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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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27/35

その罪は、誰が書いた

窓を押し開けると、夜気を含んだ風が頬を撫でて抜けていった。

昼間はあれほど人の声で満ちていた学院も、今は眠りについたように静まり返っている。遠くの木立が風に鳴る音だけが、暗い校舎のあいだから細く届いていた。


机の上には、綴じ終えた原稿が整然と並んでいる。

最後に走らせたインクはすでに乾き、紙の端を指でなぞっても指先は汚れなかった。


「……これで、全部」


背もたれへ体を預けると、椅子が小さく軋む。


最後の原稿――『悪役令嬢の選択』


これを託せば、自分の役目は終わる。

長かった学院生活も、婚約も、全部。


ようやく、フォルタへ帰れる。


――そう思っていた。


少なくとも、ここまでは。



講堂に鳴り響いた鐘の余韻が、高い天井へ吸い込まれていく。


大きなアーチ窓から差し込む春の光が、整列した生徒たちの肩を白く照らしていた。床には色硝子の影が落ち、厳かな空気の中を、制服の擦れる音だけが静かに流れていく。


卒業式。


六年前、新しい制服に袖を通してこの場所へ立った頃の自分は、まさかこんな終着点を迎えるとは想像もしていなかった。


ハルカが現れてから、すべてが変わった。


止まっていた物語が動き出し、噛み合わなかった運命が音を立てて繋がっていく。

良くも悪くも、あの日から世界は予定通りではなくなった。


けれど今日で終わる。


卒業式の後に開かれるプロム。

そこで、全部を終わらせる。


緩みそうになる口元を、奥歯を噛んで押し留めた。


ハルカとルイには、あらかじめ婚約解消を公の場で行うと伝えてある。


あの時のハルカは、驚いたあと、小さく息を飲み込んでいた。問いただしたいことは山ほどあったはずなのに、彼女は最後まで何も聞かなかった。ただ頷き、自分の指先を握りしめていた。


一方で、ルイは顔を曇らせた。


「……なぜ、わざわざ人前でやる必要がある」


押し殺した声だったが、不満は隠し切れていなかった。

当然だ。普通なら、できる限り穏便に済ませようとする。


「公の場だからこそ、意味があるのです」


揺れないよう、一語ずつ置いていく。


「密室で済ませれば、“円満な解消”として処理されるでしょう。ですが、それでは誰かの都合で塗り替えられる余地が残る」


ルイの眉が深く寄る。


「公衆の前で交わされた言葉は、記録になります。見た者の記憶に残り、噂になり、やがて事実として定着する」


逃げ場のない現実になる。


彼はしばらく黙ってから、問う。


「……それが、君の望みか」


言葉が一瞬詰まる。

だから、曖昧に笑った。


「ええ」


それ以上は話さなかった。


この選択がどれだけ歪で、自分本位で、後戻りのできないものか。

口にした途端、全部崩れてしまいそうだったから。


ただ、一つだけ決めている。


――ハルカとルイを、悪役にはしない。


卒業式を終えた中庭には、生徒たちの声が溢れていた。


別れを惜しむ者。泣きながら抱き合う者。花束の匂いと春風が入り混じり、学院最後の日らしい賑やかさが広がっている。


その中心で、エレオノールも文芸部の後輩たちに囲まれていた。


「エレオノール様ぁ……やっぱり寂しいです……!」


「まだ卒業って実感ないんですけど……でも、もう会えなくなるんですよね……」


次から次へと声が飛んできて、最後には誰が何を言っているのか分からなくなる。涙声ばかり増えていき、鼻をすする音まで混ざり始めた。


差し出された花束を受け取る。

薄桃色や白の花が幾重にも重なり、甘い香りがふわりと漂った。


「そんな顔しないで。永遠の別れでもあるまいし」


「でもぉ……!」


今にも泣き崩れそうな後輩の頭を軽く撫でると、余計に涙腺が崩壊したらしい。周囲まで釣られて泣き始め、エレオノールは困ったように肩を落とした。


隣では、花束を抱えたカイラとハルカがこちらを見ている。


ハルカが何か耳打ちすると、カイラが呆れたように肩をすくめた。どうやら完全に面白がられている。


その時。


「ハルカ」


人混みの向こうから、ルイの声が届いた。


ハルカは振り返り、小さく返事をする。

それから「ちょっと行ってくるね」とこちらへ目配せした。


エレオノールが頷くと、彼女はすぐルイの方へ向かっていった。

並んで歩いていく二人の背中を見送りながら、エレオノールは隣へ顔を向けた。


「カイラ」


呼ばれた彼女が、軽く眉を上げる。


「お願いがあるの」


空気が変わったことを察したのだろう。

カイラの口元から笑みが消えた。


「……なんですか」


エレオノールは抱えていた花束の下から、一通の封筒を抜き取る。厚みがあり、中には紙束が入っているのがわかった。


カイラはそれを受け取り、指先で重みを確かめる。


「あなたのお母様、劇団や吟遊詩人の後援をされていたでしょう?」


「はい」


「これを、民衆へ広げてほしいの」


カイラの目が細くなる。


「お母様の影響力なら、街頭の語り部や旅芸人を動かすのは容易いでしょう」


封筒を持つ彼女の指先が、僅かに動いた。


「……中、見ても?」


「ええ。でも読むのは今日が終わってから」


カイラが露骨に顔をしかめる。


「拷問ですか? ミス・ヴィラン作品を目の前に積まれて、“読むな”は」


「今日を越えてからの方が、もっと楽しめるわよ」


からかうように返すと、カイラは黙り込んだ。


探るようにこちらを見ている。

何を企んでいるのか、どこまで考えているのか、その奥を測ろうとしている目だった。


やがて、彼女は小さく息を吐く。


「……わかりました。預かります」


「よろしくね」


風が吹き抜け、中庭の花びらが舞い上がった。

春の光の中を、淡い色だけが静かに流れていく。



広間の外は、隠しようもないほど熱を帯びていた。

プロムの準備に追われる参加者たちが行き交い、衣擦れの音や笑い声があちこちで重なる。

最後の夜を惜しむような浮き立った空気が、学院全体を覆っていた。


エレオノールが選んだのは、銀灰色のドレスだった。

胸元には幾重ものフリルが波打ち、落ち着いた色味の中にだけ控えめな華やかさを残している。


「本当によくお似合いです」


背後から声がかかる。


鏡の中の自分と目が合った。

どう見ても、この格好に眼鏡は合わない。

それでも外せなかった。

外してしまったら、世の中がすべて曖昧な輪郭にぼやけてしまう。


会場へ入ると、光が一気に押し寄せてくる。


高い天井から吊るされたシャンデリアが無数の輝きを落とし、磨かれた床へ反射していた。色とりどりのドレスが揺れ、楽団の演奏が人々のざわめきに溶け込んでいく。


その中で、真っ先に目を引いた色がある。


ハルカだった。


深紅のドレスが、彼女の黒髪を鮮やかに浮かび上がらせている。耳元で揺れる真珠の飾りが白い光を弾き、そのたびに彼女の横顔が柔らかく見えた。


こちらに気づいたハルカが、ぱっと表情を明るくする。


その顔に、押し込めていた感情がじわりと滲んだ。


――これが終われば、しばらく会えなくなる。


寂しい。

その感情は確かにあったが、それを表へ出すつもりはない。

エレオノールは普段通りの顔を作ったまま、彼女のもとへ歩み寄る。

こうして隣に立つ時間も、もう長くはない。


楽団の音色を合図に、広間の空気が切り替わった。


差し出されたルイの手へ、自分の指を重ねる。


「今日は転ばないでくれよ?」


「ええ。もちろん」


あの日転んだのはわざとだった。気づいていないのはルイだけ。

プロムのたびに取ってきた手も、これで最後。

不思議と寂しさより、肩の荷が下りる感覚の方が強かった。


曲が終わり、ルイが離した手を、そのままハルカへ差し出した。


二人の距離は、一年前とは比べものにならないほど自然になっている。並んだ姿には、もう迷いがない。


エレオノールは静かに輪から外れ、壁際へ移動した。


人の少ない場所に、モーリスが立っている。案の定、誰とも踊る気はないらしい。

こちらに気づくと、彼は軽く目を細めた。


「さすがに今日は出席するのね」


「ええ。欠席すると面倒そうだったので」


相変わらずだ。


「踊らないの?」


「興味ありません」


そのぶれなさが可笑しくて、エレオノールは肩を揺らす。


「ねぇ。どうだった? 学院生活」


モーリスは少しだけ考え込むように黙ったあと、素っ気なく答えた。


「予想通り退屈でした――最初の三年間は」


「それって、ハルカが来てから変わったってこと?」


「ええ。正確には、あなた方が問題ばかり起こすので退屈している暇がなくなりました」


呆れたような口調なのに、口元は少し緩んでいる。

その変化に気づき、エレオノールも笑った。


「……ハルカのこと、ありがとう」


モーリスは眉を動かした。


「礼を言われることではありません。聖女様の教育は命令でしたから」


エレオノールは右手へ目を落とした。

中指にあった指輪は、もう外されている。ハルカの指からも、同じように。


不要だと判断したのはモーリスだと聞いた。聖女の制御も安定し、あの指輪に頼る理由はなくなった。

これから先、彼女の薬指には別の指輪が収まるだろう。


音楽が変わり、広間の空気が次の流れへ移り始めていた。


――そろそろね。


エレオノールは静かに息を吐いた。


最後の幕を上げる時間だ。



「ルイ殿下。婚約を、解消してください」


広間から音が消えた。


つい先ほどまで響いていた演奏も、談笑も、遠くへ引き剥がされたように途絶える。

エレオノールは手元の扇子を閉じ、そのままルイの前へ進み出た。


「……申し訳ありません、殿下」


自分でも驚くほど、声はよく通った。

ざわめきの消えた広間に、その言葉だけが真っ直ぐ落ちていく。


「私には、国に愛する者がおります」


周囲の空気が一変した。


息を呑む気配。

誰かが小さく囁く声。

無数の感情が、一斉にこちらへ向いたのがわかった。


「誰よりも気まぐれで、誰よりも私を縛らない存在です」


胸の奥で、白い毛並みがふわりと揺れる。


「……彼と離れている時間は、胸を引き裂かれるようで」


言葉が重なるたびに、場の緊張が濃くなる。


「そのような気持ちを抱えたまま、殿下の隣へ立つことはできません。レガリアの王太子妃として振る舞う資格も、私にはない」


顔は伏せたまま。

けれど、言葉だけは濁さない。


「どうか、私の身勝手をお許しください。――婚約を、解消してください」


深く頭を下げる。


張りつめた空気の中、衣擦れの気配とともにルイの声が届いた。


「……エレオノール。それを、今ここで言うのか」


責めるというより、確認だった。


エレオノールはゆっくり顔を上げる。


何も答えない。

その沈黙だけで十分だった。


ルイは息を吐き、目を閉じる。


「……そうか」


それから顔を上げ、王太子としての声で告げた。


「エレオノール・メルダ。君との婚約は、この場で破棄する」


堰を切ったように広間がざわめいた。


驚愕、好奇、軽蔑、愉悦。

あらゆる感情が混ざり合い、波のように押し寄せてくる。


その中心で、エレオノールは静かに息を吐いた。


――ごめんなさいね。


胸の奥に浮かんだ感情へ苦笑するけど、立ち止まる気はなかった。

ルイの隣へ意識を向ける。

その先には、ハルカ。


――殿下をよろしくね。


言葉にはしない。

それでも、きっと伝わる。


エレオノールは踵を返した。


広間の空気が背中へ突き刺さる。


王子に恥をかかせた女。

他の男に心を奪われた愚かな婚約者。


今日から自分は、そういう役になる。


そしてハルカは、傷ついた王子を支える聖女になる。


完璧な配役だった。


扉へ向けた足を、不意に呼び止められるまでは。



「お待ちください」


広間の出口へ向けていた足が止まる。


裂け目のように、人垣が左右へ割れた。


その奥から現れたのは、ジョエルだった。


いつものように笑みを浮かべているが、その目だけは冷え切っていた。

磨き上げられた硝子みたいに、温度がない。


「義姉上……ではありませんね、もう」


柔らかい声なのに、その場の空気がひやりと冷える。


「――エレオノール様。少し、お時間を」


「……何かしら?」


問い返すと、ジョエルは手にしていた紙束を持ち上げた。


何人もの手に渡り端が擦れた、見覚えのある冊子。


嫌な予感がわきあがる。


「これは、あなたの作品で間違いありませんね?」


紙の表紙を指で叩く。


「――ミス・ヴィラン」


その名が出た途端、周囲の空気が変わった。

好奇心と猜疑が入り混じった熱が、肌へじわりとまとわりつく。


「だとしたら?」


肯定も否定も避けたまま返すと、ジョエルの口元が深く歪んだ。


「結構。話が早い」


紙を一枚めくる。


「この『光の檻』。光華祭を舞台にした作品ですが……そこで描かれている聖女の状態が、先日の事故と酷似している」


ページへ目を落としたまま続ける。


「まるで、事前に知っていたかのように」


広間が静まっていく。

誰もが、次の言葉を待っている中、ジョエルはゆっくり顔を上げる。


「――あの暴走は、あなたが仕組んだものでは?」


「はぁ!?」


思わず声が出た。


だがジョエルは眉一つ動かさない。

最初から、その反応まで計算していたみたいに。


「当日、聖女様が使用していたのは、フォルタの新資源である特殊な魔石。まだ国内には流通していない代物です」


指先で原稿を軽く叩く。


「事前に入手し、学内へ持ち込める人間は限られる」


ゆっくりと、こちらを見る。


「――フォルタ王家の人間であれば、なおさら」


「待って!」


ハルカが人垣を押し分けるように前へ出た。

深紅のドレスの裾が揺れる。


「あれは本当に私の暴走よ! 制御しきれなかっただけ! エレオノールは関係ない!」


切羽詰まった声だった。

けれどジョエルは首を傾けるだけ。


「……本当に?」


「え……?」


「本当に、そう断言できますか?」


静かな声なのに、逃げ道を削るみたいに鋭い。

ハルカの足が止まる。


「もし、その魔石に細工がされていたとしたら?」


ハルカの顔から血の気が引いた。


「……エレオノールに魔力はないわ」


「ええ、もちろん」


ジョエルは即座に頷く。


「ですが、人を動かすことはできます」


その目がこちらを射抜く。

まるで、獲物を壁際へ追い詰めるみたいに。


――やられた。


内心で舌打ちする。


この場で否定したところで、疑念は消えない。


むしろ、広がる。


「それと――」


ジョエルが再び原稿をめくる。


「この物語には、もう一つ興味深い点がある」


楽しんでいる。

そうとしか思えない声音だった。


「実行犯とは別に、“裏で糸を引く存在”が描かれている」


ページを閉じ、ルイへ顔を向ける。


「兄上。もちろん、お読みになりましたよね?」


ルイの肩が硬くなる。

その変化を見逃さず、ジョエルの笑みが深まった。

もう愛嬌なんて欠片もない。


「もしかして」


笑顔が消える。


「兄上が聖女様を手に入れるために、エレオノール様と共謀していた、なんてことはありませんか?」


誰かが息を呑む音が、すぐ近くで聞こえた。


ルイが口を開く前に、声が飛び出していた。


「殿下は関係ないわ!」


エレオノールの声が広間へ響く。


「この小説は全部、私一人で書いたものよ! 誰にも見せていない! ただの創作よ!」


「……創作」


ジョエルがゆっくり、嚙み潰すみたいに繰り返す。


「では、その創作を現実へ近づけるために、事件を起こした可能性は?」


「そんなことしてない!」


「光華祭の際も、暴走した魔道具を止めたのは、あなたでしたね」


「たまたまよ。ハルカがいなければ、完全には戻せなかった」


「その方が都合が良かった、とも考えられる」


「いい加減にして!」


胸の奥で暴れていた苛立ちが、そのまま声へ出た。


「私は何もしていないわ!」


「否定は簡単です」


「なら証拠は? 私がやった証拠があるの?」


ジョエルは沈黙したが、すぐに答える。


「ありません」


拍子ぬけするほど、早かった。

その返答が、逆に空気をざわつかせたが、ジョエルは構わずに続けた。


「ですが、疑う理由は十分にある」


その直後だった。


重厚な扉が、低い音を立てて開き、足音が揃って響く。

現れた兵士たちの先頭に立っていたのは、騎士団の制服を纏ったヴァレルだった。


無表情のまま、一枚の書面を開き、感情を削ぎ落した声で読み上げる。


「エレオノール・メルダ。貴殿に『国家安寧を乱す陰謀』および『聖女暗殺未遂』教唆の疑いがある。国王陛下代理、第二王子ジョエル殿下の命により――これより身柄を拘束する」


王家の紋章が、燭光を鈍く返す。


逃げ道は、最初から塞がれていた。


「待て! 越権行為だ!」


ルイが前へ出て兵を押し退けようとした、その動きをジョエルが止めた。


「兄上。これはあくまで調査です」


穏やかな声だったが、その奥に潜むものは、露骨な威圧そのものだ。


「ジョエル」


「彼女の潔白を証明するためにも、聖女様へ使用された魔石と、この“作品”の関連性を審問室で調べる必要があります」


逃げ場を塞いでいくように、続けられる。


「それとも兄上は、聖女様の命を狙った疑いのある人物を、このまま放置すると?」


「それは……」


ルイの声が止まる。


どちらを選んでも終わる。実に綺麗な詰ませ方だった。


――本当に、性格が悪い。


その隙を逃さず、兵たちの手が伸びてくる。

強引で遠慮がない指が腕に掴まれると、背筋が粟立った。


――ここでは覆らない。


頭のどこかが、妙に冷静だった。


エレオノールは兵の手を振り払った。


「触らないで」


声を張る。


「私はフォルタ国第一王女よ」


兵たちの動きが鈍るが、包囲は崩れない。


「エレオノール!」


ハルカの声。


振り返ると、不安と怒りを滲ませた顔がそこにあった。

今にも飛び出してきそうだったから、先に口を開く。


「大丈夫よ」


語尾が震えたが、それだけ告げて前を向く。

視界の端に、カイラの姿が映った。


――こうなった以上、あの原稿はどう読まれるのかしらね。


兵に囲まれたまま、エレオノールは広間を後にした。

閉まりかけた扉の向こうでは、まだざわめきが渦を巻いていた。


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