その力は、あなたが導いた
中庭に面した教室には、やわらかな午後の日差しが流れ込んでいた。
窓辺へ広がる光が、机いっぱいに散らばった術式図と、青緑の魔石を淡く照らしている。
「ここで流れを切り替えれば――」
「いえ、その構成だと術式同士が衝突します」
モーリスと向かい合いながら、ハルカは魔道具の試作品の調整を続けていた。
その少し離れた場所では、エレオノールが本を開いている。
読んでいる、というよりは、半分眠っていた。
窓から入る風に髪を揺らしながら、こくり、こくりと舟を漕いでいる姿は、いつもの張りつめた雰囲気が嘘みたいだった。
思わず口元が緩んだ、その時だった。
「……あれ?」
何気なく手に取っていた青緑の魔石が、掌の上で明滅している。
一定ではない。不規則に脈打っていた。
「モーリス、これ――」
言い終えるより早く、光が急激に膨れ上がる。
ぱきり、と小さな亀裂音。
直後、空気そのものが軋んだ。
「きゃっ――!」
掌へ走った衝撃に、反射的に魔石を握り込んでしまう。
それがまずかった。
閉じ込められたように見えた光が、一気に噴き出した。
視界が真っ白に塗り潰される。
何も見えない。
音も遠い。
ただ、自分の内側から何かが溢れ出してくる感覚だけが、異様なほど鮮明だった。
――なに、これ……
ぼやけていた景色が、ゆっくり輪郭を取り戻していく。
気づけば、ハルカの周囲には半透明の膜のようなものが張り巡らされていた。
そこから噴水みたいに光が溢れ続けている。
「ハルカ!」
「近づかないでください!」
エレオノールが駆け寄ろうとする。
モーリスが制止する声より早く、伸ばされた指先が光へ触れ――次の瞬間、強く弾き飛ばされた。
「っ……!」
床へ手をつきながら、エレオノールが顔をしかめる。
その手が赤くなっているのが見えた。
――怪我、させた。
鼓動が嫌な音を立て始める。
来ないで。
これ以上、近づかないで。
そう叫びたいのに、喉がうまく動かなかった。
光はさらに膨張を続ける。
机の上に並んでいた器具が次々と弾き飛ばされ、床へ叩きつけられていく。
金属音とガラスの割れる音が、耳障りに響いた。
「……何、これ……」
自分の声なのに、ずっと遠く聞こえる。
押さえようとしても止まらない。
内側から、際限なく溢れてくる。
怖い。
どうしよう。
止めたいのに、止まらない。
「共鳴している……?」
モーリスの声が緊迫を帯びる。
「その魔石が、感情に引きずられている……!」
モーリスが即座に術式を展開する。
「外部から干渉します!」
幾重にも円環が重なった制御術式が広がっていく。
だが、接触した途端に弾け飛んだ。
パキン、と破砕音が響く。
もう一度。
さらに別の術式。
それも、届いた瞬間に砕け散っていく。
「そんな……!」
動揺を隠せていない声だった。
その時、勢いよく教室の扉が開いた。
「どうした!?」
飛び込んできたのはルイだった。
その後ろにはヴァレルの姿もある。
「――ハルカ!」
こちらを見た、ルイの声には驚きと焦りの色が滲んでいる。
助けて、と叫びそうになるが、喉が塞がったみたいに動かない。
モーリスが青ざめたまま、ルイへ振り返った。
「殿下、このままでは周囲への被害が広がります」
「止められないのか」
「外部からの制御は不可能です。本人の制御能力に依存しています」
――本人。
窓ガラスへ細い亀裂が走る。
ぴし、ぴし、と不気味な音を立てながら、蜘蛛の巣みたいに広がっていく。
このままじゃ壊してしまう。
全部。
「やめて……」
震えた声と一緒に涙が滲む。
「転移は!?」
エレオノールが叫ぶが、モーリスは即座に否定した。
「駄目です。場所を移しても根本的な解決にはなりません」
ヴァレルが剣を抜き、強引にでも光を断ち切ろうと踏み込む。
「ハルカ、下がれ」
しかし刃は見えない壁に阻まれ、激しく火花を散らした。
なおも前へ出ようとする彼の腕を、ルイが強く掴んだ。
「それ以上近づくな。お前まで怪我をする」
「ですが!」
「下がれ」
有無を言わせない押さえた声に、ヴァレルは歯を食いしばりながら、一歩退いた。
誰も近づけない。
誰にも止められない。
その事実に呼応するように、光がさらに大きく脈動した瞬間、ルイの声が、鋭く空気を裂いた。
「モーリス」
「はい」
「範囲はどこまで広がる」
モーリスは険しい顔のまま、光膜の揺らぎを見つめた。
「このまま魔力の膨張が続けば、教室の壁は保ちません。外へ溢れ出します」
「結界は張れるか」
「外周なら可能です。ただ、中へ干渉すると術式ごと弾かれます」
「十分だ。やれ」
いつの間にか、教室の異変に気づいた生徒たちが廊下へ集まり始めていた。ざわめきと不安げな声が、開いた扉の向こうから押し寄せてくる。
ルイは間を置かずに命じた。
「ヴァレル。周囲の生徒を下がらせろ。絶対に近づけるな」
その声に、ヴァレルが険しい顔で舌打ちを飲み込む。
「……承知しました」
本当は離れたくないのだろう。
それでも彼はすぐ踵を返し、扉の外へ駆け出していった。
モーリスの術式が床へ広がる。
淡い光が壁沿いを走り、教室全体を包み込むように膜を形成していく。
その間も、暴走した力は収まらない。
机の上の器具が浮き上がり、次々に弾き飛ばされていく。
床へ落ちるたび、金属音が乱暴に跳ね返った。
息が苦しい。
胸の奥で何かが脈打つたび、光が膨れ上がる。
――止めなきゃ。
そう思うほど、力は暴れた。
「ハルカ」
ルイが一歩、こちらへ近づく。
膜の向こう側。
危険だとわかっているはずなのに、その足取りには迷いがなかった。
「……殿下」
喉が焼けつくように痛い。
涙で滲む視界の中でも、彼だけははっきり見えた。
ルイはまっすぐハルカを見る。
その眼差しは、崩れそうな彼女を立たせるための色をしていた。
「こちらから抑え込む方法はない」
やはり、そうなのだ。
誰かが代わりに終わらせてくれるわけではない。
モーリスでも、ルイでも、できない。
怖い。
また壊すかもしれない。
エレオノールの手が脳裏をよぎった。
光へ触れた瞬間、弾かれた細い指先。
あれ以上、誰も傷つけたくない。
「だけど」
ルイの声が、思っていたよりも近くで聞こえた。
「君ならできる」
はっきりした声音だった。
励ましでも、願望でもない。
当然のことを告げるような口調。
「自分で止めるんだ」
――自分で。
その言葉が、胸の内に深く沈む。
誰かに守ってもらうのではなく。
誰かの力で封じるのでもなく。
自分の力を、自分で受け止める。
指先が震え、呼吸も浅い。
それでもハルカは、ぎゅっと唇を噛み、一度目を閉じた。
そして、開く。
その瞳には、目の前に立つルイの姿が映っている。
「……やります」
返した声は震えていたけれど、逃げてはいなかった。
ゆっくり息を吸う。
暴れている魔力へ意識を沈めていく。
荒れ狂う濁流の中心へ、そっと手を差し入れるように。
押さえつけない。
ねじ伏せない。
拒まず、流れを読む。
触れた途端、激流が牙を剥いた。
身体の奥を掻き回される感覚に息が詰まる。
だけど――
そのすぐ傍へ、別の魔力が寄り添ってきた。
春の日差しみたいだった。
柔らかく、静かで、無理に引っ張らない。
何度も触れたことがある――ルイの魔力だ。
直接干渉しているわけではない。
ただ、崩れないよう支えてくれている。
背中へ添えられた手みたいに。
荒れていた光が揺らぐ。
「外側から共鳴を……」
モーリスの声が遠く聞こえた。
波立つ力を、少しずつ均していく。
乱れた旋律を整えるみたいに、呼吸を合わせる。
ゆっくり。
焦らず。
ひとつずつ。
やがて暴れていた光が、ふ、と輪郭を失った。
次の瞬間。
教室を埋め尽くしていた輝きが、嘘みたいに消えた。
一瞬遅れて、甲高い破砕音を立てて、ひび割れていた窓ガラスが床へ崩れ落ちる。
全身から力が抜けて身体が傾いたところで、ルイの腕がハルカを支えた。
「……ハルカ」
耳元で、安堵した声がした。
できた、と伝えたかった。
大丈夫だと笑いたかった。
けれど唇はうまく動かず、意識だけがゆっくり沈んでいく。
最後に見えたのは、泣きそうな顔でこちらを見るルイだった。
♢
ハルカが目を覚ましたのは、夕暮れが終わる頃だった。
医務室に差し込む橙色の光が、白いシーツの上へ細長く伸びている。
薬草を煎じた匂いと消毒液の香りが混ざり合い、静かな室内に薄く漂っていた。
身体を起こそうと腕に力を入れた途端、全身に重さが返ってくる。
鉛でも詰め込まれたような感覚に眉を寄せると、すぐ傍から低い声が落ちた。
「無理をするな」
顔を向ける。
ベッド脇の椅子に腰掛けていたルイが、こちらを見ていた。
整った顔立ちはいつも通り穏やかなはずなのに、今はどこか余裕がない。
「……殿下」
掠れた呼び声に、彼の肩から力が抜ける。
「よかった」
その言葉が、妙に胸へ染み込んだ。
「一生、目を覚まさないんじゃないかと思った」
真顔で言われ、思わず吹き出しそうになる。
「ふ、ふふ……」
「なぜ笑う?」
困惑したように眉を寄せる姿が、妙に真剣で、余計に可笑しかった。
「ごめんなさい。……あの小説の一節にあったなって」
「ああ……」
すぐに思い当たったのだろう。
ルイの耳がほんのり赤く染まる。
同時にエレオノールの手が弾かれた姿が思い出された。
「殿下、エレオノールは?」
「大丈夫だ。モーリスが回復ポーションを浴びせるようにかけてたよ」
「よかった……」
ゆっくり身体を起こすと、ルイとの距離が自然と近づいた。
「……助けてくれて、ありがとうございます」
改めて言葉にすると、彼は静かに首を横へ振る。
「違う。君が、自分で止めたんだ」
あのとき。
暴走する力の中で、自分一人では立っていられなかった。
恐怖で頭が真っ白になって、それでも崩れずに済んだのは――。
「殿下が、信じてくれたから」
ルイの目が細められる。
「君ならできると、思っただけだ」
「……それが、嬉しかったんです」
守るために抱え込むのではなく。
奪うように閉じ込めるのでもなく。
信じて、託してくれた。
ヴァレルの手は、いつだって自分を庇ってくれる温かさがあった。
けれどルイの手は違う。
隣に立ちながら、自分で歩くことを許してくれる手だった。
その違いを知ってしまった。
ルイの指先が、ためらうように伸びてくる。
触れていいのか確かめるような慎重さで、そっと髪へ触れた。
熱が、そこから伝わる。
「……ハルカ」
名前を呼ばれるだけで、胸が痛いほど鳴る。
この先どうなるのかなんて、わからない。
エレオノールとの関係も、王家のことも、きっと簡単では済まない。
それでも。
胸の奥で絡まり続けていた感情は、もう誤魔化せなかった。
ふと、エレオノールの顔が脳裏を過ぎる。
間違ったのなら、正しい方向に直せばいい。
彼女なら、きっとそう言ってくれる。そう、思えた。
「……好きです」
零れた声は、小さいのに驚くほどはっきりしていた。
ルイが息を止める。
「あなたが、好きです」
今度は逃げなかった。
真正面から彼を見る。
ルイの瞳が揺れる。
信じられないものを前にしたような顔だった。
「……ハルカ」
呼ばれた名前が、どうしようもなく優しい。
彼の手が、そっと自分の手へ重なる。
触れた場所から熱が広がって、鼓動が速くなった。
「……いいのか。私は――」
その続きを、彼は飲み込んだ。
けれどハルカには、何を言おうとしたのかわかってしまった。
だから、彼の手を握り返す。
「いいんです」
指先に力を込める。
迷いごとも含めて、全部が伝わるように。
「殿下が、いいんです」
ルイが目を閉じ、小さく息を吐いた。
長く押し留めていた感情が、ようやく解けたような顔だった。
「……ありがとう」
重ねられた手に、今度は彼の方から力が返ってくる。
確かめるように。
失わないように。
その温もりが胸いっぱいに広がって、ハルカは静かに笑った。




