その願いは、同じ場所にない
校舎二階の廊下。ハルカが窓辺に立つと、中庭がそのまま視界に入った。
木陰のベンチに、エレオノールがいた。背を預け、空を仰いでいる。何かを考えているようでいて、どこか気が抜けている顔。普段の彼女からはあまり見ない表情に、思わず口元が緩んだ。
――あんな顔もするんだ。
その背後に、ふいに人影が重なる。
揺れる金色の髪。
第二王子、ジョエル。
彼は何気ない足取りで歩み寄り、まるで最初からそこにいるのが当然であるかのように、エレオノールの隣へ腰を下ろした。距離は近すぎず、かといって他人行儀でもない。二人の間に流れる空気は、ただの偶然の邂逅では片づけられないものだった。
言葉が交わされているのが見える。けれど、その内容までは届かない。
それでも――何かが違う、と感じた。
胸の奥に、説明しづらい引っかかりが残る。
エレオノールは以前、ジョエルのことを「愛らしい弟の見本みたいな人」と評していた。確かに印象だけならそうだ。王城で顔を合わせたときも、彼はルイに甘え、無邪気に笑う姿ばかりが目についた。
けれど――あまりにも“できすぎている”。
作られたような愛嬌。整いすぎた振る舞い。
それらがふと、別の可能性を思い起こさせる。
――こういうタイプが裏で全部操ってるやつ。
前世で散々見てきた展開が、頭をよぎった。
すぐに、自分でその考えを打ち消す。
……いや、さすがにそれは。
同時に浮かぶのは、別の仮説。
隠しルートの存在。
もしそうだとしたら――。
だが、ジョエルはつい先日、公爵家令嬢との婚約を発表している。
ゲームでも、婚約者がいながら聖女へ傾く展開は珍しくない。それでも、少なくとも彼が自分に接触してきたことはない。
その彼が、いまエレオノールと二人きりで話している。
婚約者の弟――そう考えれば、不自然ではないはずなのに。
気のせいだと思いたかった。
ふと、隣に影が差した。
振り向かなくてもわかる。
しばらく、ずっと隣にいた存在。
「……ヴァレル」
名を呟いたが、彼もまた、何も言わず中庭を見下ろしていた。
横顔からは感情が読み取れない。ただ、黙って同じ景色を見ている。その距離感が、逆に妙に落ち着く。
ハルカは窓の外から目を離さないまま、口を開いた。
「……傷、もう大丈夫?」
短く息が漏れる音が隣で返る。
「今さらだな」
呆れた調子。もっともだと思う。
あの夜から、もう随分経っている。
けれど――ずっと聞けなかった。
何か言いかけたところで、頭に軽い重みが乗る。
ぽん、と置かれた手。
「ハルカが治したんだろ」
「あれは、そうだけど……ちゃんと治ってるのか気になって」
「治ってる。問題ない。――助かった」
ぶっきらぼうな言い方なのに、不思議とちゃんと伝わる。
「お礼を言うのはこっちよ。……それと、触っていいなんて言ってない」
すぐに手が離れる。
「相変わらずだな」
彼は肩をすくめた。
そのとき、中庭で動きがあった。
ジョエルが立ち上がる。
エレオノールはそのまま動かない。
彼だけが、静かにその場を離れていく。
背を追おうとしたところで――
「ハルカ」
名を呼ばれ隣を向くと、ヴァレルがこちらを見ていた。
さっきまで外を向いていた目が、今は真っ直ぐこちらに向けられている。
同じ顔のままなのに、空気だけが変わった。
「俺は」
低く落ち着いた声。
「この先、ハルカが誰を選んでも――お前を守る」
胸の奥で、大きく鼓動が鳴る。
義務でも責任でもない。
ただ、それだけを決めている声音だった。
「なんで……?」
ヴァレルは少し目を細めて、窓の外へと視線を向ける。
「一緒にいるうちに、気づいたらそうなってた。理由を並べるならいくらでもあるけど……」
少しだけ、言葉を探す間。
「結局、それだけだ」
彼の口元が緩む。
「そばにいたいと思った」
言葉が出てこない。
何か返さなければと思うのに、喉が詰まる。
「いい。わかってるから」
それだけ残して、ヴァレルは背を向けた。
呼び止める言葉が浮かばない。
ただ、その背中を見送るしかできなかった。
――そこで、ようやく気づく。
自分は彼のフラグを、一つも折っていなかった。
遅れて、胸がきつく締めつけられる。
もう一度外を見ると、中庭のベンチにはもう誰もいなかった。
♢
「ハルカ?」
呼ばれて、顔を上げる。
すぐ近くにエレオノールがいた。眉を寄せ、覗き込むようにこちらを見ている。
「大丈夫? 具合悪い?」
冷たい指先が額に触れる。
「熱はなさそうね」
「ごめん、大丈夫。ちょっと考えごとしてただけ」
慌てて答えると、彼女はしばらくこちらを見つめたまま、やがて小さく息を吐いた。
「それならいいけど」
納得しきってはいない顔。それでも追及はせず、顎に指を当てて何か考え、ふっと表情が変わった。
「ね、ハルカ。寄り道しましょ」
「寄り道?」
首を傾げると、エレオノールはいたずらを思いついた子供のように笑う。
「気分転換よ」
そう言って、鞄を掴み、そのまま当然のように手を引く。
外へ出ると、秋の空気が肌に触れた。
少しひんやりしていて、頭の中がすっと冷える。
「どこ行くの?」
「秘密」
振り返らないまま返ってくる声が、ほんの少し弾んでいる。
連れられるまま歩いていくと、やがて学院の端に辿り着いた。人の気配がほとんどない場所。
そこに建っていたのは、古びた建物だった。
看板はなく、窓は白く曇り、壁には蔦が絡んでいる。使われている様子はないのに、完全に放置されているわけでもない、不思議な佇まい。
「……ここ?」
問いかけても答えはない。
エレオノールはそのまま扉に手をかける。
軋む音を立てて開いた先は、薄暗く奥が見えなくて足が止まる。
「大丈夫よ」
軽く手を引かれて、中へと踏み込む。
どこか懐かしく落ち着く、紙とインクの匂いが鼻先をかすめる。
エレオノールが魔道具の灯りを点けると、柔らかな光が広がった。
その先に現れたのは――整然と並ぶ本棚。
「……図書室?」
思わず漏らすと、エレオノールは小さく頷いた。
「旧図書館。今はほとんど使われていないせいか、他に人がいるのを見たことがないわ」
「でも、思ったより綺麗」
「最低限の管理はされてるもの」
壁際に並ぶ椅子の一つへ、彼女は鞄を置いた。
「ここ、好きなの」
エレオノールはそう言って、椅子の座面を軽く叩いた。
厚手の布に包まれたそれは、身体を預けることを前提に作られているのが分かる。
「長く座っていられる場所って、落ち着かない?」
「うん……なんか、静かに考えごとができそう」
答えると、彼女は満足げに目を細めた。
「古い本ばかりよ。今はほとんど手に取る人もいないみたいだけど。でも私好みの本が多いから、きっとハルカも気にいると思う」
エレオノールは立ち上がって、棚に並ぶ背表紙をなぞりながら、一冊を抜き出す。
ページを繰る指先は慣れていて、その横顔には穏やかな色が浮かんでいた。
「こんな場所、知らなかった」
「……一人になりたい時だけ来るの。ここは」
言いながら、こちらへ顔を向ける。
「教えたのは、ハルカが初めて」
言葉がすぐに返せなかった。
「……そんな場所、簡単に教えてよかったの?」
問いかけると、彼女は肩をすくめる。
「ハルカだから」
それだけだった。理由は足されない。
エレオノールは本を抱えたまま椅子に沈み込む。
ハルカも近くの棚から一冊選び、隣に腰を下ろした。
背を預けると、柔らかな感触がじんわりと身体を受け止める。
室内は静まり返っていた。
紙をめくるかすかな音と、布が擦れる気配だけ。時間さえ眠っているような空間だった。
ふと、開いたページの一文に目が留まる。
『時間が止まればいいのに。』
鼓動がひとつ大きく鳴って、指先がその行で止まった。
今の自分が、まさに願っていること。
このまま。
答えを出さないまま。
エレオノールの隣で、曖昧なまま過ごしていたい。
ハルカはそっと身体を寄せ、隣の肩へ頭を預けた。
エレオノールも拒まず、静かに寄り添ってくる。
耳元へ落ちた声は、普段よりずっと柔らかかった。
「どうしたの?」
胸に沈めていたものが、少しだけ浮かび上がる。
「……エレオノールは、この先どうするの?」
返事はすぐには来なかった。
触れ合った肩越しに、彼女の身体がかすかに固くなるのが伝わる。
「どう、なるのかしらね」
曖昧な答えだった。
何か言おうとした矢先、今度は逆に問い返される。
「ハルカは? どうしたい?」
喉が詰まる。
それでも、今言わなければいけない気がした。
「私、エレオノールと離れたくない。あなたと一緒にいられるなら、私……ヴァレルを選んでも――」
「それは違うわ、ハルカ」
鋭く断ち切られた。肩は離され、エレオノールがこちらへ向き直る。
真っ直ぐ向けられた眼差しに、思わず息を呑んだ。
普段の彼女なら、こんな顔はしない。
「……違う?」
「ハルカには、選ぶ権利があるの」
「選ぶ……」
「誰を選ぶかは、あなたの自由よ。でも、それは“私と離れない”ことにはならない」
静かな声なのに、一つひとつが逃げ道を塞いでくるように強い。
「あなたが選んだ先で、私は私の行きたい場所へ進む。たとえ、その結果、別々の道になったとしても」
胸が痛んだ。
「エレオノールは……私と離れたいの?」
問い返した声は、自分でも情けないほど弱かった。
「違うわ」
返答は、迷いがない。
「私だって、一緒にいられるならそうしたい」
ならどうして、と言いかけて止まる。
その続きを聞くのが怖かった。
「じゃあ……エレオノールは、何を望んでるの?」
風が窓を揺らす。その音がやけに大きく聞こえ――そして彼女は、静かに言った。
「……私は、国へ帰りたい」
その言葉に、呼吸が止まりそうになる。
どうして、とは聞けなかった。
今の自分の願いが、彼女をこの国へ縛りつけるものだと分かってしまったから。
「……ごめん、エレオノール」
この世界に来てから一年半。
ここまで歩いてこられたのは、ずっと彼女が隣にいたからだ。
迷えば道を示してくれた。
怖くなれば手を引いてくれた。
でも――
もう同じ場所にはいられないのかもしれない。
そんな予感が、胸の奥を静かに撫でていく。
「……何かあった?」
優しい声だった。
ハルカは小さく首を振る。
これ以上触れられたら、きっと顔に出る。
だから逃げるように話題を変えた。
「ジョエル殿下と、何を話してたの?」
隣の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「大した話はしてないわ」
迷いも揺らぎも感じさせない、いつも通りの口調。
「……そっか」
胸の奥がきしむ。
きっと彼女はまた、一人で何とかしてしまう。
誰にも頼らず。何も言わないまま。
「ハルカ……何があったの?」
先ほどと同じ問いなのに、今度は少し遠く聞こえた。
「……何もないよ」
窓の外では、秋の日がゆっくり傾き始めていた。
♢
それから数日、エレオノールもヴァレルも、何事もなかったように接してきた。
気を遣わせないためだと分かる。
分かるからこそ、少しだけ苦しかった。
放課後の教室に足を踏み入れた瞬間、空気の違いに気づく。
そこにいたのはモーリスではなく、ルイだった。
西日を背負ったまま、彼はこちらを見る。
「……今日は、殿下なんですね」
声が上ずった。
「モーリスは魔法師団に呼ばれてね。今日は私が代わりだ。……エレオノールは?」
「文芸部に行くと聞いています」
「そうか。まあ、私から教えられることはもう多くないが」
軽く笑うその調子に、少しだけ肩の力が抜ける。
「でも、まだ不安なところがあるので……見ていただいてもいいですか」
「もちろん」
短い返事なのに、不思議と安心する。
机に置いたのは、小型の魔道具核だった。
淡く発光しているだけなのに、近づくだけで肌がざらつく。
攻撃的な魔力が、剥き出しのまま渦巻いていた。
中和して制御する。
理屈は分かっているのに、どうしてもうまく噛み合わない。
息を整え、指先を近づける。
触れる寸前の距離で、自分の魔力を重ねていく。
ぱち、と小さな火花が散った。
反射的に手が止まる。
――押さえ込むんじゃない。流れを合わせる。
頭では理解しているのに、身体が追いつかない。
「焦らなくていい」
すぐ近くで、ルイの声が聞こえる。
そのまま彼の手が重なり、包み込むように支えられた。
「私の魔力を、目印にして」
触れたところから、温かな魔力が流れ込んでくる。
柔らかく、穏やかで、自然とこちらに馴染んでいく。
荒れていた流れが少しずつ整っていくのが分かった。
暴れていた魔道具の反応も、静かに落ち着きを取り戻した。
「……殿下の魔力って、優しいですよね」
言ってから、はっとする。
顔を上げると、ルイがこちらを見ていた。
「ハルカ」
呼ばれた名前に、胸が強く跳ねる。
その瞳の熱から逃げたかった。
「――君が好きだ」
言葉は静かで、逃げ場はどこにもなかった。
「……殿下、あなたには――」
頭に浮かんだのは、エレオノールの顔。
「分かっている」
低い声が、それを遮る。
「それでも、自分の気持ちだけは誤魔化せない。君を、誰にも渡したくない」
鼓動がうるさい。
「ヴァレルにも……エレオノールにも」
エレオノールという名前がルイの口から出てくると、説明しがたい動揺が生まれた。
目を逸らそうとしても、視線が外せなかった。
「ハルカ」
頬に触れた指先に、肩がびくりと揺れる。
それに気づいた彼の手が止まり、ゆっくりと離れていった。
「すまない。困らせると分かっていたのに」
視線を落とし、少し苦しげに笑う。
「それでも、知っていてほしかった」
もう一度向けられた瞳には、迷いがなかった。
「――その上で、君に選んでほしい」
その眼差しに耐え切れず、ハルカは目を伏せる。
ルイは落ち着いた声で続けた。
「君が選んでくれるなら、エレオノールとの婚約は解消する」
息が止まりそうになった。
それだけを残して、彼は背を向ける。
呼び止める言葉は出てこない。
扉が開き、閉じる音だけが教室に響いた。
残された手のひらには、まだ彼の温もりが残っている。
「……どうしたらいいの」
こぼれた声は、誰にも届かない。
けれど――
答えを出すのは、自分しかいない。




