盤の外には、立てない
教室の真ん中に置かれた魔道具の魔石が、一瞬、金色の光を放つ。
蓋を開け、中から紙を取り出す。
それから木版をはめ直し、新しい紙をセットして蓋を閉める。
魔石が光って、また蓋を開ける。紙を取り出す。
文芸の仲間たちの手が、それを繰り返している。
「嬉しいなぁ。これで、いつでもミス・ヴィラン様の作品が読める」
「ね。表紙も自分好みにできるし」
魔道具を囲む女子たちから、弾んだ声が上がる。
以前にハルカが持ち込んだ魔道具。
それは、木版印刷のための道具だった。
この世界で活版印刷が始まったのは、まだ五十年ほど前のことだ。
それ以前から木版印刷そのものは存在していたものの、広く普及せずに活版印刷へと移っていった。
そんな中で、ハルカは自分の持つ知識と、聖女の魔道具を作る過程で得た発想を組み合わせ、この魔道具を作り上げたのだ。
活字を一字ずつ組む必要も、大がかりな印刷設備もいらない。
「それにしても、すごいわね」
仲間たちから少し離れたところでエレオノールが感嘆を漏らすと、隣にいたハルカが不思議そうに首を傾げた。
「物理と化学と歴史を知ってたら、できそうって思わない?」
「思わない」
即答すると、ハルカは納得できない顔をする。
「でも、まだ改良は必要ね。簡易的なものだから、量産するなら人手が必要だし。原本を木版に写すのも、ちょっとコツがいるし」
「聖女であるハルカには簡単でも、普通の魔法師には難しいということでしょう?」
「難しいってほどじゃないよ。コツさえ掴めば、魔力を持ってる人なら誰でもできるから」
そう言って、ハルカは笑った。
この世界に召喚されて、およそ一年半。
ハルカは自然な笑みを見せることも増え、自分の魔力を使って魔道具を作るまでに成長した。
――よかった。
ふと、目を窓際に向ける。
輪の端では、ロウが刷り上がった紙より、自分の原稿へ赤を入れることに夢中になっていた。
「また直しているの?」
「読み返すたび、気になるところが増えるんです」
エレオノールは数行だけ目を通す。
「前より、ずっと読みやすいわ」
ロウは嬉しそうに原稿を抱えた。
彼女へ笑顔を向けながらも、エレオノールの心は、別のところにあった。
♢
翌日の放課後。
学院の校舎は、中庭を挟むようにして向かい合っている。片側の窓に立てば、もう一方の教室の様子が見渡せた。
ハルカとモーリスが顔を突き合わせ、魔道具について話し込んでいる教室。その位置を正確に捉えられる場所へ足を運ぶと、予想どおりの人物がそこにいた。
ヴァレルは窓際の席に一人で腰を下ろしている。肘をついたまま頬に手を添え、向かいの教室へと意識を向けていた。
その姿は動きが少なく、外から見ればただぼんやりと眺めているようにも見える。だが、何かを見逃すことがなく全体を捉えているのだと、エレオノールには分かる。
近づいても、彼は顔を動かさない。こちらの存在には当然気づいているはずなのに、あえて反応を返さないその態度に、いっそ苦笑が浮かぶ。
言葉をかける代わりに、手にしていた原稿の束を机へと落とした。重なった紙が打ち鳴らす乾いた音が、静まり返った教室に広がる。
ようやくヴァレルが顔を上げた。ゆっくりと向けられた瞳が、まっすぐにエレオノールを捉える。
「あなたの主に渡してもらえるかしら?」
投げかけた言葉に、彼の眼差しが鋭さを帯びる。
「主? 誰のことです?」
「さあ」
肩をすくめる代わりに、首をわずかに傾ける。
「心当たりがあるなら、その人でいいんじゃない?」
ナタリーから聞かされた話を受けて、抑えきれなかった感情をそのまま叩きつけるように書き上げた原稿だった。
どこまで把握しているのか知りたいと口にしたのは、あちらのほうだ。ならば、こちらが見えているものをそのまま差し出してやればいい。
仮面を被って他人を操る人物を書いた。
周囲の人間とは会話しているようで、誰とも本心を交わしていない人物。
「読ませない、という手もあるわね」
挑発的に続けると、彼の指先がぴくりと動いた。
「でもそれって――あなたがどちら側に立っているか、はっきりするだけよ」
空気が変わる。ほんのわずかな温度の差でも、今ははっきりと感じ取れた。
「……相変わらず、余計なことを言いますね」
低く抑えた声が返ってくる。
「余計じゃないわ。あなたにとっては、大事なことでしょう?」
その言葉に、彼の瞳が揺らいだ。
窓の向こうでは、ハルカが困ったように笑いながらモーリスへ何かを尋ねている。その様子が視界に入った――ほんの刹那、ヴァレルの意識がそちらへ引かれたのが分かった。
何も言わず、彼は原稿を手に取る。
「届ければいいんですね」
「ええ」
「その後は?」
「好きにすればいいわ」
それ以上、話すことはない。エレオノールは踵を返す。
「……知りませんよ。どうなっても」
背後から投げられた言葉に、足が止まりかける。
それが原稿のことを指しているのか、それとも――別の何かを含んでいるのか。
答えを確かめる気にはならなかった。
背中に感じる気配を振り切るように、そのまま歩き出す。
届け先が誰であれ、読まれるのは早いだろう。
♢
数日後、昼下がりの中庭。
枝先に残る緑に、赤や黄が混じり始めている。風が通り抜けるたび、色づいた葉がひとつ離れていく。
ベンチに背を預け、エレオノールは空を仰いだ。
抜けるような青の中、白い雲だけが緩やかに形を変えて流れていく。
――天高く馬肥ゆる秋。
本来は、北方からの侵入を警戒する意味を持つと、前世で読んだ覚えがある。
「豊かさと脅威は隣り合わせ……」
口にした独り言は、風にさらわれずに拾われる。
「確かにそうですね」
視界に差し込む影。
見上げた先にあったのは、無邪気な笑みを浮かべた少年の顔だった。
「……ジョエル殿下」
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないですか」
彼は気軽な様子で肩をすくめ、そのまま隣へ腰を下ろした。
距離の近さに、エレオノールは自然な動作で体をずらす。
その仕草を咎めるでもなく、ジョエルは手に持った原稿を軽く振った。
「読みましたよ」
――やはり、届いたか。あの怒りをそのまま流し込んだ、新しい物語が。
彼はページを繰りながら続ける。
「よく観察していますね」
エレオノールは何も答えなかった。
ジョエルのページをめくる手が止まる。
「でも、ここだけ少し浮いてません?」
指先でなぞられた箇所に、エレオノールは顔を向けた。
「“あなたと本当に話している人って、何人いるんでしょう”――ここだけ、質が違う」
「どう違うのかしら?」
ぱら、とページがめくられる。
「それまでの記述はすべて観測結果の延長線上にある。行動や反応から導き出した仮説。それに対して、これは違う」
彼は顔を上げた。
「観察の延長じゃない――結論だ」
目が合う。
笑っているのに、その目には何も映していない。
「作者の願望か、それとも――知っている、という前提か」
エレオノールは目を伏せ、何かを押し込むようにしてから瞼を開く。
ジョエルはこちらへ体を向け、離れた分だけ距離を近づけた。
「もし後者なら、見てはいけないものを見ている」
「……じゃあ、これは誰のことを言っているのかしら?」
微笑みながら問うと、ジョエルは喉の奥で笑った。
「わかっているくせに」
「そうね」
エレオノールは微笑を消した。
「あなたは“誰とも話していない側”」
一瞬、ジョエルの呼吸が途切れた。
風が二人の間を抜ける。落ち葉が足元を転がっていった。
「随分な評価ですね」
「評価じゃない。定義よ」
彼の眉がひくりと動く。
「あなた、自分は盤の外にいるつもりでしょう?」
ジョエルの指先が、押さえた原稿に皺を作る。
「でも違う。ずっと盤の上よ。しかも自分でそれに気づいていない」
「……なるほど。そういう見方もありますね」
軽く流す声音。だが、完全には流しきれていない。
「では――義姉上は、外にいるつもりですか?」
「いいえ。外にいるつもりもないわ」
「気づいてます? あなたも僕と同じだということに」
エレオノールの肩が強張る。
その身体的反応に、ジョエルが笑った。
「あなただって、自分の都合のいいように聖女を動かしていませんか?」
「そんなこと……」
「ないって、言い切れませんよね?」
「……あなたの狙いは何? 聖女の力?」
「色々ありますよ。ですが、聖女に関しては……送り込んだ側が、逆に取り込まれてしまったみたいだ」
彼は校舎を見上げた。
その視線の先は何を見ていたのか。
「私が言いたいことは一つよ。回りくどいことはやめて。やるなら、直接来なさい」
ジョエルの笑みが、ほんのわずかに薄くなった。
「……ああ、なるほど。そういうことですか」
ジョエルはひらりと、軽い動きでベンチから立ち上がる。
「ご安心を。ちょっとだけ、ミス・ヴィランに意趣返しがしたかっただけです」
彼は振り返らずに言う。
もう、互いに隠す気もなかった。
「それだけのために?」
――人を傷つけるのか。
「ええ。ですが、これ以上は邪魔をする気はありません」
肩越しに振り返る目の奥に、底知れない冷たさが宿る。
「義姉上が何をするのか、それを見届けるまでは」
その目はエレオノールから、どこか遠くへと向けられる。
「――今は、ね」
それだけを言い残し、彼は木立の向こうへ消えていった。
葉が揺れ、光がまだらに地面に落ちる。さっきまでそこにあった気配も、すぐに風に溶けた。
隣からパラパラと風にめくれる紙が存在を主張する。
最初から、持ち帰る気はなかったのだろう。
手に取ると、紙にはまだ体温が微かに残っていた。
それが妙に現実味を伴って、指先にまとわりつく。
めくったページには、書いた覚えのある言葉が並んでいるのに、どこか他人の言葉のように映った。
ゆっくりと閉じ、顔を上げる。
――邪魔はしない。
――今は。
言葉だけを信じるほど、甘くはない。




