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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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22/35

悪意は、姿を見せない

夏の熱が名残のように残る午後、自室の窓から差し込む光が、机の上を照らし出す。

そこには封を切られるのを待つ一通の手紙。深い琥珀色の蝋に刻まれた紋章を見ただけで、差出人が誰であるかは疑いようがない。

フォルタから届いたものだ。


指先で封の輪郭をなぞり、そのまま刃を入れる。紙が開く音が、妙に耳に残った。

ひと呼吸置いてから文字を追い始めると、胸の奥で刻まれるリズムが徐々に速くなる。


記されているのは、ダンボワーズ家との交渉結果。その結末は――


「……独占契約、締結」


思わず声が漏れる。すぐに続きを確かめるように目を走らせた。供給の制限、細分化された条件の数々、そして最後に添えられた条項。


「武力侵攻の禁止条項、あり。――よしっ!」


確信を得た途端、こらえきれず拳を握り、小さく振り上げる。

これで少なくとも、表立ってフォルタとレガリアが刃を交える道は閉ざされたはずだ。

椅子の背にもたれ、天井を仰ぐと、胸の奥に溜め込んでいた緊張が溶けていく。


……上手くいった。


それも、あまりにも綺麗な形で。

だからこそ、違和感が残る。交渉が順調すぎるときほど、裏で何かが動いている。

前世でも、この世界でも――“都合の良さ”は、ろくな結果をもたらさない。


ふと、脳裏に浮かぶのは先日の出来事だった。モーリスへ渡した青緑の魔石。聖女の力を用いる魔道具の素材として差し出した、あの石だ。


後に聞いた報告では、あれは想定を上回る性質を引き出しているらしい。とりわけ、聖女の力との相性が異様なほど高いという点が際立っていた。


その情報を、交渉材料としてユーベルに預けた。


結果として、ダンボワーズ宰相はフォルタ側の条件をほぼ全面的に受け入れる形で話をまとめたらしい。


「……出来すぎね」


――そういうときに限って、何かが起こる。


最初は気のせいだと思っていた。


プロムの夜以降、意識的に警戒を強めて過ごしてきた。人の流れ、周囲の動き、ほんの些細なズレにも気を配る日々。それでも――何も起こらない。


拍子抜けするほど穏やかな時間が続いていた。


廊下で顔を合わせるジョエルも、変わらず無邪気な笑みを浮かべている。あの日に感じた違和感など、初めから存在しなかったかのように。


だからこそ、油断が生まれたのかもしれない。


――最近、誰かに見られている気がする。


廊下でも、教室でも、寮の中でも。ふとした瞬間、背中に触れる気配。振り返れば、そこには誰もいない。ただ、普段通りの光景が広がっているだけ。


それでも、胸の奥に引っかかる感覚は消えなかった。


念のため、ハルカにもそれとなく尋ねてみたが、彼女は不思議そうに首を傾げただけだった。特に何も感じていないらしい。


無理もない。彼女の周囲には、あの男がいる。姿を見せず、存在を悟らせることもなく、それでも確実に守る影。異変が彼女に届く前に、すべて排除されているのだろう。


対して、自分にはそれがない。


気を張り続けるしかない日々は、知らぬ間に重みとなって積み重なっていた。肩に乗った見えない疲労を振り払うように、エレオノールは立ち上がる。


一度だけ深呼吸をして、足を図書室へと向けた。


――あの交渉があそこまで整ったのは、彼の働きがあってこそだ。


扉を押し開けると、外の気配がすっと遠のいた。整然と並ぶ本棚のあいだに満ちるのは、紙とインクの匂いだけ。時間の流れまで緩やかになったような、閉ざされた空間の奥に、目当ての人物がいた。


机に向かう背は真っ直ぐに伸び、隙を見せない姿勢は相変わらずだ。ユーベルは足音を拾い、ゆるやかに顔を上げる。口元に浮かぶのは、以前よりも柔らいだ微笑だった。


席に着く前に、エレオノールは封書を差し出す。


「ありがとう」


自然と言葉が出た。

ユーベルはそれを受け取り、目を落としたあと静かに首を振った。


「私は何もしていません。父の職務ですから」


その言い方に、エレオノールはすぐさま否を返す。


「いいえ。犯人を見つけるきっかけも、魔石の件を宰相閣下へ伝えたのもあなたでしょう。フォルタにも、私にも都合のいい形に収まったのは――あなたが動いたからよ」


言葉を受けて、彼の瞳に揺らぎが走った。


「……ありがとうございます。レガリアにとっても、不利な内容ではありませんでしたから」


抑えた調子は変わらない。それでも、以前より声に含まれる温度がほんの少しだけ違っていた。


「宰相の座も、そのまま継ぐことになるのかしら?」


軽く問いを投げると、返ってきたのは揺るぎのない答えだ。


「それは陛下のご判断に委ねられます」


「殿下は、きっとあなたを推すわね」


「……どうでしょう」


濁すような返しに、彼らしいと感じる。


そのとき、不意に静寂が破られた。

乾いた音が棚の奥から響く。二人の意識が同時にそちらへ向いた。


「――誰?」


声を鋭く上げ、椅子を引いて立ち上がる。ユーベルもすでに動いていた。


通路を一つ、また一つと確かめる。人の気配はない。だが、さらに奥へ足を踏み入れたところで、ようやく影が見えた。


本棚の陰に身を寄せるように、しゃがみ込んでいる姿。顔は伏せられているが、揺れる亜麻色の髪がそれを隠しきれていない。


「……ナタリー?」


名を呼んだ途端、彼女は弾かれたように立ち上がり、深く頭を下げた。


「ごめんなさい!」


勢いのままに言葉がこぼれ出る。


「盗み聞きするつもりはなかったんです。でも……」


声が途切れ、迷うように言葉を探す。


「ユーベルとエレオノール様が、ここでよく二人きりで会っているって聞いて……」


思わず互いの顔を見合わせる。


「そんな関係じゃないって分かっていたんですけど……」


語尾は弱まり、ほとんど消え入りそうになる。


「……どうしても、気になってしまって……」


顔を上げないまま、肩が小刻みに揺れている彼女の元へ、ユーベルが歩み寄る。

かけた声が少しだけ掠れていた。


「……ナタリー、すまない。不安にさせたか?」


彼女は首を横に振る。それでも、目元には今にも溢れそうなものが溜まっていた。


「違うんです……私が勝手に……」


途中で言葉が詰まる。


「ごめんなさい、ナタリー。私にも非があるわ。婚約者がいると分かっていて、こうして会っていたのは事実だもの」


「そんな、エレオノール様は――」


否定しようとする声を、ユーベルの動きが遮った。彼はそっと彼女を引き寄せる。


以前の彼なら、決して選ばなかった行動。


ナタリーは耐えていたものをこぼし、彼の胸元に顔を埋めた。図書室の静けさの中で、かすかな嗚咽だけが響く。


落ち着くのを待ってから、ここで会っていた理由を簡潔に説明する。もちろん、光華祭や交渉の裏にある事情には触れない。


「そうだったんですね……。本当に、ごめんなさい」


頭を下げるナタリーに、エレオノールはふと首を傾けた。


「……ねえ。もしかして最近、私のことを見てた?」


問いかけに、ナタリーは迷いながらも小さく頷く。


「あの……はい」


胸の奥に引っかかっていた異物が、すっと流れていった。


「エレオノール様を見かけるたび、胸がざわざわして……。最初は気にしないようにしてたんです」


ナタリーは苦しそうに胸元を握る。


「でも、急に不安になって……」


「何かきっかけが?」


「……それが、思い出せないんです」


自分でも理解できないといった様子で、ナタリーは唇を噛んだ。


「理由があったはずなのに、そこだけ曖昧で……」


「婚約者が異性と二人で会っていたら、気になるのは当然よ。今回の件は、私に責任があるわ」


「そんな――」


「あるの」


重ねるように告げる。


「ごめんなさい、ナタリー」


ユーベルも続く。


「俺もだ。君には説明するべきだった。すまない」


同時に頭を下げられ、ナタリーは慌てて手を振った。


「やめてください! エレオノール様にそんなことをさせたなんて知られたら――」


「――箔がつくかしら?」


軽く返すと、間を置いて控えめな笑いがこぼれる。

空気が緩んだところで、何気ない調子で問いを差し挟む。


「……ナタリー、私たちのことは誰から聞いたの?」


「えっと……」


困ったように言い淀む。


「無理に答えなくていいわ」


そう言いながらも、引っかかりは消えない。


「あ……あれ?」


ナタリーが戸惑ったように首を傾げる。


「私……誰から聞いたんだっけ……?」


その言葉に、背中を冷たいものが駆け抜ける。


――記憶を、いじられている?


表情を乱さぬよう、穏やかに声をかける。


「ナタリー、もう思い出さなくていいわ」


ユーベルへと目を向けると、彼の表情に暗い影が差しこんでいた。


「……ごめんなさい。これ以上は巻き込まない」


「私は構いません。それより、あなたが――」


気遣う言葉を遮るように、エレオノールは立ち上がる。


「私は大丈夫」


ナタリーへ向き直る。


「今回のことはこれで終わり。ただ、これから先――似たようなことがあれば、すぐハルカに相談して」


ナタリーが目を見開く。


「彼女の力なら、きっと助けになるから」


「……はい」


しっかりと頷いたのを確かめ、エレオノールは踵を返した。


扉を開けると、外の空気が流れ込んでくる。


直接手を下さず、周囲を揺らして削っていくやり方。時間をかけて追い詰める手口。


「……随分と、趣味が悪いじゃない」


知らぬ間に握り込んでいた拳に、爪が深く食い込んでいた。痛みはあるはずなのに、それを感じる余裕すら残っていなかった。


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