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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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20/35

舞台は、整えられている

西日の差し込む放課後の教室で、エレオノールはゆるやかに振り返った。長く引き伸ばされた影の中で、その動きだけが妙に鮮やかに浮かび上がる。


「――ダンスの練習をしましょう」


半ば引きずるように連れてこられたハルカは、机に手をつき、肺の奥から吐き出すように息をついた。


「……やっぱりその流れになるのね」


「プロムまで残り時間が少ないもの。今から手をつけないと間に合わないわ」


さらりと言われて、ハルカは肩を落とす。


「ダンスの経験は?」


「あるわけないじゃない」


「そうよね。私も幼い頃から叩き込まれているから体が覚えているだけで、いきなりだと戸惑うのも当然よ」


「わかってるなら、どうして最初からその前提で来ないの……」


「難しく考えすぎなのよ」


「できる人はみんな同じこと言うんだよね……」


疑いを含んだ視線を受けて、エレオノールは軽く肩を揺らした。

そのとき、扉が控えめに叩かれる。


「どうぞ」


応じる声には迷いがない。予測どおりの来訪者だった。

扉が開き、ナタリー・ベルナールが姿を現す。窓から差し込む光を受けて、亜麻色の髪がやわらかく揺れた。


「お待たせいたしました、エレオノール様」


「来てくれて助かるわ、ナタリー」


ハルカのほうへ視線を向ける。


「今日は彼女にも付き合ってもらうの。ダンスの基礎を整えるには、見本があった方がいいでしょう?」


ナタリーは一歩進み出ると、裾を軽くつまみ、滑らかな動きでカーテシーを描いた。その所作は、無駄の一切を削ぎ落としたような完成度を持っている。


「はじめまして、聖女様。ナタリー・ベルナールと申します」


ハルカは慌てて頭を下げた。


「ハルカ・オーツです……あの、聖女様って呼び方は、ちょっと……」


「では、ハルカさんと」


柔らかな微笑みとともに、呼び方が改められる。


「まずは見ていて。流れを掴むことから始めた方が早いわ」


エレオノールは左手を差し出した。ナタリーは迷いなくそれに応じ、自然な位置に手を重ねる。


「基本の型からいきましょう」


呼吸を合わせるだけで、合図は足りた。


一歩踏み出すと同時に、ナタリーの身体は無理なく後方へ流れる。押すでも引くでもない、ただ示された方向へ導かれるような動き。足音はほとんど残らず、床を撫でるような感触だけが続いていく。


近すぎず遠すぎない距離が保たれ、視線と重心だけで次の動きが伝わる。指先に込める力の強弱ひとつで、ナタリーは円を描くように回転した。


伴奏はない。それでも、空気の奥に規則的な拍が刻まれている。


やがて動きが収まり、静かな余韻が教室に広がった。


小さく手を打つ音が響く。


「……すごい」


ハルカの声には、隠しきれない感嘆が滲んでいた。


「綺麗……本当に」


視線が合うと、ナタリーは控えめに首を振る。


「主に導いているのはエレオノール様です。どうしてそこまでリードをこなせるのですか?」


問いかけられて、エレオノールは軽く笑う。


「昔、遊び半分で覚えただけよ。こういうものは、時間が経っても身体に残るものね」


そのままハルカへ向き直り、右手を差し出した。


「さあ、次はあなたよ」


ためらいながらも、ハルカはその手を取る。触れた指先に力が入りすぎているのが伝わってきた。


「構えなくていいの。力を抜いて」


ナタリーと視線を交わし、互いに頷き合う。


そこからは、基本の反復だった。後ろへ引く、寄せる、重心を移す。視線の置き方、歩幅の取り方、身体の軸――ひとつずつ分解して積み上げていく。


「魔法はすぐ使いこなしていたのにね」


思わずこぼれた言葉に、


「はぁ……魔法とは……全然、違う……!」


息を切らしながら抗議が返る。それでも足だけは止めず、必死についてくる。

エレオノールはナタリーと目を合わせる。互いに呼吸は乱れていない。

経験の差が、そのまま表れていた。


けれど、最初は誰もが同じ地点から始まる。そう思い返し、エレオノールはわずかに表情を緩めた。


「今日はここまでにしましょう。最後に一度、通して終わりにするわ」


ハルカの手を引き寄せ、腰へと腕を回す。距離が縮まった瞬間、彼女の頬がはっきりと色づいた。


――本当に可愛い。


そんな感想が胸の奥をかすめる。


「力を抜いてください、ハルカさん」


ナタリーが穏やかに声をかける。


「エレオノール様に任せていれば大丈夫です」


「リードで大切なのは迷わないことよ。次にどこへ進むかを明確に示せば、相手は自然とついてこられる。だから――私を信じて」


ゆっくりと歩みを進める。最初はぎこちなかった動きも、繰り返すうちに形を帯びていく。何度か足が絡まりそうになりながらも、ハルカは最後まで崩れなかった。


動きを止めると、ハルカは肩で息をしながら小さく声を漏らす。


「……はぁ……」


「これなら、プロムまでには間に合いそうね」


「……それ、相手がエレオノールだからでしょ」


拗ねたような声に、エレオノールは少しだけ身を寄せ、耳元で囁いた。


「殿下は、私よりずっと上手よ」


ぴくりと肩が揺れる。何も言葉にしないまま、耳だけが赤く染まっていく。

何事もなかったように距離を戻し、エレオノールはナタリーへ視線を移した。


「ナタリーはプロムに出るの?」


「はい、出席いたします」


「ユーベルと?」


「ええ」


頬を染めながら微笑むその様子に、思わず目が引き寄せられる。


――どうして恋をしている人は、こんなにも眩しいのだろう。


真っ直ぐで、疑いを知らない感情。

かつて自分の手の中にもあったはずのもの。

胸の奥に、冷たいものが触れる感覚が走る。


エレオノールはそれを振り払うように顔を上げた。



それからの数日はするりと過ぎ去り、気づけば迎えていた――プロム当日。


学院の大広間は、普段の静謐さを忘れたかのように華やぎに満ちている。高い天井から吊り下げられた無数のシャンデリアが白い光を降らせ、その輝きを受けた床は鏡のように磨かれて、色とりどりのドレスを柔らかく映し返していた。

音楽が始まる前から、そこにはすでに熱を帯びた空気が満ちている。期待と高揚が混じり合い、息をするだけで胸の奥が少し重くなるような感覚すらあった。


隣に立つハルカは、淡い黄色のドレスに身を包んでいる。やわらかな色味は彼女の雰囲気によく馴染み、結い上げられた黒髪の下から覗くうなじが、どこか頼りなく見えた。


対してエレオノールは、漆黒のドレスを選んでいた。黒のレースに銀糸の刺繍が走るその衣装は、光を受けるたび静かに表情を変える。幼い頃からこうした色を好んできたが、家族はいつももっと明るい色を勧めてきた。それでも譲らなかったのは、せめて装いくらいは自分の意思を通したかったからだ。学生である今だからこそ許される、小さな反抗でもある。


やがて楽団の演奏が始まり、広間に優雅な旋律が流れ込むと、人々は自然と手を取り合い、ゆるやかに踊り出した。


エレオノールは一度だけ呼吸を整え、差し出された手に指先を重ねる。ルイに導かれるまま歩みを合わせると、体は迷うことなく動いた。


踊りながら視線を滑らせると、壁際に控えるハルカの姿が見える。そのすぐ傍にはジャンを配置している。余計な誘いが彼女に向かないよう、あらかじめ手を打っておいた。


旋回の流れに入る。手が離れる一瞬の空白――そのわずかな隙を狙って、エレオノールは足を崩した。


「っ……」


重心が傾き、そのまま床へと落ちる。


「エレオノール!」


すぐにルイが駆け寄り、周囲にざわめきが広がった。


「大丈夫か?」


「ええ……」


身体を起こしながら息を整える。


「少し、足を痛めてしまいましたわ」


その言葉に、ハルカが慌てて駆け寄ってくる。差し出された手を取ると、エレオノールはそのまま引き寄せた。


「ハルカ、お願いがあるの」


「うん、すぐ治――」


「殿下と踊って」


「へ!?」


驚きに目を見開く彼女の耳元へ、そっと声を落とす。


「王族である殿下を、このまま立たせておくわけにはいかないでしょう? お願い」


「でも、エレオノールを――」


「この程度、聖女の力を使うほどじゃないわ」


そこへ、落ち着いた声が差し込まれる。


「エレオノール様、立てますか?」


ジャンだった。差し出された手を借りてゆっくりと立ち上がる。


「殿下」


ルイへ視線を向ける。


「私の代わりに、ハルカをお願いいたしますわ」


ルイは言葉を探すように口を閉ざし、それから小さく咳払いをした。


「……ハルカ」


差し出された手に、ハルカは迷いながらも応じる。その指が重なるのを確認してから、エレオノールはジャンに支えられ、壁際の椅子へと移動した。


腰を下ろした途端、緊張がゆるむ。


「医者を呼んでまいります」


立ち去ろうとするジャンの袖を、エレオノールはとっさに掴んだ。


「大丈夫よ。少し休めば痛みは引くわ」


ジャンはじっと彼女を見下ろし、藍色の瞳を細める。


「……わざと、ではありませんよね」


問いには答えず、微笑みだけを返した。


視界にハルカとルイの姿が目に入る。ルイの導きはやはり隙がなく、ハルカの動きも練習の時よりずっと自然になっていた。まだぎこちなさは残るが、二人の間に流れる空気は、確実に以前のものへ近づいている。


少し離れた場所には、腕を組んで壁にもたれるヴァレルの姿があった。鋭い視線はハルカを外さない。警戒を緩めないその様子に、エレオノールは小さく息を吐く。


――相変わらず優秀な番犬。


同時に、彼がいる限りハルカの安全は保障されるという安心もある。


さらに広間を見渡せば、ユーベルとナタリーが息の合った動きで踊っていた。視線を交わすたびに空気がやわらぎ、互いの距離が自然に縮まっていく。あの二人は、すでに形になっている。


モーリスの姿は見当たらない。こうした場を好むとは思えない。おそらく今もどこかで研究に没頭しているのだろう。


そして――もう一人。


ジョエル。


いつも通りの柔らかな笑みを浮かべながら、目の前の少女と踊っている。相手はヘレナ・ランシアン。噂通りの距離感で、自然に手を取り合っていた。


――仮面のような笑顔。


あの日から、その印象が離れない。


やがて曲が終わり、ハルカが息を切らしながら戻ってくる。


「……大丈夫?」


「なんか……いつもより疲れたかも」


まだ二曲しか踊っていないはずなのに、思わず笑みがこぼれた。


エレオノールは立ち上がり、近くの給仕からグラスを二つ受け取ると、その一つを差し出す。


「少し休みましょう」


「……エレオノール、足は?」


探るような視線に、柔らかく微笑む。


「もう痛みは引いたみたい」


ハルカの目が細められる。


――気づいている。


それでも何も言わない。その配慮が彼女らしい。


プロムはその後も滞りなく進み、やがて最後の曲へと移る。エレオノールはハルカの手を取り、軽く一礼した。


「一曲、お相手していただけますか?」


驚いたように目を見開いたあと、ハルカは笑みを浮かべた。


「喜んで」


手を取り合い、二人は広間の中央へ進み出る。女性同士ということもあり、周囲の視線が集まるのを感じながら、足を運ぶ。


「殿下のほうが、踊りやすかったでしょう?」


耳元で囁くと、


「どうかな」


少し考えてから、ハルカはくすりと笑う。


「でも、私はエレオノールのほうが踊りやすい」


互いに笑い合いながら、これまで積み重ねてきた動きをなぞっていく。


そのときだった。


頭上で、歪んだ音が鳴る。


気づくより先に――


「危ない!!」


「ハルカ!」


危険を知らせる声に、エレオノールは咄嗟に彼女を引き寄せ、その身体を覆うように抱き込んだ。


視界の上から、巨大な影が落ちてくる。


次の瞬間、激しい衝突音が広間を打ち抜いた。


しかし、衝撃は来なかった。


――何が、起きたの。


息を詰めたまま目を開けると、視界を覆っていたのは二人を庇うように覆いかぶさる、ヴァレルの姿だった。


肩口にかかる重みと、押し込められる体勢で、ようやく理解が追いつく。


広間は一気に騒然となり、悲鳴と叫びが交錯する。


ヴァレルが身を起こしたことで、覆いかぶさっていた重みが外れた。


乱れた赤い髪。押し殺しきれない呼吸が、喉の奥で震えている。

彼の身体に、シャンデリアの破片が深く突き刺さっていた。


ルイがハルカの側へ駆け付ける。


「ハルカ! 大丈夫か!?」


差し出された手に触れたものの、ハルカの視線はすぐにヴァレルへと向かい、その手が離された。

ハルカは震えた声で小さく叫んだ。


「ヴァレル!」


「……怪我はないな」


掠れた声で、彼はハルカを見て確認する。

彼女は何度も頷いたあと、目から涙をこぼした。


「……私のせいだ」


「違う。ハルカのせいじゃない。俺はやるべきことをやっただけだ」


彼女を安心させるように笑みを浮かべた口元は、背中に走った痛みに歪んだ。

それでも立ち上がろうとして――足元が崩れた。


すぐにハルカがその手を取り、呪文を紡ぐ。


淡い金の光が舞い上がり彼の身体を包むと、突き刺さっていた破片が抜け、傷口がゆっくりと閉じていく。


力が抜けたようにヴァレルの身体が傾き、ハルカはそれを抱きとめた。


――ゲームのシナリオをなぞっている。


その様子を見ていたエレオノールは、喉の奥が詰まったように息苦しくなった。


駆けつけた教師たちが彼を運び出していく。

そのあとを、ハルカが追っていった。


姿が見えなくなって、ようやく息が吐き出せた。


エレオノールは目を床へ向ける。


血の跡と、砕けたシャンデリア。


……おかしい。


破片の散らばり方が、あまりにも限定されている。本来なら、もっと広範囲に被害が及んでいても不思議ではない。


――防壁。


おそらく、ヴァレルが即座に展開したのだろう。被害を閉じ込め、自分が受け止める形で。


……とんでもない男。


視線をシャンデリアの鎖へ移すと、一部が黒ずんでいるのが見えた。

単なる劣化か、それとも細工か。


背後から視線を感じ振り返るが、誰かを特定するには至らない。


だが、誰もがシャンデリアを見ている中で、ただ一人背を向けて歩き去る人物がいた。


柔らかく揺れる金色の髪。


――ジョエル。


嫌な予感が膨らむ。


――狙ったのは、私? それともハルカ?


いずれにせよ、ヴァレルが庇うことまで、計算に入っていたのか。


「――様、エレオノール様!」


呼びかけに意識を引き戻される。


顔を上げると、ジャンがすぐ傍にいた。彼の手がそっとエレオノールの手を取る。


「大丈夫ですか? お怪我を――」


視線を落とすと、手の甲に血が滲んでいた。


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