物語を、書き換える
エレオノールの背中が、重い扉の向こうへ飲み込まれていく。
金色の髪が揺れ、兵の揃った足音が遠ざかる。それでもハルカの目には、その後ろ姿だけが焼き付いて離れなかった。
低く鈍い音をたてて閉じた扉は、大広間の空気を震わせた。
その途端、それまで押し潰されていたざわめきが一斉に噴き出す。
「どういうことだ……?」
「本当に、聖女暗殺未遂……?」
「ミス・ヴィランって、あの……?」
囁き声が幾重にも重なり、床を這うように広がっていく。
ハルカは立ち尽くしたまま、閉ざされた扉を見ていた。
隣ではルイも動かなかった。何かを追うように前を見据えたまま、呼吸すら浅い。
そこへ、広間の中央へ歩み出たジョエルが、よく通る声を響かせた。
「皆さま、ご心配をおかけしました」
その微笑みは、いつもの王子の顔だった。
穏やかで、親しみやすくて、安心感を与える笑み。
けれど今のハルカには、その全部が薄く冷えて見えた。
「彼女がレガリアへの脅威となり得るのかどうか、これで正式に調べられます。今回の件は、必要な処置だったのです」
その言葉に、溜まっていたものが弾けた。
「エレオノールは無実よ!」
声が広間へ響き渡る。
周囲の視線がこちらへ集まるのを感じた。
ジョエルがゆっくりとハルカを見る。
その目には驚きも怒りもない。ただ、観察するような冷たさだけがあった。
「……見事ですね」
口元だけが笑う。
「聖女様をここまで取り込むとは」
皮肉が混じった声音に、ハルカは奥歯を噛み締めた。
「取り込む……?」
「違いますか?」
ジョエルは肩をすくめる。
「あなたはもうレガリアの聖女だ。にもかかわらず、彼女を庇う。そこまでして守る価値が、本当にありますか?」
反論しかけたところで、横から腕を掴まれた。
「――ハルカ」
振り返ると、ルイがこちらを見ている。
これ以上前へ出るな、と押し留める手に力がこもっていた。
ハルカは唇を噛む。
その背後で、小さな舌打ちが聞こえた。
モーリスが、苛立ちを隠そうともせず扉へ向かっていく。
ルイがジョエルへ向き直った。
「ジョエル、どういうつもりだ」
押し殺した声だったが、その奥には怒気が滲んでいる。
対するジョエルは、涼しい顔のまま首を傾げた。
「どう、とは?」
「彼女を拘束する理由だ」
「ああ」
軽く頷く。
「危険因子を排除しただけですよ」
「エレオノールが危険だと?」
「ええ」
迷いなく返された答えに、広間が騒然とする。
ジョエルは周囲へ目を向けた。
「あの人は“物語”で人を動かす」
その言葉に、近くにいた女生徒たちが肩を揺らした。
「実際、この学院ではミス・ヴィランの新作を心待ちにする者が大勢いた」
俯く生徒たち。
否定できない沈黙。
ジョエルは続ける。
「さらに聖女様を味方につけ、フォルタの新資源を通じて宰相家へも影響を広げた」
そこで視線がユーベルへ集まる。
ユーベルは眉ひとつ動かさなかったが、周囲の空気が硬くなった。
「その上で兄上との婚約を解消した。――ここまで揃っていて、“何も企んでいません”では通りませんよ」
言い返そうとして、言葉が止まる。
ジョエルの組み立て方が巧妙だった。
点だった出来事を、強引に一本の線へ変えている。
しかも、完全な嘘ではない。
だからこそ厄介だった。
「真実は、これから明らかになります」
ジョエルはそう言い残し、彼は人の波を引き連れるように扉の向こうへ消えていった。
重苦しい空気だけが、会場に残された。
♢
いつ広間を出て、着替えたのか。どうやってここまで来たのか、途中の記憶が抜け落ちたまま、気づけばハルカは寮の部屋に戻っていた。
扉に背を預けたまま、しばらく動けなかった。
「……なんで」
漏れた声は、自分でも驚くほど小さい。
頭の奥で、嫌な考えが渦を巻いていく。
――これが、強制力?
ゲームの中で、エレオノールは断罪される悪役だった。
でも、自分たちはそれを変えたはずだった。
未来を知って。
選択を変えて。
関係を築いて。
なのに、結果だけが元の筋書きへ戻ろうとしている。
まるで物語そのものが、“悪役”を必要としているみたいに。
エレオノールが、自分からその役を引き受けたから?
だから世界が、それに合わせて動いた?
――違う。
世界が私たちを罰しているんじゃない。
誰かが、“そう見える物語”を作っている。
考え始めたところで、扉を叩く音がした。
控えめなノック音に、現実へ引き戻される。
「ハルカ。カイラよ」
その声に、ようやく身体が動いた。
ハルカが扉を開けると、そこにはカイラと、隣に立つナタリーの姿があった。
二人を部屋へ通し、長椅子を勧める。
ハルカは机の椅子を引き寄せ、向かいへ座った。
「どうして二人が?」
問いかけると、カイラはナタリーと顔を見合わせてから、切り出した。
「私たち、幼馴染なの。……それで、ナタリーに相談して」
「相談?」
カイラは抱えていた封筒を差し出した。
厚みのある封の中から取り出された原稿の束を見た瞬間、ハルカの呼吸が止まる。
見覚えのある字。
「これ……」
カイラが静かに頷いた。
「卒業式のあと、エレオノール様から預かったの……民に広めてほしいって」
ハルカの指先が紙を滑って、やっとの思いでめくられる。
部屋の窓は閉められているのに、指先が冷えていた。
ハルカは読み終わった原稿を見下ろしたまま、しばらく呆然としていた。
紙からはまだ新しいインクの匂いがかすかに残っている。エレオノールの筆跡を見ているだけで、つい数時間前まで隣で笑っていた姿が脳裏に浮かぶ。
「……こんなの、おかしい」
掠れた声が漏れる。
机の上には、広げられた原稿。
タイトルは『悪役令嬢の選択』。
聖女を支える王子と、その裏で身勝手な恋情を抱え、自ら破滅へ落ちていく令嬢。
けれど、肝心な部分だけが抜け落ちている。
彼女が何を守ろうとしたのか。
何を捨てようとしたのか。
どうして自分から悪役になろうとしたのか。
「……これじゃ、本当にただの悪女だよ」
ナタリーが頷いた。
「エレオノール様、多分わざと書かなかったのよね」
全部、自分一人で背負う形にした。
最後まで。彼女らしい、と言えばそうだった。
腹が立つくらいに。
カイラが原稿の端を指で叩いた。
「でも、このまま世に出したらジョエル殿下に利用される。“本人も自分を悪役として書いていた”って」
ナタリーが続ける。
「出さないって手もありますわね。でも、今夜の話はもう大勢が聞いています。明日には街まで広がるでしょう」
何もしなければ、“悪役エレオノール”だけが一人歩きする。
誰かが面白おかしく語れば、噂は形を変えて広がる。
そうなれば、エレオノールは本当に戻れなくなる。
ハルカは原稿を握る指に力を込めた。
「……嫌」
ぽつりと落ちた声に、二人が顔を上げる。
「エレオノールが、こんな終わり方するの、嫌」
鼻の奥が熱い。
泣きたくなんかないのに、感情だけが勝手にせり上がってくる。
彼女はずっと、自分の役目だけを見ていた。
ハルカとルイが結ばれること。
決められた筋書きから抜け出すこと。
フォルタへ帰ること。
そのためなら、自分が悪者になっても構わないと、本気で思っていた。
「私は、そんなの望んでない……」
俯いたまま絞り出した声に、沈黙が落ちる。
外では風が強くなってきたらしく、窓硝子が細かく鳴った。
「――変えたい」
顔を上げたハルカの目には、迷いがなかった。
「エレオノールが自分で削った部分を、私たちが繋ぐの」
「でも……」
「勝手なのはわかってる。でも、今やらなかったら、きっと後悔する」
「それなら……元の原稿は、そのまま残す」
カイラが紙束を持ち上げる。
「でも、世に出すのは別。エレオノール様が書いた物語を土台にして、別の視点を加えて一つの物語に組み直すの。筆跡から本人だと分からないよう清書した写しにして、作者の名前も出さない」
「それを書ける人……」
三人とも自然に黙り込んだ。
文芸の仲間たちの中でも、書ける人となると少ない。
その上、エレオノールの文章を理解している人間でなければ、継ぎ足した部分だけ浮いてしまう。
沈黙のあと、カイラがぽつりと言った。
「……ロウなら、できるかもしれない」
その名に、ハルカは目を瞬かせた。
ロウ。
エレオノールの作品に誰よりも影響を受けて、誰よりも読み込んでいた少女。
「文体も近いし、感情の乗せ方も似てる。もちろん、そのまま真似できるわけじゃないけど……少なくとも、壊さずに書けると思う」
「でも、引き受けてくれるかな……」
するとカイラが、まっすぐこちらを見た。
「ロウに頼むしかないわ」
その言葉には、もう迷いがなかった。
「エレオノール様が一人で全部背負うなんて、私も認められないもの」
♢
夜はすっかり更けていた。
廊下に灯された魔道灯も光を落とし、寮全体が静かな眠りへ沈み始めている。
けれど、ハルカたちの足取りは止まらなかった。
先頭を歩くカイラがロウの部屋の前で立ち止まり、控え目に扉を叩く。
しばらくして内側から小さな物音が聞こえ、鍵の外れる音とともに扉が細く開いた。
顔を覗かせたロウは、カイラを見た途端、驚いたように目を見開いた。
卒業式のあと、エレオノールとの別れに誰よりも泣いていた少女だ。泣き腫らした名残がまだ瞼に残っている。
「……どうされたんですか?」
そこにハルカとナタリーまで並んでいるのを見て、戸惑いが隠しきれない様子だった。
「少し、話を聞いてほしいの」
カイラが静かに告げると、ロウは迷うことなく扉を大きく開けた。
「どうぞ」
机の上には書きかけの原稿が何枚も並び、インク瓶の横には使い込まれたペンが置かれている。
エレオノールの影響を受けていると言われる理由が、部屋を見るだけでわかる気がした。
「何か、あったんですか?」
不安を含んだ問いに、ハルカたちは顔を見合わせる。
それから、プロムで起きた出来事を順番に話した。
婚約破棄。
ジョエルの告発。
そして、エレオノールが兵に連れて行かれたことを。
「――そんな……っ!」
ロウの声が思わず大きくなる。
「エレオノール様が……!?」
すぐにカイラが唇の前へ指を立てた。
とはいえ、明日になれば学院中へ広まるだろう。
いや、もう今頃は誰かが誰かへ話しているかもしれない。
ロウは信じたくないものを無理やり聞かされたような顔で、口元を押さえたまま立ち尽くしていた。
「……それでね、お願いがあるの」
カイラが抱えていた封筒から原稿を取り出し、ロウへ差し出す。
ロウは震える指先でそれを受け取った。
「これは……」
「エレオノール様が残した原稿よ。民衆へ広めてほしいって、卒業式のあとに託されたの」
カイラが内容を簡潔に説明しながら、ロウの手をそっと包み込む。
「でも、このままだとエレオノール様は“悪役”として終わってしまう。だから――ロウに書き足してほしいの」
ロウが顔を上げた。
「……私が?」
掠れた声だった。
「無理です、そんなの」
拒絶ははっきりしていた。
当然だと思う。
エレオノールの文章に手を加えるなど、誰にとっても恐れ多いことだ。
しかも、下手をすれば王家に逆らう行為だ。ただの創作では済まない。
ハルカは一歩前に出た。
「このまま世に出たら、エレオノールは本当に“悪女”として記憶される。――でも、そんなの違う」
ロウは手の中の原稿へ目を落としたまま動かない。
「エレオノールは、この物語が広まることを望んでる。だけど、それだけじゃ駄目なの。彼女が何を考えて、何を選んだのか、誰にも伝わらないままになる」
「……そもそも、どうしてこんな話を書いたんですか」
戸惑いに満ちたロウの問いに、ハルカは顔を伏せ、視線だけを持ち上げた。
「私のため。私がルイ殿下を好きになったから」
三人が息を呑んだ。
「エレオノール自身も自由になりたかったの。国に帰って、自分の人生を生きたかった。最後に私たちを悪者にしないために、自分が全部背負おうとしたんだと思う」
ロウの指先が原稿の端を強く握り締める。
「そんなことしたら……」
「わかってる」
苦しくなるほど、わかっている。
「それでも、彼女はやったの。エレオノールって、そういう人だから」
ナタリーが静かに口を開いた。
「ご自身の立場を捨ててでも、守りたいものを選ばれたのでしょうね」
沈黙のあと、カイラが遠慮がちに尋ねた。
「……あの、自国に愛する人がいるって話、本当なの?」
ハルカは苦笑した。
「ある意味では本当かな」
「え?」
「相手、人じゃなくて猫だけど」
その途端、カイラが吹き出した。
「ふふ……っ、エレオノール様らしい……!」
重かった空気が少しだけ緩むけれど、それも長くは続かなかった。
ハルカは原稿を見下ろしながら呟く。
「でも、このままだと帰国どころじゃなくなる。罪まで被せられたら、本当に終わってしまう」
そして改めて、ロウを見つめた。
「お願い、ロウ。あなたの力を貸して」
「私からもお願い」
カイラが続ける。
「できることなら何でもする」
ナタリーも深く頭を下げた。
「私もできる限りあなたを守ります。父にも必ず掛け合いますわ」
三人に囲まれ、ロウはしばらく黙り込んでいた。
やがて覚悟を決めたように、大きく息を吐く。
「……わかりました」
小さな声だったが、その中には確かな決意があった。
「エレオノール様のため、なんですよね」
確認するように向けられた瞳に、ハルカはしっかり頷いた。
「ええ」
「猶予は、どれくらいありますか?」
その問いには、ナタリーが答える。
「長引けばフォルタとの外交問題にも発展します。残された時間は多くないでしょう」
「……最悪の場合は?」
ハルカが尋ねると、ナタリーは迷わず答えた。
「罪状だけを見れば、最悪の場合、死罪もあり得ます」
死罪。
その言葉だけが頭の中に重く沈む。
エレオノールが処刑される光景など、想像したくもない。
「――でも、そうはさせません」
ナタリーの声が、暗闇に火を灯す。
ロウは原稿を抱き締めた。
「では、すぐ取り掛かります。カイラ先輩、構想はありますか?」
「うん。まずは、令嬢側の視点を整理したいの」
話し始めた二人を残し、ハルカとナタリーは部屋を出た。
廊下へ出ると、夜気の冷たさが肌を刺す。
静まり返った空間の中で、ハルカは隣を歩くナタリーへ声をかけた。
「……ナタリーは、こんなことして大丈夫なの?」
「私は、エレオノール様に救われたんです」
ナタリーは目を伏せた。
「あの方がいなかったら、私、ずっと暗闇の中を歩いてたかもしれません。……少しでも、恩返しができればいいのですけれど」
そう言って、少しだけ肩の力を抜いた。
「ユーベル殿は、平気?」
ジョエルは、まるでエレオノールが宰相家を操っていたかのような印象を、あの場で植え付けていた。
ナタリーは安心させるように微笑む。
「問題ありませんわ。宰相家へ疑いが向く可能性くらいは、彼も考えていたはずです」
ゲームの中でも、ユーベルは抜け目のない人物だった。
直接関わる機会は少なかったが、その有能さだけはよく覚えている。
ナタリーは続ける。
「私は朝一番で実家へ戻ります。父に協力を取り付けてみますわ」
そこで少しだけ表情を曇らせた。
「……娘の頼み程度で、簡単に動く人ではありませんけれど」
それでも、顔を上げる。
「ですが、やるしかありません」
そう言い残して、ナタリーは廊下の向こうへ歩き去っていった。
別れたあと、ハルカも自室へ戻る。
扉を閉めた途端、周囲の音が急に遠くなった気がした。
静まり返った部屋の中で、背中を扉へ預ける。
――助けたい。
ハルカは机に向かい、魔法書を取り出す。
エレオノールを助けるために、自分ができることを探し始めていた。




