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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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26/35

答えは、もう揺るがない

エレオノールの足が、床を行ったり来たりする。

自分でも落ち着きがないと思うのに、止まらなかった。


寮の玄関ホールは夕方の冷えた空気が流れ込んでいて、扉が開くたびに外の風が頬を撫でる。


右手を握って、開いた。


もう痛みはない。

ポーションで治した傷は綺麗に消えていた。赤みすら残っていない。

それでも、あの時の衝撃だけが皮膚の奥に残っている気がした。


――ハルカ、かなり怯えていた。


光に飲まれた教室の中で、泣きそうな顔が脳裏によみがえる。

助けを呼ぶことすらできなくなっていた声。


――何もできなかった。


自分自身にため息をついた時、正面の扉が開く。

顔を上げると、ずっと待っていた姿が現れた。


「ハルカ!」


考えるより先に足が動いていた。


「大丈夫!?」


問いかける声が思ったより強くなる。

ハルカは目を瞬かせ、それからふっと力を抜くように笑った。


「うん。もう平気」


その顔を見た途端、肩から力が抜けた。


――よかった、本当に。


「それより……ごめんね」


ハルカの目が、こちらの手へ落ちる。

エレオノールは軽く手を振った。


「ああ、これ?」


何でもないことみたいに見せる。


「ポーションですぐ治ったわ。ほら」


指を開いて見せると、ハルカはようやく少し安心したように息を吐いた。


「……よかった」


小さな声だった。

その顔を見ていると、妙に胸がむず痒い。


――本当に、この子は。


自分があんな状態だったくせに、先に他人の怪我を気にするなんて。


「エレオノール」


不意に、呼ばれた声の調子が変わった。

エレオノールが顔を上げると、黒い瞳がまっすぐこちらを見ている。


「話があるの」


その言い方で、何を言われるのか察してしまいながらも小さく頷いた。


ハルカの後ろについて階段を上がる。

女子寮の廊下は静かだった。夕食前の時間だからか、人の気配も少ない。


部屋の前でハルカが鍵を開ける。

中へ入るのはこれで二度目だった。


光華祭のあと以来。


扉が閉まる音がして、外と切り離される。


相変わらず整った部屋だった。机の上には教材と魔道具の工具が綺麗に並べられている。余計な物がないのも、いかにもハルカらしい。


「座って」


促されるまま椅子に腰を下ろす。


ハルカは少し離れた場所に立ったまま、ぎゅっと指を握った。


そして。


「ごめんなさい、エレオノール」


深く頭を下げた。


「――私、ルイ殿下のことが好き」


ゆっくり顔を上げたハルカの目には、もう迷いがなかった。


――ああ、ようやく。


本当に、長かった。


「……やっと」


「え?」


間の抜けた声が返ってくる。

エレオノールは立ち上がった。


「やっと言ってくれたわね!」


そのまま勢いで抱きついた。


「えっ、エレオノール!?」


腕の中でハルカが慌てている。

けれどそんなこと気にしていられなかった。


本人たちは隠しているつもりでも、周囲から見ればほとんど答え合わせみたいな状態を延々見せられていた身にもなってほしい。


少ししてから腕を緩め、肩を掴んで顔を覗き込んだ。


「待ってたのよ。いつ言ってくれるのか」


「待ってたって……いつから?」


「あなたが殿下を好きになった辺りから?」


ハルカの顔が一気に赤くなる。


「やっぱり気づいてたんだ……」


「気づくわよ。というか、ハルカの推しの趣味がわかりやすすぎるの」


「うっ……」


「見た目はいかにもな王子様系。責任感強くて、優しくて、ちょっと抜けてる。ほぼ殿下じゃない」


「やめて、分析しないで……!」


両手で顔を覆うハルカが、あまりにも可愛くて吹き出しそうになる。


「それで?」


エレオノールはにやりと笑った。


「殿下には?」


ハルカがこくりと頷く。

その瞬間、危うく声を上げそうになった。


ルイルート確定。


内心で盛大にガッツポーズを決めていると、ハルカが困ったように眉を下げる。


「待って、エレオノール」


「何?」


「なんでそんな嬉しそうなの……?」


「え?」


逆に不思議だった。


「友達の恋が実ったのよ? 嬉しいに決まってるじゃない」


「でも……」


ハルカは口ごもる。

その顔に浮かんでいるのは、罪悪感だ。


エレオノールは苦笑して、ベッド脇にもたれかかった。


「そんな顔しないで。元々、私と殿下の婚約って感情で結ばれてるものじゃないの」


静かな声で続ける。


「立場と体面。必要だから隣にいた。ただそれだけ」


ルイの顔を思い出す。


十二歳の時に決まった婚約。長い付き合いだ。互いに信頼もある。

でも、それは恋ではなかった。


「でも殿下は、ちゃんと好きな人を見つけた」


ハルカが黙ってこちらを見ている。


「だったら私は応援したいわ。幸せになってほしいもの」


ルイはずっと王太子として生きてきた。

自分の感情より責務を優先して。それがどれだけの重さか、同じ立場だからこそ理解ができた。

そんな彼が、初めて自分から欲しいと思った相手だ。


それがハルカなら、なおさら。


「……エレオノールには、好きな人いないの?」


不意打ちみたいな質問に、エレオノールはつい目を逸らした。


「……いるわよ」


「え! 誰!?」


さっきまで沈んでいたのに、食いつき方がすごい。


「城で帰りを待ってもらってるの」


「……へえ」


「多分もう忘れられてるでしょうけど」


警戒心の強いあの子を思い出す。

抱き上げようとした瞬間、全力で逃げられた日のことまで蘇った。


「柔らかい白い毛でね。すごくいい匂いがするの」


懐かしい。


「膝に乗って喉を鳴らしてくる時なんて、本当に幸せで……」


「あ、待って」


ハルカが手を上げる。


「それ人じゃないよね?」


エレオノールは平然と頷いた。


「猫よ。ノエルっていうの」


「やっぱり!」


ハルカが脱力したように肩を落とす。

その反応が面白くて、笑ってしまった。


ひとしきり笑ったあと、エレオノールは息を吐く。


「だから、私のことは気にしなくていいの」


そして、少しだけ口角を上げた。


「――それに、今回の件は私の予定通りでもあるし」


「え?」


ハルカが目を丸くする。


「ちょっと待って。それって大丈夫なの?」


「大丈夫よ」


エレオノールはさらりと言った。


「私が国に帰るためにね、必要なこと」


その言葉に、ハルカの表情が止まる。


「……どうしてそこまでして国に帰りたいの?」


エレオノールは眼鏡を押し上げた。

それから、ゆっくりとハルカへ瞳を向ける。


「私は、好きでもない人と結婚したくない。自由に生きたかったの。でも、立場上それが許されなかった」


彼女はハルカを見て口元に微笑を浮かべた。


「諦めてたの。全部。……でも、あなたがこの世界にきてくれたおかげで、変えられるかもしれないって思った。……はじめて、希望を持つことができた」


ハルカが俯く。呟いた声は小さかった。


「……それでも、離れるのは寂しいよ」


エレオノールはハルカの手を握った。


「そうね。でも、隣国よ。会おうと思えばいつでも会えるわ」


「本当?」


「ええ」


握り返された指先に少しだけ力が入って――ほどかれた。



あれだけ騒ぎになった教室は、数日も経たないうちに元の顔へ戻っていた。


割れていた窓硝子は綺麗に入れ替えられ、床に散乱していた器具も片付けられている。

午後の日差しまで以前と同じ角度で差し込み、何事もなかったように机を照らしていた。


あの日、空気そのものが軋んでいた場所とは思えない。


エレオノールは頬杖をつきながら、向かいのモーリスを見た。


「結局、原因は何だったのかしら」


モーリスはすぐには答えなかった。

机の上に置かれた術式が書かれた紙へと目を落とし、何か言葉を選ぶように指先で縁をなぞる。


「……精神面の揺れが、引き金になった可能性が高いですね」


「揺れ」


「聖女の力は感応性が強い。特に魔石との適性が高い分、状態が不安定な時は引っ張られやすいんです」


彼は青緑色の魔石を指先で転がした。


「過去の記録でも、感情の高ぶりや疲弊で制御を乱した例はいくつか残っています」


エレオノールは黙ったまま窓の外へ目を向けた。


旧図書館へ行った日。

あの時のハルカは、何かを抱え込んでいた。

聞けば話したかもしれない。けれど、踏み込めなかった。

それ以上は踏み込まない方がいい、と判断した。


――本当に、それでよかったのか。


「ですが」


モーリスが声を続ける。


「結果としては悪いことばかりでもありませんでした」


つられるように、エレオノールも中庭へ目を向けた。

窓から風が入り込み、白いカーテンを揺らす。


中庭のベンチでは、ハルカが一人で魔力制御の訓練をしていた。


指先へ集めた光を細く伸ばし、崩れそうになる寸前で整える。

以前なら途中で波打っていた力が、今は驚くほど滑らかに流れていた。


「かなり安定しています。あれなら暴走の危険性は低いでしょう」


「……そう」


返事をしながらも、エレオノールは目を離せなかった。


確かに制御は上達しているが、“原因”が消えたわけではない。蓋をしただけかもしれない。

そんな考えが胸の底に沈んだまま、消えない。


「少し外します」


モーリスが席を立つ。

エレオノールは軽く手を振って見送った。

扉が閉まり、実験室から人の気配が消える。


静かになった空間で、再び窓の外へ目を戻した、その時だった。


木陰の向こうから、ヴァレルが歩いてくる。


エレオノールは反射的に窓際へ寄った。

開け放たれた窓から、ヴァレルの声が届く。


「もう平気か?」


ハルカが顔を上げる。


「うん。……ヴァレルこそ怪我してない?」


「殿下に止められたからな」


苦笑混じりの返事。

けれど、その後に続く沈黙が妙に長かった。


風が枝を揺らす音だけが間に落ちる。


「……あのね、ヴァレル。私――」


「殿下を選んだんだろ」


先回りするみたいに、ヴァレルが言った。

ハルカの肩が止まり、それから小さく頷いた。


「……うん」


ヴァレルは少し空を見上げ、それから笑った。

いつものような軽薄さも、挑発的な響きもない。


「……まあ、そうだろうなとは思ってた」


冗談めかして言うくせに、声が少し掠れている。

ハルカが何か言おうと口を開く前に、ヴァレルが続けた。


「言っただろ。ハルカが誰を選んでも、俺はこの先も守っていくよ」


軽く言ったはずなのに、その言葉だけ妙に重かった。


ハルカが俯く。

握った指先へ力が入るのが、ここからでも見えた。


「……ありがとう」


小さな声だった。

ヴァレルは返事をしない。

ただ、少しだけ目を細めて、それから背を向けた。


いつも通り、迷いのない足取りで木立の奥へ消えていく。


ハルカは追いかけなかった。

ただ、その背中が見えなくなった後も、しばらく同じ場所を見つめている。


エレオノールはゆっくり窓の下へしゃがみ込んで、膝を抱えた。


――終わったのね。


ハルカはもう、自分で選べる。

迷って、傷ついて、それでも最後には自分の言葉で答えを出せるところまで来た。


それはずっと望んでいたことだったはずなのに。


窓から吹き込む風が、頬を撫でていく。

秋が深くなっている。

終わりが近い。


そんな気配だけが、静かに胸へ積もっていった。



「エレオノール、話がある」


その切り出しを聞いた途端、心の中で小さく笑ってしまった。


少し前、ハルカも同じ顔で同じ台詞を言ってきた。


窓の外はもう夕暮れだった。

西日の橙はほとんど消えかけ、空はゆっくり群青へ沈み始めている。


廊下にはジャンが控えていたが、ルイは扉を閉めるなり指先で空間をなぞった。

薄い光が壁際を走ると、空気がふっと静まり返った。


「これで外には漏れない」


「随分慎重ですのね」


軽く返したつもりだったのに、ルイは笑わなかった。


「……大事な話だから」


その声音で、もう確信する。

エレオノールは机へ寄りかかるように立ったまま、続きを待った。


ルイは一度息を吐く。


「婚約を、解消してほしい」


すぐには答えず、沈黙の中で、エレオノールは彼を見た。

その顔は、責任から逃げずに、それでも自分の願いを口にしようとしている顔だった。


「理由を伺っても?」


わかってはいたが、それでも、彼自身の言葉で聞きたかった。


ルイは一度目を伏せて、迷いを押し込めるように顔を上げる。


「好きな人がいる」


「どなた?」


「……ハルカだ」


その名を聞いた瞬間、胸の内で安堵が広がる。


――ようやく言った。


けれど表情には出さず、エレオノールは静かに問いを重ねた。


「婚約を解消した場合、何が起こるか理解していますか?」


ルイは黙って頷く。


「王太子と隣国王女の婚約破棄です。ただの恋愛沙汰では終わりません」


部屋の空気が冷えていく。


「フォルタとレガリア、両国への影響。王家への不信。国内貴族の動揺。――当然、聖女にも矛先は向きます」


ルイは目を逸らさなかった。


「ああ」


「“聖女が王太子を奪った”と噂されるでしょうね」


その言葉に彼の眉がかすかに寄るが、彼は退かなかった。


「それでも、私が守る」


強く、はっきりとルイは言った。


「ハルカは、必ず守る。何があっても」


真っ直ぐすぎる答えに、エレオノールはため息をついた。


「……殿下」


「?」


「あなた、そういう言い方をすると余計に不安を煽りますわ」


「え?」


「“何があっても守る”“命を懸ける”系の台詞、女性はあまり安心しません」


ルイが完全に詰まる。


「いや、私は別にそういうつもりで――」


「ふふっ、わかっています」


とうとう吹き出してしまった。

その姿を見て、ルイの肩の力が抜ける。


「ごめんなさい。少し意地悪をしました」


ルイは困ったように額へ手を当てた。


「……その覚悟があるか、確認したかっただけです」


ルイは何も言わなかったが、その眼差しが答えを表していた。


この婚約は、放っておけば続いた。

国のため、立場のために、互いに異論もなく、きっと表面上は穏やかなままに。


それでも彼は、自分で壊しに来た。


――ハルカを選ぶために。


「婚約解消に伴う補償は当然こちらで用意する」


ルイが続ける。


「これは私の我儘だ。それでも……彼女を失いたくない」


エレオノールは小さく頷いた。


「知っていました」


「……何を?」


「あなたがハルカに惹かれていたこと」


ルイが苦く笑う。


「やはりか」


エレオノールは眼鏡の位置を直す。


「そもそも、私たちの婚約は政略です」


淡々と確認する。


「なら、それ以上の利益が成立するなら解消も合理的でしょう?」


ルイが目を細める。


「……まさか」


何かに気づいた顔だった。


「フォルタの新資源……あれは」


「そちらの宰相閣下と父の成果ですわ。私は何も」


肩をすくめると、ルイは呆れ半分の顔になる。


「君は本当に……」


それ以上は続けなかった。


「殿下」


エレオノールは姿勢を正し、彼に視線を合わせた。


「ハルカを幸せにしてくださいね」


ルイは迷わなかった。


「ああ。必ず」


その返答を聞いて、最後の引っ掛かりがストンと胸に落ちた。


今の彼なら、大丈夫だ。

ハルカも、国も、ちゃんと背負っていける。


エレオノールは防音魔法の境界を抜け、扉へ向かった。


外へ出た途端、廊下の冷たい空気が頬に触れる。

壁際に控えていたジャンに、エレオノールは封筒を差し出す。

中はジョエルが読んで置いていった小説だ。


――この先、王位継承争いは避けられない。


ジャンは無言で受け取り、中身を確認しようとはしなかった。


「あなたが必要だと思ったら、殿下へ渡して」


ジャンの目が静かに細められる。


「承知いたしました」


深く頭が下がる。


エレオノールはその横を通り過ぎた。


数歩進んだところで、ようやく小さく息を吐く。

胸の奥が少しだけ軽くなって、そして計算にはなかった空白が残ったのを自覚して、唇を少し歪めた。

それでも、進むしかない。

あとは予定通り、舞台を完成させるだけだった。


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