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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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役割は、手放されていく

窓を大きく開け放った教室に、初夏の風がゆるやかに流れ込む。まだ若い葉の匂いを含んだ空気は軽やかで、意識の端を少しだけ緩ませるようなやさしさを帯びていた。


視界の中で、エレオノールは自分の手の甲に目を落とす。

あの夜に負ったはずの傷は、痕跡すら残していない。まるで最初から何も起きなかったかのように、滑らかな肌がそこにあるだけだった。


結局、シャンデリアの落下は「事故」として処理された。

原因は鎖の腐食。長年の劣化が招いた結果――そう報告された、と聞いている。


ただし、それはあくまで伝聞にすぎない。正式な書面が届いたわけでもなければ、調査の過程が明らかにされたわけでもない。なぜあのタイミングで起きたのかという肝心の点も、説明されることはなかった。


「……都合がいいわね」


小さく零した言葉は、風にさらわれて形を失う。


視線を横へ滑らせると、隣に座るハルカの横顔があった。

落ち着いた表情で、目の前の作業に集中している。その姿には、あの夜の混乱を引きずる影はほとんど見えない。日常へ戻ろうとする意思が、はっきりと表れていた。


だからこそ、踏み込まないという選択もある。


仮にあれが仕組まれたものだとして、標的が自分であるならば、対応は単純だ。警戒を強め、動きを慎重にする。それだけで被害は抑えられる。


ハルカには、彼女の役割がある。そして彼女の傍には、すでに“守る者”がいる。


姿は見えない。普段は気配すら感じさせない。けれど、あの夜、ためらいなく飛び込んできた影をエレオノールは知っている。命を差し出すことさえ躊躇しない、その在り方を。


おそらく今も、どこかから彼女を見ている。


そう思えば――大丈夫だと、自分に言い聞かせることができた。


「――それでは、聖女の力が削がれてしまう」


低く落ち着いた声に、エレオノールは顔を上げる。

机を挟んで向かい合うモーリスとハルカが、試作品を前に議論を続けていた。


「この術式を重ねても、やっぱりだめ?」


「干渉が起きています。そもそも発動しませんね」


二人が取り組んでいるのは、聖女の力を用いてあらゆる効果を打ち消す魔道具の開発だ。しかし、理論と実用の間にはまだ距離があるらしく、行き詰まりの色が濃い。


机の上には図面と素材が散らばり、何度も書き直された跡が重なっている。試行錯誤の積み重ねが、そのまま形になっていた。


専門外のエレオノールには口を挟む余地はなく、少し距離を置いて二人のやり取りを眺めるしかない。


「……うーん」


ハルカが小さく唸ったとき、ふと思い出す。


エレオノールは手元の巾着に指を差し入れ、中からひとつの石を取り出した。青緑に透けるそれは、内側に淡い光を宿している。


「ね、これ……何かに使えない?」


差し出されたそれに、モーリスの動きが止まる。無言のまま受け取り、光にかざして観察を始めた。


「魔石……ですか」


呟きながら角度を変え、注意深く見極めていく。


「……いや、見たことがないな」


「まだ市場には出ていないものなの」


軽く言ってのけると、モーリスの眉がしかめられた。


「どこで入手したんですか」


鋭い視線が向けられる。誤魔化しは通じそうにないが、かといって説明できる内容でもない。フォルタの新資源――その価値も、扱いも、まだ水面下にある。


「禁則事項です」


人差し指を立てて片目を閉じると、モーリスは露骨に訝しげな顔をした。

だが隣で、ハルカが堪えきれずに笑い出す。


「ふふ……それ、久しぶりに聞いた」


肩を揺らす様子につられ、空気が少し和らぐ。もっとも、その元ネタをモーリスが理解できるわけがない。


「……意味が分からない」


そう言いながらも、彼の関心はすでに石へ戻っている。小型のナイフを取り出し、慎重に一辺へ刃を当てた。


魔石は加工して初めて性質を発現する。削り方ひとつで、想定外の効果を引き出すこともある。

静かな削り音が続き、表面が整えられていく。やがて平滑になった面に、モーリスの指が触れた。


そこへ魔力が流れ込むと、白い光が、かすかに灯った。


「……」


モーリスは何も言わず、そのまま石を見つめ続ける。


エレオノールが声をかけようとしたとき、彼の手がそれを制した。その仕草に、言葉を飲み込む。ハルカと視線を交わし、互いに小さく頷いた。


教室には、風の通る音だけが残る。


しばらくして、モーリスがぽつりと口を開いた。


「今日はここまでにします」


顔を上げたときには、すでにいつもの冷静な表情に戻っている。


「お先に失礼」


それだけ告げると、手際よく荷物をまとめ、青緑の石を手にしたまま教室を出ていった。


「ちょっ――」


呼び止める間もなく、扉が閉じる。

残された空間に、静寂が落ちた。


「あれ、そんなにすごいものなの?」


扉を見つめたまま、ハルカが呟く。


「どうかしらね」


エレオノールは腕を組み、視線を宙へと泳がせる。


「まだ確証はないけれど……」


続けかけた言葉を、途中で止めた。


「……扱いが面倒そうってこと?」


探るような問いに、曖昧な笑みで応じる。


「そんなところ」


それ以上は踏み込まず、ハルカは椅子を引いた。


「時間あるし、部室に行かない?」


振り返ったその表情は、もう次へ向いている。


「いいわね」


エレオノールも立ち上がり、軽く頷いた。



プロムの夜から、ルイだけは前を向けずにいた。


シャンデリアの異変に最初に気づいたのはルイだと聞いている。踏み出そうとした彼の腕をジャンが掴み、引き止めた。


だがその選択が、彼から「自分が動く」という機会を奪ったのも事実だった。


その直後、倒れたヴァレルのもとへ迷いなく駆け寄るハルカの姿。あの光景が、彼の胸の奥に沈殿したまま残っている。


人のいない放課後の教室に、西日の光が斜めに差し込んでいる。長く伸びた影の中、ルイは窓際に寄りかかり、外の景色を見つめていた。


エレオノールが近づくと、振り返ることもなく口を開く。


「エレオノールか」


「相変わらず、沈んだ顔をしていらっしゃるのね」


軽く言ってみせても、彼はすぐには応じない。沈黙がわずかに間を引き延ばす。


「あのとき……相手が誰であっても、ハルカは同じように動いたと思いますわ」


「……分かっている。だが……」


その先が続かない。言葉にできない部分ほど、胸の内に強く残るものだと知っている。


「仮に殿下が動いていたとして、もしお怪我でもなさっていたら……学院側の責任問題で済む話ではなかったでしょうね」


視線を上げ、まっすぐに彼を見る。


「ヴァレルは、自分以外に被害を出さない選択をした。あの場で取るべき最善を、迷いなく選んだということです」


言葉を重ねながら、あえて逃げ場を与えない。


「殿下は――そこまで見通せていらっしゃいましたか?」


問いかけは鋭く、優しさとは程遠い。だが、甘やかして済む立場ではない。


ルイの表情が歪む。


「……君は、本当に容赦がないな」


「そう、あらなければなりません。――あなたも、同じ立場でしょう?」


しばらくの沈黙のあと、彼は小さく息を吐いた。


「……ああ。分かっている」


自嘲気味の笑みが浮かぶ。その奥にある重みは、生まれたときから背負わされてきたものだ。

窓から差し込む光が強くなり、思わず目を細める。


「ところで、殿下」


エレオノールはふと思いついたように、話題を変える。


「ハルカの想い人が誰か、ご存じ?」


ぴくり、とルイの肩が動いた。外へ向けていた視線をそのままに、低く答える。


「……ヴァレルか?」


「違います」


はっきりと否定すると、ようやく彼がこちらを振り向いた。


エレオノールは口元を上げる。


「私ですわ」


「……何?」


驚きに目を見開く様子が、あまりにも分かりやすい。


「殿下の相手はヴァレルではありません。競うべき相手がいるとすれば――それは私です」


一歩だけ距離を詰める。


「悔しいと思われるなら、奪ってみせてください。ハルカの心を」


「……エレオノール、君はいったい何を考えているんだ」


エレオノールは答えない。


――まだ、その段階ではない。


指先で眼鏡の位置を整えながら、視線を逸らす。


「私はただ、友人が望む形で幸せになってほしいだけです」


――もう、あの子の隣に立つのは、私でなくてもいい。


それ以上は語らず、踵を返す。


背後から向けられる視線を感じながら、教室の扉へ向かう。外へ出ると、壁際に寄るようにしてジャンが立っていた。


気配を消すことに慣れたその姿は、最初からそこにいたかのように自然だ。


「エレオノール様……殿下のもとを離れるおつもりですか」


低く抑えた声が問う。

足を止めることなく、前を向いたまま答える。


「……勘のいい従者は嫌いよ」


それ以上の説明は不要だと、言外に示す。


ジャンは追及しなかった。おそらく、この会話を主へ伝えることもない。彼なりの忠義の形が、そこにある。


廊下に差し込む夕焼けが、長い影を引き伸ばしていく。その先に、進むべき道が続いている。


――もう、後戻りはできない。卒業まで一年を切っている。


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