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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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1/11

その瞳には、猫しか映っていない

「エレオノール・メルダ。君との婚約は、この場で破棄する」


大広間の天井から吊られたシャンデリアは容赦なく輝き、磨かれた床へ光を砕いている。その下で踊りの輪が止まり、扇子が閉じ、杯が宙で止まった。会場の視線が、糸で引かれたように一斉に彼女へ集まる。


ざわめきが波のように広がった。


王太子ルイの声はよく通る。迷いを削ぎ落とした響きだった。


エレオノールは背筋を崩さなかった。頬に当てた扇子の陰で、唇の端だけがわずかに動く。


――ようやく、ここまで来た。これで、自由になれる。


その微笑みを見抜ける者は、この場にいない。



その六年前。


フォルタ王国の中心地に建つ、城の一室。


白い毛並みに顔を埋めた瞬間、胸の奥まで空気が満ちた。

日向に干した布の匂い。やわらかな毛先が鼻先をくすぐる。喉の奥から、だらしない声が漏れる。


「……んん……」


次の瞬間、前足が顔面を押した。


「痛っ、ちょ、ノエル!」


猫は容赦がない。白い塊が腕のあいだから抜け、長椅子の下へ滑り込んでいく。あっという間に裾長いカーテンの陰で、金色の目だけがじっとこちらを射た。


完全に迷惑そうだった。


床に膝をついたまま、エレオノールは手を伸ばす。


「待って。まだ一回しか吸ってない」


「回数の問題ではないと思います」


背後から声が落ちた。


振り返ると、侍女のクロエが盆を抱えたまま立っていた。二十歳そこそこの落ち着いた顔に、呆れと笑いが半分ずつ乗っている。


「猫吸いは心の栄養なのよ」


「お嬢様の心は、ずいぶん燃費が悪いのですね」


「褒め言葉として受け取るわ」


クロエは返事をせず、長椅子の脇に盆を置いた。湯気の立つ茶の香りが広がる。


エレオノールはそのまま背中から長椅子へ倒れ込んだ。刺繍入りのクッションが鈍く沈む。さっきまで机に向かっていたせいで、肩が固い。


地理。歴史。算術。家庭教師の声がまだ頭の中に残っている。


「……疲れた」


「では、猫ではなく休息をおすすめします」


「癒やしと休息は別物よ」


「そうですか」


天井の漆喰模様を見上げながら、エレオノールは片手をだらりと垂らした。長椅子の下からノエルのしっぽが一度だけ揺れて消える。


「この姿、お母様に見られたら怒られるかしら」


「ええ」


「でもここには、クロエしかいない」


「そうですね」


「告げ口する?」


クロエは茶を注ぎながら、少し考えるふりをした。


「新作次第です」


エレオノールは吹き出した。喉に残っていた疲れまで抜ける。


「裏切り者」


「読者です」


目が合う。先に笑ったのはどちらだったか分からない。


クロエの言う新作とは、彼女が隠れて書いている物語のことだ。


この国に娯楽は少ない。詩集、歴史書、英雄譚、教本。読めるものは読み尽くした。灯りを落とせと叱られるまで頁をめくり、その代償に視力を悪くした。


鼻梁に触れる眼鏡を押し上げる。


耳に掛けるつる付きの形は、この世界にはまだなかった。前世の記憶を頼りに職人へ図を引き、何度も作り直させた品だ。かけ心地はいまひとつだが、ないよりましだった。


――前世。


橋本里奈と言う名前の日本人。会社帰り、青信号の横断歩道。右から迫る光。避けるより先に思ったのは、最悪、だった気がする。


次に目を開けたとき、眩しさの質が違っていた。


泣き声。誰かの歓声。知らない言葉。

それがエレオノール・メルダの始まりだった。


物心つく頃には、二つの記憶はすでに同じ箱に収まっていた。ときどき、自分が夢の続きを生きている気がする。それでも朝は来るし、宿題もある。


フォルタ王国第一王女。


肩書きだけ聞けば、さぞ優雅な身の上に思えるだろう。現実は違う。

礼儀作法、舞踏、政治、貴族同士の腹の探り合い。侍女へ向ける笑顔の角度まで見られている。


その上、顔も知らない婚約者まで決まっていた。


隣国レガリアの王太子――ルイ・シュバリエ第一王子。


春になれば、レガリアの合同王立学院へ入学し、そこで初めて顔を合わせる予定だ。

入学試験には魔力測定もある。人並み以上の魔力があれば加点対象。だが彼女には、今のところ魔法の兆しがなかった。

もっとも、魔法を使える者そのものが多くない。

努力で越えられる門なら、机にかじりついてでも越えるだけだ。前の世界でも、そうしてきた。


そして、もう一つの秘密。


彼女はとある物語を書いている。


男と男の恋愛譚。


最初は暇つぶしだった。前世の記憶を紙に逃がしただけだった。それを試しにクロエへ渡したところ、翌朝、侍女部屋の空気が妙に熱かった。


「続きは?」


詰め寄られた顔の近さを、彼女は忘れていない。

以来、原稿は侍女たちのあいだを密かに巡った。登場人物の名は変えてある。変えてあるのに、


「あれ、東棟の副隊長ですよね?」


「違います」


「では庭師見習いと執事補佐?」


「違います」


「じゃあ両方混ぜました?」


「読むところそこ?」


そんなやり取りが増えた。


読まれると、書ける。待たれると、次を書きたくなる。


問題は学院へ入ってからだった。監視の目も時間割も増えるだろう。だが学院には若い貴族子弟が集まる。題材の宝庫でもある。


その誘惑は大きい。


「クロエ」


「はい」


「今夜、灯りを少し早くつけて」


「勉強用ですか」


「……まあ」


「執筆用ですか」


返事が詰まる。

クロエは無言で見下ろしてくる。侍女のくせに、こういうときだけ裁判官みたいな顔をする。

エレオノールは視線を逸らした。


「順番は、その時の流れで」


「つまり執筆が先ですね」


「決めつけはよくないわ」


「かしこまりました」


納得していない声だった。


窓の外では、庭の木々が風に鳴っている。夕暮れが部屋の端からじわじわと広がり、輪郭を曖昧にしていく。


エレオノールは起き上がり、机へ向かった。羽根ペンを取り、ペン先を瓶の黒へ沈める。


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