その瞳には、猫しか映っていない
「エレオノール・メルダ。君との婚約は、この場で破棄する」
大広間の天井から吊られたシャンデリアは容赦なく輝き、磨かれた床へ光を砕いている。その下で踊りの輪が止まり、扇子が閉じ、杯が宙で止まった。会場の視線が、糸で引かれたように一斉に彼女へ集まる。
ざわめきが波のように広がった。
王太子ルイの声はよく通る。迷いを削ぎ落とした響きだった。
エレオノールは背筋を崩さなかった。頬に当てた扇子の陰で、唇の端だけがわずかに動く。
――ようやく、ここまで来た。これで、自由になれる。
その微笑みを見抜ける者は、この場にいない。
♢
その六年前。
フォルタ王国の中心地に建つ、城の一室。
白い毛並みに顔を埋めた瞬間、胸の奥まで空気が満ちた。
日向に干した布の匂い。やわらかな毛先が鼻先をくすぐる。喉の奥から、だらしない声が漏れる。
「……んん……」
次の瞬間、前足が顔面を押した。
「痛っ、ちょ、ノエル!」
猫は容赦がない。白い塊が腕のあいだから抜け、長椅子の下へ滑り込んでいく。あっという間に裾長いカーテンの陰で、金色の目だけがじっとこちらを射た。
完全に迷惑そうだった。
床に膝をついたまま、エレオノールは手を伸ばす。
「待って。まだ一回しか吸ってない」
「回数の問題ではないと思います」
背後から声が落ちた。
振り返ると、侍女のクロエが盆を抱えたまま立っていた。二十歳そこそこの落ち着いた顔に、呆れと笑いが半分ずつ乗っている。
「猫吸いは心の栄養なのよ」
「お嬢様の心は、ずいぶん燃費が悪いのですね」
「褒め言葉として受け取るわ」
クロエは返事をせず、長椅子の脇に盆を置いた。湯気の立つ茶の香りが広がる。
エレオノールはそのまま背中から長椅子へ倒れ込んだ。刺繍入りのクッションが鈍く沈む。さっきまで机に向かっていたせいで、肩が固い。
地理。歴史。算術。家庭教師の声がまだ頭の中に残っている。
「……疲れた」
「では、猫ではなく休息をおすすめします」
「癒やしと休息は別物よ」
「そうですか」
天井の漆喰模様を見上げながら、エレオノールは片手をだらりと垂らした。長椅子の下からノエルのしっぽが一度だけ揺れて消える。
「この姿、お母様に見られたら怒られるかしら」
「ええ」
「でもここには、クロエしかいない」
「そうですね」
「告げ口する?」
クロエは茶を注ぎながら、少し考えるふりをした。
「新作次第です」
エレオノールは吹き出した。喉に残っていた疲れまで抜ける。
「裏切り者」
「読者です」
目が合う。先に笑ったのはどちらだったか分からない。
クロエの言う新作とは、彼女が隠れて書いている物語のことだ。
この国に娯楽は少ない。詩集、歴史書、英雄譚、教本。読めるものは読み尽くした。灯りを落とせと叱られるまで頁をめくり、その代償に視力を悪くした。
鼻梁に触れる眼鏡を押し上げる。
耳に掛けるつる付きの形は、この世界にはまだなかった。前世の記憶を頼りに職人へ図を引き、何度も作り直させた品だ。かけ心地はいまひとつだが、ないよりましだった。
――前世。
橋本里奈と言う名前の日本人。会社帰り、青信号の横断歩道。右から迫る光。避けるより先に思ったのは、最悪、だった気がする。
次に目を開けたとき、眩しさの質が違っていた。
泣き声。誰かの歓声。知らない言葉。
それがエレオノール・メルダの始まりだった。
物心つく頃には、二つの記憶はすでに同じ箱に収まっていた。ときどき、自分が夢の続きを生きている気がする。それでも朝は来るし、宿題もある。
フォルタ王国第一王女。
肩書きだけ聞けば、さぞ優雅な身の上に思えるだろう。現実は違う。
礼儀作法、舞踏、政治、貴族同士の腹の探り合い。侍女へ向ける笑顔の角度まで見られている。
その上、顔も知らない婚約者まで決まっていた。
隣国レガリアの王太子――ルイ・シュバリエ第一王子。
春になれば、レガリアの合同王立学院へ入学し、そこで初めて顔を合わせる予定だ。
入学試験には魔力測定もある。人並み以上の魔力があれば加点対象。だが彼女には、今のところ魔法の兆しがなかった。
もっとも、魔法を使える者そのものが多くない。
努力で越えられる門なら、机にかじりついてでも越えるだけだ。前の世界でも、そうしてきた。
そして、もう一つの秘密。
彼女はとある物語を書いている。
男と男の恋愛譚。
最初は暇つぶしだった。前世の記憶を紙に逃がしただけだった。それを試しにクロエへ渡したところ、翌朝、侍女部屋の空気が妙に熱かった。
「続きは?」
詰め寄られた顔の近さを、彼女は忘れていない。
以来、原稿は侍女たちのあいだを密かに巡った。登場人物の名は変えてある。変えてあるのに、
「あれ、東棟の副隊長ですよね?」
「違います」
「では庭師見習いと執事補佐?」
「違います」
「じゃあ両方混ぜました?」
「読むところそこ?」
そんなやり取りが増えた。
読まれると、書ける。待たれると、次を書きたくなる。
問題は学院へ入ってからだった。監視の目も時間割も増えるだろう。だが学院には若い貴族子弟が集まる。題材の宝庫でもある。
その誘惑は大きい。
「クロエ」
「はい」
「今夜、灯りを少し早くつけて」
「勉強用ですか」
「……まあ」
「執筆用ですか」
返事が詰まる。
クロエは無言で見下ろしてくる。侍女のくせに、こういうときだけ裁判官みたいな顔をする。
エレオノールは視線を逸らした。
「順番は、その時の流れで」
「つまり執筆が先ですね」
「決めつけはよくないわ」
「かしこまりました」
納得していない声だった。
窓の外では、庭の木々が風に鳴っている。夕暮れが部屋の端からじわじわと広がり、輪郭を曖昧にしていく。
エレオノールは起き上がり、机へ向かった。羽根ペンを取り、ペン先を瓶の黒へ沈める。




