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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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2/5

物語では、ないはずだった

紙をめくる音が、暗い教室に響く。


「エレオノール様……今回も最っ高でした。続き、いつですか?」

「今すぐください。もう次が気になって授業どころじゃ――」

「ねえ、あの二人ってやっぱりヴァレル様とユーベル様が」


「しっ」


誰かが慌てて制したが、熱はもう抑えきれていない。


窓際の席まで陽は届かず、教室の奥は薄い影に沈んでいた。机の上に広げられた原稿を囲み、令嬢たちが肩を寄せ合っている。白い指先が最後のページへ集まり、その隅の小さな署名をなぞった。


――ミス・ヴィラン。


「やっぱり天才……」


その言葉に、エレオノールは笑いそうになるのをこらえた。人差し指を唇の前へ立てる。


「……静かに」


一瞬で空気が締まる。


廊下側の扉へ何人もの視線が走り、誰もが口を閉じた。騒ぎ方を心得ているあたり、常習犯ばかりだ。


エレオノールは咳払いをひとつし、鼻梁の眼鏡を押し上げる。


「感想はありがたく受け取ります。続きは執筆中です」


「焦らしすぎです……」


「物語は待たされている時間も込みで楽しむものよ」


「それ作者側の理屈では?」


「そうとも言うわ」


小さな抗議と笑い声が漏れる。



あの長椅子で猫に逃げられていた少女は、十七歳になっていた。


合同王立学院。各国の王侯貴族子弟が集まる学び舎。廊下は磨き込まれ、窓枠の金具ひとつまで手入れが行き届いている。寮の部屋にも温度を保つ魔道具、夜になれば自動で灯る照明、湯の冷めない浴室。


不便は少ない。

そのかわり、窮屈さは別の形で山ほどあった。


「声量には気をつけてくださいね」


エレオノールが言うと、少女たちは背筋を伸ばす。


「はい、エレオノール様」


揃いすぎた返事に、少しだけ満足する。


入学してすぐ、この教室を見つけた。扉に小さく“文芸”と札が下がっていた。制度としての部活動はないが、物好きが勝手に集まり、勝手に続けている場所らしかった。


古い机。軋む椅子。乾いた紙とインクの匂い。

誰に命じられるでもなく、読みたい者が読み、書きたい者が書く。


扉を開けた日に、胸の紐が少し緩んだ気がした。


以来、彼女はここで書き続けた。


原稿は女子寮を巡り、新作の回覧日は妙な熱気を生むまでになった。


「届いた?」

「まだ」

「先に読んだら許しませんからね」


そんな囁きが廊下の隅から聞こえるたび、むず痒い。

前世で、心が揺さぶられる名作をいくつも読んだ。それに比べれば、自分の文章など拙い。継ぎはぎだ。それでも待ってくれる人がいる。

ありがたい話だった。


この教室だけが、仮面を外せる場所だ。

(ノエル)と離れて暮らす寂しさも、ここでは薄れる。

だが扉を一歩出れば、彼女は別人になる。


レガリア王国王太子の婚約者。未来の王太子妃。

そう見えるよう歩き、そう聞こえるよう話し、そう思われるよう笑う。

幼い頃から身につけたものだ。

それでも、ときどき自分の顔がどれだったか分からなくなる。


王太子ルイと初めて顔を合わせた日を、彼女はまだ覚えていた。


金の髪。陽を含んだ碧眼。整いすぎて温度すら感じない横顔。


そして、自分へ向けられた最初の視線。

ほんの一瞬、曇った。


厚いレンズの眼鏡。飾り気のないドレス。必要十分だけを選んだ姿。

王子の隣に立つ絵としては、華が足りなかったのだろう。


責める気にはなれない。彼もまた、選ばされただけだ。


鐘が鳴る。

校舎を閉める合図だった。


「では、今日はここまで」


惜しむ声が上がる。


「次は三日以内にお願いします!」


「要求が強いわね」


「愛です!」


「圧では?」


エレオノールは笑いながら鞄を手に取り、令嬢たちと廊下へ出る。


そのとき、硬い靴音が一直線に近づいてきた。

迷いのない歩幅。急いでいる者の音だ。

姿を見せたのはジャン・グベールだった。

ルイの側近で、彼女の補佐役でもある同級生。普段は温和な青年だが、今日は口元が硬い。


「エレオノール様」


背後を一瞥する。

それだけで事情を察した令嬢たちが、そそくさと荷物を抱えて去っていく。扉が閉まり、廊下に二人だけが残った。


「王城より急報です」


「何かしら」


「我が国にて……聖女召喚の儀が執り行われました」


廊下の空気が、すっと冷えた気がした。


聖女。


この大陸で、その言葉はただの称号ではない。戦場の加護、兵の士気、国威の象徴。存在そのものが札になる。


「殿下は?」


「すでに王城へ戻られています」


「……成功したの」


ジャンは目を伏せ、それから顔を上げる。


「はい。儀式は成功しました。異界より、少女が一人――現れたと」


異界より少女。

胸が一度、強く鳴った。


前世の記憶。物語。ゲーム。召喚。テンプレートみたいな単語が脳裏でぶつかる。


「そう」


それだけ返すのに、喉が乾いた。


「取り急ぎ、ご報告まで。各所への連絡が残っていますので」


「ええ。ご苦労さま」


ジャンは礼をし、早足で去った。

角を曲がって姿が消えても、エレオノールは動けなかった。


聖女。


もし本当に異界から来たなら。

もし日本人なら。

もし――


「……まさか」


口に出した声は、胸の重さとは釣り合わないほど軽かった。

夕陽が廊下を赤く染め、彼女の影を細長く引き伸ばす。


エレオノールは部屋へ戻るなり、扉を閉め、寝台へ倒れ込む。

整いすぎた部屋が、今夜だけは他人のものに見えた。


先代の聖女が亡くなって久しい。召喚の儀は幾度も失敗したと聞く。それでも諦めなかったのは、国が必要としていたからだ。


勝利の象徴を。

祈れば応える存在を。

傷を癒やし、人を立たせる奇跡を。


それが、現れた。


天井を見つめても、胸の奥で一語だけが残り続ける。


聖女。



翌日、昼の鐘が鳴り終わるころ。


エレオノールは食堂奥の王族専用席へ向かった。通常の席より一段高く設えられた場所。視線が自然と集まる高さだ。


下から注がれる目を流し、ルイの向かいへ腰を下ろす。


銀器の触れ合う音だけが静かに響く。


「……聖女を召喚されたそうですね」


何気ない調子で切り出すと、ルイの手が止まった。


「ああ。だが……」


歯切れが悪い。


「何かございましたか」


彼は皿の上でナイフの先を遊ばせた。


「君なら、どう思うだろうか」


「内容によります」


エレオノールが微笑むと、彼は小さく息を吐く。


「実は……ハルカ。聖女の名だが」


手の中のフォークがわずかに滑った。


ハルカ。


日本名だ。

懐かしい音が、耳から胸へ落ちてくる。


「彼女が、元の世界へ帰りたいと泣いて部屋へ閉じこもっている」


でしょうね。

喉元まで出かかった言葉を飲み込む。


自分は転生だった。失ったものを自覚する前に新しい人生へ繋がっていた。

だが召喚は違う。生活も家族も日常も、そのまま断ち切られる。

知らない場所で、今日から聖女だと告げられる。


泣かない方がおかしい。


「この国では最高の待遇を約束すると伝えた。望みがあれば叶えるとも。だが、帰らせてほしいとしか言わなくてな」


困惑と少しの苛立ち。

悪意ではない。ただ、聖女の言葉は彼に届いていない。


ルイは優しい。けれど、自分には当たり前のものを、誰かが失う痛みには鈍い。


「私が、お力になれるかもしれません」


エレオノールは眼鏡の奥からまっすぐ彼を見る。


「聖女様と、一度お話しさせていただけませんか」


「君が?」


「できれば二人きりで」


ハルカ。

もし同郷なら。もし話が通じるなら。


怯えたまま閉じこもっている誰かを、一人にはしたくなかった。


ルイは顎に手を当て、少し考える。


「そうだな。君は女子生徒から信頼を得ているようだし」


――信頼というより、原稿を握っているだけです。

そう思ったが言わない。


「いいだろう」


安堵の混じった声だった。

彼は後ろに控えていたジャンへ耳打ちする。段取りはすぐ整うだろう。


エレオノールは冷めかけたスープを口へ運んだ。

塩気も香草も、何ひとつ感じない。


胸にあるのは、ハルカという名前だけだった。


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