彼女は、この世界を知っている
数日後、エレオノールはルイと同じ馬車に乗り、レガリア王城へ向かっていた。
車輪が石畳の継ぎ目を拾うたび、座面が小さく揺れる。窓の外では王都の通りが流れていく。春の陽気に浮かれた人影、荷馬車、露店の呼び声。どれも硝子越しに遠い。
王城を訪れるのは二度目だった。
最初は学院入学前。婚約者としての顔見せ。未来の王太子妃として、笑い、礼をし、淀みなく歩くためだけの日。
今日は違う。
膝の上で重ねた指先に、わずかに力が入る。
向かいに座るルイは口数が少ない。彼も緊張しているのか、窓の外ばかり見ていた。普段なら場を整える程度の会話はする男だ。今朝はそれすらない。
「……様子は、いかがなのですか」
エレオノールが口を開くと、ルイは少し遅れて視線を戻した。
「落ち着いている、とは言い難いな」
選んだ言葉の裏に、扱いかねている気配が滲む。
「食事も進まず、夜も眠れていないようだ。侍女たちの話では、部屋の外へ出ることもほとんどないらしい」
それは予想の範囲内だった。だが実際に口にされると、胸の奥に鈍い重さが残る。
「帰りたい、と繰り返している」
その声は責めてはいない。ただ、理解できないものを前にした戸惑いがある。
帰りたい。
その一言の重さを、彼はまだ測れていない。
エレオノールは視線を落とし、静かに息を吐いた。
知らない場所で目を覚まし、見知らぬ人々に囲まれ、意味の分からない歓声を浴びる。
名前を問われ、答えさせられ、役割を与えられる。
「成功だ」と言われる側の感覚。
祝われているのに、本人だけが置かれている状況。
帰りたいと口にしても、それが通じない場所。
拒めば困惑され、応じれば称賛される。どちらに転んでも、本人の意思は後回しにされる。
――そういうものを、押し付けられたのだろう。
馬車が城門をくぐる。音の反響が変わり、外界と切り離された感覚が強まる。
ふと、考えがよぎった。
もし、自分が同じ立場だったなら。
記憶の奥にある前世。見慣れた街並み、帰り道、別れ際の軽い挨拶。何もかもが途切れたまま、別の場所で目を覚ます。
戻る手段も知らされず、理由も納得できないまま。
――耐えられるはずがない。
胸の内で言葉が形になる前に、馬車は止まった。
従者が扉を開け、外気が流れ込む。鼻先に金属と香木の匂いが触れた。フォルタの城とは異なる質の重さがある。あちらが磨かれた格式なら、こちらは戦利品を積み上げた豊かさだ。
厚い絨毯が足音を呑み込み、白亜の壁には金の燭台がきらめく。
魔力資源を持たぬ代わりに、剣で領土を広げた国。歩くほどに、その気質が壁から滲んでくる。
「こちらだ」
ルイの声で現実へ戻る。
案内された廊下の奥、重い扉の前に兵が二人立っていた。王太子の姿を見るや、無言で敬礼する。槍の石突きが床を打つ乾いた音が響いた。
ルイは扉を軽く叩く。
「ハルカ。私だ」
返事はない。
「……入るよ」
諭すような、子どもを刺激しないための声だった。
扉が開く。
室内は明るいのに、どこか閉ざされていた。薄いレースのカーテンが風に揺れ、日差しを細かく砕いている。百合の甘い香りが静かに満ちていた。
長椅子に座る少女は、こちらへ背を向けたまま動かない。
肩先ひとつ揺れない。
時間だけ、この部屋で止まっているように見えた。
エレオノールがルイを見ると、彼はわずかに身を引いた。助けてほしい、と口にしない目だった。
「失礼いたします」
紅茶を載せたワゴンを押し、侍女が入ってくる。
「こちらは私が」
エレオノールは自然に受け取り、侍女へ微笑む。
「あとは大丈夫よ」
侍女は戸惑いながらも一礼し、下がった。扉が閉まり、小さく金具の音が鳴る。
部屋には二人きり。
エレオノールはワゴンを卓の脇へ寄せ、少女の正面へ回る。
黒い髪に艶はない。白い肌は血の気を失って青白く沈んでいる。
右手の中指に、水底のような青い石が光っていた。場違いなほど綺麗な色をしている。
瞳は焦点を結ばず、何も映していないようで、どこか一点だけを見続けていた。
目の縁は赤くただれ、瞼の下には濃い影が落ちている。
眠れていないのは、ひと目でわかった。
「初めまして。フォルタ王国第一王女、エレオノール・メルダと申します」
深く礼はしない。頭を少し下げるだけ。
宮廷式の作法を浴びせても、この子には重しにしかならない。
返事はない。
だが虚ろだった瞳の奥に、暗い光が戻る。
――エレオノール。
その名にだけ反応した。
エレオノールはポットを取り、湯を注いだ。細い音が陶器に当たる。妙にその音だけ鮮明だった。
「どうぞ」
カップと菓子皿を置く。
王都で評判の菓子だと聞いたチョコレートトルテ。甘い香りが百合に混ざる。
向かいの長椅子へ腰を下ろす。
顔を上げた瞬間、目の前の少女の瞳が別人のように鋭くなった。
銀の線が閃いた。
喉元へ、フォークの切っ先が突きつけられる。
エレオノールの息が止まる。
背中を汗が一筋走った。身体が硬直する。逃げれば刺さる距離だ。
「静かにして」
低い声だった。
先ほどまで空っぽに見えた瞳が、今は鋭くエレオノールを射抜いている。
「あなた、エレオノールなの?」
フォークがわずかに近づく。喉の皮膚が冷える気がした。
目の前の少女は、口元だけが笑っている。瞳は、今にも崩れそうに乾いていた。
「あなたを人質にしたら、帰してもらえるのかな」
喉元の冷たさに、呼吸が浅くなる。
それでも、目は逸らさない。
「……私とあなただったら、この国はあなたを取るわよ」
声は少しだけ震えていた。
「そうなれば、あなたは帰れない」
少女の手が揺れる。
このままでは、彼女は捕まる。
王女殺害。聖女。
どんな理屈でも、この国は彼女を手放さない。
「一生、ここに閉じ込められるわよ」
「帰れないなら」
言葉が途切れる。
「……死んだ方が、マシかも」
胸の奥が強く縮んだ。
違う。
そんな顔で言う言葉じゃない。
「……だめ」
喉がうまく開かない。
「それは、だめよ」
声が掠れる。それでも届かせるしかない。
濁った黒い目に涙が浮かぶ。
唇が震え、押し殺していたものが堰を切る。
「もう嫌なの! 何で私なの!?」
怒鳴った声のあとに、息の乱れだけが残る。
追い詰められた者の呼吸。
――どうする。
慰めでは届かない。理屈でも無理だ。王族の言葉など毒にしかならない。
何か。彼女と自分を繋ぐ、王城の外のもの。
脳裏に前世の断片が散る。コンビニ、電車、深夜アニメ、ニュース、漫画。
口が先に動いた。
「名探偵コナンって、もう終わった!?」
少女の目が見開かれる。
「……は?」
「あ、いや、私が死んで転生してから十七年経ってるから……その、さすがに完結したかなって」
ひどい。支離滅裂だ。
けれど賭けるなら、ここしかない。
少女の焦点が、初めてまっすぐエレオノールに合った。
部屋の空気が変わった。
「私、二〇二六年に死んだの。今、向こうは何年? 日本って今どうなってるの? 総理、誰?」
矢継ぎ早に投げる。
少女の指から、するりとフォークが落ちた。
エレオノールは反射でそれを掴む。銀の柄が掌へ食い込むほど冷たい。
――武器は、もういらない。
そっと卓へ置き、それから、ようやく深く息を吐いた。
「……安心して」
エレオノールは喉の震えを押し込みながら言った。まだ指先に、さっき掴んだフォークの冷たさが残っている。
「あのね。私は日本人だった記憶を持つ、転生者。あなたの味方よ」
少女の喉が小さく鳴った。
「う、うそ……だってエレオノールって……」
「……私を知っているの?」
思わず聞き返す。
ついさっきまで刃を向けていた相手が、今度は怯えた顔でこちらを見ていた。肩の力が抜け、目だけが忙しく揺れている。
「……あなた、この世界のこと知らないの?」
知らない?
その言葉が耳の奥で引っかかった。
十七年、この世界で生きてきた。言葉を覚え、礼儀を叩き込まれ、歴史も地理も学び、王族として振る舞ってきた自分が。
何を言っているの、この子は。
少女――ハルカは、糸が切れたように長椅子へ崩れ落ちた。背もたれへ身体を預け、額を押さえ、天井を仰ぐ。目を閉じたまま、長い息を吐く。
百合の香りだけが静かに漂う。
部屋はまた、しんとした。
そして――ハルカはゆっくりと告げた。
「ここは、乙女ゲーム『レガリア聖恋録~四人の騎士と神託の乙女~』の世界」
その一言で、何かがぴたりと噛み合った。
エレオノールは目を見開いたまま動けない。
整いすぎた学院制度。都合よく集められた各国の貴族子弟。絵に描いたような王太子。聖女召喚。騎士だの神託だの、やけに耳障りのいい単語。
これまで感じていた小さな違和感が、一気に輪郭を持つ。
――そういうことだったのか。
乙女ゲームは守備範囲外だった。前世でも触れたことがない。だから気づかなかった。
だが次の言葉は、理解より先に頭を殴ってきた。
「あなた、エレオノールは悪役王女様」
頭の中が真っ白になる。
「最後は死罪よ」
「……は?」
声が遠い。自分の口から出たとは思えなかった。
「私が悪役王女……?」
指先から体温が抜けていく。
なんで私が。何をしたというの。
「……しかも、死罪って」
笑って済む冗談だと言ってほしかった。誰かの趣味の悪い悪ふざけだと。
けれどハルカの顔は真剣だった。
唇が震える。うまく笑えない。
待って。
胸の奥が冷え、呼吸が浅くなる。
ハルカがじっとこちらを見ていた。
「というか……あなた、本当にエレオノール?」
「……それ、どういう意味?」
「私の記憶だと、眼鏡もかけてないし、もっと派手で……いかにも悪役って感じだったけど」
その言い方に、少し腹が立つ余裕だけ戻る。
エレオノールは立ち上がった。
何かの勘違いであってほしい。別人だと言ってほしい。
眼鏡を外す。耳の後ろが軽くなる。束ねていた髪紐を解くと、金の髪が肩へ落ちた。整え直す暇もなく、そのまま顔を上げる。
ハルカはまばたきを一つ。
「あ、エレオノールだ」
希望が音を立てて砕けたと同時に、腰も砕けた。
エレオノールはその場へ座り込んだ。絨毯の毛足が薄いドレス越しに膝へ当たる。
「嘘でしょ……」
視界が滲む。
死罪。
そもそも婚約は、レガリア側から望んだ話だ。フォルタの魔力鉱脈が欲しくて結んだ同盟のはずだった。
その要である自分を、死罪に?
切り捨てる前提の駒だったということか。
王女として嫌われないように、笑い方を覚えた。
国の役に立つように、学んだ。
間違えないように、息を潜めて生きてきた。
それが全部、
処刑台へ続く道だったと?
「私、死ぬの……? なんでよ……」
情けない声だった。喉が熱い。
ハルカは容赦なく続ける。
「王子に好かれた私を、あなたが徹底的にいじめて」
淡々と。
「最終的に国家転覆罪を疑われて死刑」
雑だな、と一瞬だけ思った。
悪役令嬢のテンプレートすぎる。
……待って。
エレオノールは涙のにじむ目を上げた。
「ということは……いじめなければいいわけでは?」
ハルカが口を閉じる。
「そもそもあなたが王子に好かれたとしても」
ルイの顔が脳裏に浮かぶ。整った顔。気遣いはある。
だが恋慕の対象として見たことは一度もない。
「私、ルイ殿下に恋心を一ミリも抱いていないのだけれど」
「……え?」
「なぜ、いじめる必要があるの?」
ない。
はっきりしていた。
ハルカの表情が変わる。戸惑いから、考える顔へ。
「……シナリオ通りに動かなければ、変えられる?」
その言葉に、エレオノールの頭が急に回り始める。
「そもそも、エレオノールの姿が違う時点で」
ハルカも身を乗り出した。
「この世界、改変できるってことじゃない?」
頭の奥で火花が散る。
「そうよ!」
エレオノールは勢いよく立ち上がった。
「私がエレオノールに転生した時点で、もうシナリオはズレている!」
ハルカも跳ねるように起き上がる。
二人は顔を見合わせた。さっきまで敵意で歪んでいた距離が、一気に縮む。
手が伸び、自然に握り合っていた。
「なら、壊せる」
「こんな結末」
声が重なる。
「「私たちで変える!!」」
部屋を覆っていた重苦しい空気が、ふっと抜けると、二人はようやく息ができた。
百合の香りも、冷めかけた紅茶の甘さも戻ってくる。
ハルカが視線を落とし、小さな声で言った。
「……さっきは、ごめんなさい」
フォークのことだろう。
エレオノールは首を振る。
「いいの。私こそ、突然コナンの話してごめんね」
ハルカが吹き出すように笑った。




