物語では、ないはずだった
紙をめくる音が、暗い教室に響く。
「エレオノール様……今回も最っ高でした。続き、いつですか?」
「今すぐください。もう次が気になって授業どころじゃ――」
「ねえ、あの二人ってやっぱりヴァレル様とユーベル様が」
「しっ」
誰かが慌てて制したが、熱はもう抑えきれていない。
窓際の席まで陽は届かず、教室の奥は薄い影に沈んでいた。机の上に広げられた原稿を囲み、令嬢たちが肩を寄せ合っている。白い指先が最後のページへ集まり、その隅の小さな署名をなぞった。
――ミス・ヴィラン。
「やっぱり天才……」
その言葉に、エレオノールは笑いそうになるのをこらえた。人差し指を唇の前へ立てる。
「……静かに」
一瞬で空気が締まる。
廊下側の扉へ何人もの視線が走り、誰もが口を閉じた。騒ぎ方を心得ているあたり、常習犯ばかりだ。
エレオノールは咳払いをひとつし、鼻梁の眼鏡を押し上げる。
「感想はありがたく受け取ります。続きは執筆中です」
「焦らしすぎです……」
「物語は待たされている時間も込みで楽しむものよ」
「それ作者側の理屈では?」
「そうとも言うわ」
小さな抗議と笑い声が漏れる。
あの長椅子で猫に逃げられていた少女は、十七歳になっていた。
合同王立学院。各国の王侯貴族子弟が集まる学び舎。廊下は磨き込まれ、窓枠の金具ひとつまで手入れが行き届いている。寮の部屋にも温度を保つ魔道具、夜になれば自動で灯る照明、湯の冷めない浴室。
不便は少ない。
そのかわり、窮屈さは別の形で山ほどあった。
「声量には気をつけてくださいね」
エレオノールが言うと、少女たちは背筋を伸ばす。
「はい、エレオノール様」
揃いすぎた返事に、少しだけ満足する。
入学してすぐ、この教室を見つけた。扉に小さく“文芸”と札が下がっていた。制度としての部活動はないが、物好きが勝手に集まり、勝手に続けている場所らしかった。
古い机。軋む椅子。乾いた紙とインクの匂い。
誰に命じられるでもなく、読みたい者が読み、書きたい者が書く。
扉を開けた日に、胸の紐が少し緩んだ気がした。
以来、彼女はここで書き続けた。
原稿は女子寮を巡り、新作の回覧日は妙な熱気を生むまでになった。
「届いた?」
「まだ」
「先に読んだら許しませんからね」
そんな囁きが廊下の隅から聞こえるたび、むず痒い。
前世で、心が揺さぶられる名作をいくつも読んだ。それに比べれば、自分の文章など拙い。継ぎはぎだ。それでも待ってくれる人がいる。
ありがたい話だった。
この教室だけが、仮面を外せる場所だ。
猫と離れて暮らす寂しさも、ここでは薄れる。
だが扉を一歩出れば、彼女は別人になる。
レガリア王国王太子の婚約者。未来の王太子妃。
そう見えるよう歩き、そう聞こえるよう話し、そう思われるよう笑う。
幼い頃から身につけたものだ。
それでも、ときどき自分の顔がどれだったか分からなくなる。
王太子ルイと初めて顔を合わせた日を、彼女はまだ覚えていた。
金の髪。陽を含んだ碧眼。整いすぎて温度すら感じない横顔。
そして、自分へ向けられた最初の視線。
ほんの一瞬、曇った。
厚いレンズの眼鏡。飾り気のないドレス。必要十分だけを選んだ姿。
王子の隣に立つ絵としては、華が足りなかったのだろう。
責める気にはなれない。彼もまた、選ばされただけだ。
鐘が鳴る。
校舎を閉める合図だった。
「では、今日はここまで」
惜しむ声が上がる。
「次は三日以内にお願いします!」
「要求が強いわね」
「愛です!」
「圧では?」
エレオノールは笑いながら鞄を手に取り、令嬢たちと廊下へ出る。
そのとき、硬い靴音が一直線に近づいてきた。
迷いのない歩幅。急いでいる者の音だ。
姿を見せたのはジャン・グベールだった。
ルイの側近で、彼女の補佐役でもある同級生。普段は温和な青年だが、今日は口元が硬い。
「エレオノール様」
背後を一瞥する。
それだけで事情を察した令嬢たちが、そそくさと荷物を抱えて去っていく。扉が閉まり、廊下に二人だけが残った。
「王城より急報です」
「何かしら」
「我が国にて……聖女召喚の儀が執り行われました」
廊下の空気が、すっと冷えた気がした。
聖女。
この大陸で、その言葉はただの称号ではない。戦場の加護、兵の士気、国威の象徴。存在そのものが札になる。
「殿下は?」
「すでに王城へ戻られています」
「……成功したの」
ジャンは目を伏せ、それから顔を上げる。
「はい。儀式は成功しました。異界より、少女が一人――現れたと」
異界より少女。
胸が一度、強く鳴った。
前世の記憶。物語。ゲーム。召喚。テンプレートみたいな単語が脳裏でぶつかる。
「そう」
それだけ返すのに、喉が乾いた。
「取り急ぎ、ご報告まで。各所への連絡が残っていますので」
「ええ。ご苦労さま」
ジャンは礼をし、早足で去った。
角を曲がって姿が消えても、エレオノールは動けなかった。
聖女。
もし本当に異界から来たなら。
もし日本人なら。
もし――
「……まさか」
口に出した声は、胸の重さとは釣り合わないほど軽かった。
夕陽が廊下を赤く染め、彼女の影を細長く引き伸ばす。
エレオノールは部屋へ戻るなり、扉を閉め、寝台へ倒れ込む。
整いすぎた部屋が、今夜だけは他人のものに見えた。
先代の聖女が亡くなって久しい。召喚の儀は幾度も失敗したと聞く。それでも諦めなかったのは、国が必要としていたからだ。
勝利の象徴を。
祈れば応える存在を。
傷を癒やし、人を立たせる奇跡を。
それが、現れた。
天井を見つめても、胸の奥で一語だけが残り続ける。
聖女。
♢
翌日、昼の鐘が鳴り終わるころ。
エレオノールは食堂奥の王族専用席へ向かった。通常の席より一段高く設えられた場所。視線が自然と集まる高さだ。
下から注がれる目を流し、ルイの向かいへ腰を下ろす。
銀器の触れ合う音だけが静かに響く。
「……聖女を召喚されたそうですね」
何気ない調子で切り出すと、ルイの手が止まった。
「ああ。だが……」
歯切れが悪い。
「何かございましたか」
彼は皿の上でナイフの先を遊ばせた。
「君なら、どう思うだろうか」
「内容によります」
エレオノールが微笑むと、彼は小さく息を吐く。
「実は……ハルカ。聖女の名だが」
手の中のフォークがわずかに滑った。
ハルカ。
日本名だ。
懐かしい音が、耳から胸へ落ちてくる。
「彼女が、元の世界へ帰りたいと泣いて部屋へ閉じこもっている」
でしょうね。
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
自分は転生だった。失ったものを自覚する前に新しい人生へ繋がっていた。
だが召喚は違う。生活も家族も日常も、そのまま断ち切られる。
知らない場所で、今日から聖女だと告げられる。
泣かない方がおかしい。
「この国では最高の待遇を約束すると伝えた。望みがあれば叶えるとも。だが、帰らせてほしいとしか言わなくてな」
困惑と少しの苛立ち。
悪意ではない。ただ、聖女の言葉は彼に届いていない。
ルイは優しい。けれど、自分には当たり前のものを、誰かが失う痛みには鈍い。
「私が、お力になれるかもしれません」
エレオノールは眼鏡の奥からまっすぐ彼を見る。
「聖女様と、一度お話しさせていただけませんか」
「君が?」
「できれば二人きりで」
ハルカ。
もし同郷なら。もし話が通じるなら。
怯えたまま閉じこもっている誰かを、一人にはしたくなかった。
ルイは顎に手を当て、少し考える。
「そうだな。君は女子生徒から信頼を得ているようだし」
――信頼というより、原稿を握っているだけです。
そう思ったが言わない。
「いいだろう」
安堵の混じった声だった。
彼は後ろに控えていたジャンへ耳打ちする。段取りはすぐ整うだろう。
エレオノールは冷めかけたスープを口へ運んだ。
塩気も香草も、何ひとつ感じない。
胸にあるのは、ハルカという名前だけだった。




