ハルカは入口近くの扉を開ける。
中は小さな浴室だった。
さらに奥にもう一つ扉があり、厠へ繋がっているらしい。
火魔法で温めた湯へ布を浸し、固く絞る。
ヴァレルから預かった包みと一緒にエレオノールへ差し出した。
エレオノールがそれを受け取ると、ハルカは自然と背を向けた。
「随分思い切ったことしたわね」
ぱさりと、服が床に落ちる音がする。
「ヴァレルに頼んだの。意外と泣き落としに弱かったわ」
「……いつの間にそんな悪い女になったの?」
どこか楽しそうな声色は、いつものエレオノールだった。
その変わらなさに、少しだけ救われる。
「それより身体は平気? 変なことされてない?」
「大丈夫よ。……ジョエル、あれから何もしてきてない?」
「直接は何も。でも……あの流れ、完全に狙ってたよね?」
エレオノールは小さく息を吐く。
「そうね……着替え終わったわよ」
振り返ると、彼女は軽く髪をまとめ直していた。
囚われの身とは思えないほど落ち着いている。
「……あなたがカイラへ預けた原稿、読ませてもらった」
「……読んじゃったか」
エレオノールが少し居心地悪そうな顔をする。
「読んだ。全部」
「最悪のタイミングで読まれたわね」
「ほんとに最悪」
思わず声が強くなる。
「なんであんな話にしたの? どうして自分が悪役になる前提なの?」
エレオノールは少し考えるように黙ったあと、静かに答えた。
「簡単よ。その方が物語として綺麗に収まるから」
「物語の話じゃない! 現実のあなたの人生の話をしてるの!」
感情が抑えきれない。
エレオノールは逃げずにこちらを見る。
「誰かが悪者にならないと納得できない人間は多いの。だったら、その役を引き受けた方が早いでしょう?」
「だからって、自分が全部背負う必要ないじゃない……!」
「あるのよ」
迷いのない声だった。
「レガリアは、聖女より隣国の王女を庇う国ではないわ」
エレオノールはそこで瞼を伏せた。
「私なら悪役で済む。でも聖女や王太子が疑われれば、国はもっと壊れる」
その声は不思議なくらい穏やかだった。
「――それに私、ヴィランだもの」
「私はそんなの望んでない」
ハルカの言葉が震える。
「あなたに悪役なんてやってほしくない。ちゃんと幸せになってほしい」
エレオノールは困ったように笑った。
「私にとっての幸せは、フォルタへ帰ることなんだけど」
「それも危うくなってるじゃない」
「そうね。そこは計算外」
軽く返されて、ため息が漏れそうになる。
――この人は、本当に。
「……ごめん。エレオノール」
「何が?」
「あの小説、手を加える」
「え?」
「そのまま公開なんて、私もカイラも納得できない」
エレオノールの眉が少し上がる。
「……どうするつもり?」
「別の形で出す。あなたが伝えたかったことは残したまま、ちゃんと伝わる形に変える」
「……勝手に?」
「うん。怒ってもいい。でも止めないから」
ハルカの真剣な眼差しに、エレオノールが小さく笑った。
「別にいいわよ。二次創作歓迎だし」
廊下を歩く足音が近づき、自然と声が急いた。
「だけど……誰が書くの?」
「ロウ。構想はカイラ」
「……ロウか。面白くなりそうね。私も読めるかしら」
「名義も変える予定。ロウに迷惑が掛からないように」
「そうね。その方がいいわ」
あまりにもあっさり受け入れられて、逆に肩透かしを食らう。
そのとき、終わりの時間を告げるように扉が叩かれた。
「エレオノール、これ」
ハルカはポケットから魔石を取り出した。
削り、形を整え、守護術式を刻み込んだもの。
エレオノールが目を見開く。
「これ……」
「持ってて。聖女のお守り。悪しきものから身を守って、幸福をもたらす――気休めかもしれないけど」
聖女の力を魔道具化する研究の中で知った、聖女の加護。
エレオノールはしばらくその石を見つめたあと、丁寧に受け取った。
「ありがとう、ハルカ」
「絶対、助けるから」
その言葉に、エレオノールは静かに頷く。
直後、扉が開いた。
入ってきたヴァレルが無言で彼女へ手錠を掛けると、乾いた金属音が部屋へ響いた。
連れて行かれる背中を、ハルカは見送ることしかできなかった。
♢
その夜、ハルカの部屋に訪れたルイの姿を見た途端、押さえていた感情が溢れ出した。
ハルカは逃げるように、その胸へ飛び込む。
しがみつくように服を掴んだまま、ハルカは顔を上げられなかった。
ルイは何も言わず、ただ背へ回した腕に力を込め、包み込むように抱き寄せる。
小さな嗚咽だけが、部屋に響いていた。
しばらくして、呼吸を整えたハルカは、涙の残る声で口を開いた。
「私……エレオノールに、会ってきました」
ぴくり、とルイの方が揺れた。
「……ヴァレルが、通してくれました」
「……何をしている」
即座に返ってきた声には、はっきりとした苛立ちが滲んでいた。
「危険だと分かっているはずだ。もし見つかりでもしたら――」
ルイの冷えた指が、ハルカの手首を掴んだ。
「分かってます」
それでもハルカは目を逸らさなかった。
「それでも、会いたかったんです」
ルイの瞳が揺らぎ、手首から指が放れていく。
何も言わず、その目はただハルカを見つめていた。
長く続いた沈黙のあと、ルイの強張っていた身体から力が抜けた。
「……そうか」
その声には、先ほどまでの鋭さは薄れていた。
「今、魔術師団長が自ら魔石の解析に入っている」
「師団長が?」
思わず聞き返す。
「モーリスが直接頼み込んだらしい」
あの日、誰よりも早く会場を離れた背中を思い出す。
彼はあの時から、もう動いていたのだ。
「……俺は、何も知らなかった」
胸を掴まれるような声で、ルイは苦し気に額を押さえた。
「光華祭の件、エレオノールが真犯人に辿り着いていたことは知っていたか?」
ハルカは記憶を手繰りながら答える。
「はい。エレオノールが書いた小説を読んで。そのあと、ヴァレルが持っていってしまって……」
――エレオノールは、もうずっと前から動いていたんだ。
「ユーベルから聞いた。フォルタの新資源の独占交渉と引き換えに、真犯人の調査を依頼していたそうだ」
「その小説を渡されたとき、エレオノールがヴァレルに聞いていたんです。彼の家の魔道具師のことを。話を聞きたかったけど、もう亡くなっているって……」
言い終えると、ルイの顔つきが険しくなる。
彼は乱暴に前髪を掻き上げた。
「どうして、そんな危ない真似をするんだ」
「事件の狙いを知るためと……たぶん、私からヴァレルを遠ざけるためです」
「まったく……」
ルイは深く息を吐いた。
「彼女はジャンにも小説を預けていた……ジョエルの本性を、彼女はとっくに見抜いていたんだ」
その目が伏せられる。
「俺がもっと早く気づけていたら……」
「誰も気づけなかったと思います」
ハルカの手が、ルイの手に重なる。
「あの二人は本性を隠すのが上手です。――ある意味、とてもよく似ていた。だから、お互いの正体に気づいたのかもしれません」
ルイは一度大きく深呼吸をしてから、重ねられた手を握った。
「――宰相からは、資源に関してフォルタとの契約は違反行為でないと証明させる。今回の件にも関与していないことを明確にするつもりだ」
平静な口調だったが、その裏ですでに多くの手が打たれていることが伝わった。
「……ナタリーも動いています」
そう告げると、ルイの目が細められた。
「貴族側を抑えるために」
「……なるほど。妙に静かだと思ったが、そういうことか」
「それから……エレオノールは、小説を残してました」
「……またか」
呆れたような返答に、笑みが込み上げた。
「今、彼女の了承をもらって手直ししています。名誉を守るための形に」
「そうか」
ルイは疲れを滲ませながらも、口元を和らげた。
「……あまり、無茶はするなよ」
ハルカが頷くと、ルイは言った。
「エレオノールを助けるぞ」
具体的な方法は語られない。それでも、その一言だけで十分だった。
明日、審問が始まる。




