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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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18/35

距離は、取り戻させる

朝夕にはまだ冷えが残るものの、学院の空気は確実に春へと傾きつつあった。

行き交う生徒の流れの中で、エレオノールは足を止める。


視界の先に、見慣れた組み合わせがあった。


ハルカの隣を歩くヴァレル。

以前より間隔はやや開いているが、視線の置き方は変わらない。気を抜いているように見せながら、周囲を取りこぼさない配置。


エレオノールは目を細めた。


「ハルカ。ちょうどよかったわ」


声をかけると、彼女の表情にかすかな安堵が浮かぶ。

鞄から原稿の束を取り出し、そのまま差し出した。


「これ、読んでみて。ミス・ヴィランの新作よ」


「新作?」


「ええ。読み終えたら、カイラに回してちょうだい」


普段なら最初に読むはずのカイラに、この原稿が直接渡ることはない。

ハルカは素直に頷き、受け取った。


その様子を確認してから、エレオノールは視線を横へ移す。


「よければ、あなたもどうぞ。ヴァレル」


「はぁ」


気のない返事。

視線すら寄越さないその態度に、エレオノールはわずかに口元を緩める。


「……そういえば」


呼びかけると、今度は目だけがこちらを捉えた。


「ピエール・スチュワルトという名前、聞いたことは?」


「いいえ。誰です?」


即座に返る応答。淀みはない。


「あなたの家に出入りしていた魔道具師だと聞いたのだけれど」


肩をすくめる仕草も軽い。


「知りませんね。それが何か?」


「いいえ」


エレオノールは首を横に振る。


「少し話を聞いてみたかっただけ。でも――亡くなったそうよ」


それでも、表情に変化は現れない。


「そうですか」


引っかかりはない。

あるいは、意図的に何も残していないのか。


どちらにせよ、容易に崩れる相手ではない。


「では、失礼します」


軽く会釈し、そのまま二人の横を通り過ぎる。


すれ違う刹那、視線が交差した。

測るような、探るような気配。


知っていて知らぬふりをしているのか、本当に関与していないのか。


――それは、これから判断させてもらう。


歩きながら、エレオノールは眼鏡に指をかけた。


ハルカに渡した原稿は、光華祭の一件を下敷きにしたもの。

ミス・ヴィランの新作という体裁を取りながら、実際には別の意図を含んでいる。


ヴァレルに読ませるための布石。


先ほどの会話から、彼は目を通す可能性が高い。

仮に手に取らなくても、ハルカが自然な流れで読ませるだろう。彼女は会話から意図に気づいたはずだ。


鞄の中には、もう一束の原稿がある。

指先でその重みを確かめながら、文芸部へと足を向けた。



数日後。


放課後、席を立とうとしたところで、袖を引かれる。


「エレオノール、少しいい?」


ハルカの抑えた声。周囲に聞かせるつもりがないのは明らかだった。

エレオノールは頷き、教室の端へ移動する。


窓際、カーテンが落とす影の中へ身を寄せると、自然と距離が近づき、声も低くなる。


「どうしたの?」


「この前の原稿、ヴァレルが持っていったわ」


――予想通り。


「珍しく読みたがったから、渡したら持っていっていいかって」


「渡してくれたのね」


ハルカは頷いてから、探る視線をこちらに向けて尋ねる。


「あの話……本当なの?」


疑っているというより、確かめずにはいられない様子だった。


「嘘はね、本当を少し混ぜるからこそ際立つの」


曖昧に言い切ると、ハルカの呼吸が乱れる。


「じゃあ……犯人は……?」


エレオノールは首を振る。


「どうかしら。あれは創作かもしれないし、現実を写したものかもしれないわ」


沈黙が落ちる。

ハルカは視線を伏せ、そのまま動かない。


――ここから先は、踏み込ませない。


「それより、ハルカ」


名を呼ぶと、彼女ははっと顔を上げた。


「最近、あなたをヴァレルに取られている気がして、少し寂しいのだけれど」


思いのほか率直な言葉に、自分でも内心で苦笑する。

けれど、今はそれでいい。


「え……っと」


戸惑いがそのまま声に滲む。


「嫌でなければ、前みたいに隣にいてほしいの」


はっきりと告げると、ハルカの瞳が揺れた。


「……私、邪魔だよね」


どこか拗ねたような声。


「邪魔?」


「……殿下とエレオノールの」


――やはりそこか。


「……ヴァレルに何か言われた?」


問いに返事はない。だが沈黙が答えだった。

エレオノールは小さく息を吐き、肩を軽くすくめる。


「ねえ、最初に言ったこと、覚えている?」


「どれのこと?」


「殿下に恋心はないって」


その瞬間、ハルカの表情が変わる。

思い出した、という反応に思わず笑みが漏れた。


「やっぱり忘れてたのね」


「で、でも!」


「あなたを邪魔だなんて、思ったこともないわ。むしろ――勝手にいなくなられる方が困るの」


漆黒の瞳が揺れる。


「あなたがそうしたいなら、止めないけど」


「そんなこと――」


言いかけた言葉を遮るように、問う。


「ハルカは、誰が好きなの?」


一度言葉に詰まり、それから小さく答える。


「……エレオノール」


予想外の返答に、言葉が途切れる。

すぐに取り繕うように、微笑んだ。


「それは光栄ね。なら――なおさら、隣にいてくれる?」


「いいの?」


「いてほしいの。あなたと話したいこと、まだたくさんあるのよ」


そう言って手を取ると、ハルカの瞳が潤む。


「……私も、話したい」


取り戻した――そう思った。



昼下がりの食堂へ足を踏み入れたエレオノールの耳に、すれ違う女生徒たちのひそやかな興奮が届いた。


「ねぇ、ミス・ヴィラン様の新作、もう読んだ?」

「読んだわ。あれって……」


言葉の続きを濁しながらも、彼女たちの声には抑えきれない熱が滲んでいる。昼の混雑が去った後の食堂は、席の隙間に静けさを残しつつも、まだ人の気配が途切れてはいなかった。落ち着いたざわめきの中に、どこか油断の混じった空気が漂っている。


その一角に、目的の人物はいた。


ヴァレルが、いつもと変わらぬ無造作な姿勢で椅子に腰を預けている。周囲にハルカの姿はない。彼女は今ごろ、カイラたちと一緒にいるはずだ。

そうするように、仕向けた。

エレオノールは迷いなく彼の正面に座った。わざと人目のある場所を選んだのは、偶然ではない。


「それで?」


カップの縁に指を添えたまま、視線だけを持ち上げる。


「わざわざ呼び出しておいて、用件は何かしら」


「呼び出したのは事実ですが……場所が食堂とは、少し意外でした」


「困るの?」


「いいえ。むしろ好都合です。逃げ道がありませんから」


その言葉に、エレオノールの眉がわずかに寄る。逃げ場が断たれているのは、どちらの立場なのか――その境界は曖昧なままだ。


「内々のお話かしら」


問いかけと同時に、ヴァレルは何も言わずに手を動かした。


ばさり、と乾いた音を立てて、原稿用紙の束がテーブルに叩きつけられる。


「これは誰が書いたものです?」


低く押し殺した声だった。問いというより、確認に近い。


「……あなたですか」


「いいえ」


エレオノールは指先で眼鏡を押し上げる。


「ミス・ヴィランの正体は不明よ。文芸部の中でも誰も知らない。原稿は、気づけば机の上に置かれているの」


わずかに首を傾ける。


「書き手が誰なのかも、性別すらわからない」


小さく舌打ちが鳴った。

エレオノールは原稿の端に軽く触れる。


「置かれていた原稿は二部。もう一つは――今ごろ、どこにあるのかしらね」


曖昧にぼかした言い方に、ヴァレルの視線が鋭く細まる。

すでに噂は広がり始めている。あの光華祭を題材にした物語は、読み手を選ばずに学院内を巡っているはずだった。


「つまり、この原稿の持ち主は不明。ならば、どう扱おうと問題はないということですね」


「そうなるわね」


エレオノールは紅茶へと目を落とした。


「むしろ、これが消えたら――書いた本人が動くかもしれないわ」


「動く?」


「自分の作品が消えたと知れば、黙ってはいられないでしょう?」


その言葉が落ちた直後、原稿の端に赤い火が灯った。


炎は迷いなく紙を舐め、白い面を黒へと塗り替えていく。音もなく崩れ、やがて形を保てなくなった紙片が、炭となってテーブルに散らばった。


エレオノールは目を逸らさず、その一部始終を見届ける。


――やはり。


ここから先は、後戻りのできない領域だ。


「もう一部も同じ扱いにして構いませんね?」


「ええ。ミス・ヴィランが現れない限り、私に止める権利はないもの」


短い沈黙のあと、ヴァレルが口を開く。


「――目的は何ですか」


揺らぎのない問いに、エレオノールは間を置かず答えた。


「さぁ。ミス・ヴィランの目的なんてわからないわ。ただ――ハルカは返してほしいわね」


「それは彼女が決めることです」


「そうね。彼女が望むなら、私は何も言わない」


視線をまっすぐに受け止めたまま、言葉を続ける。


「でも違うなら――話は別でしょう?」


ヴァレルの目が細くなる。


「踏み込みすぎだとは思いませんか」


「どの点が?」


視線を外さず問い返すと、彼は息を吐いた。


「……後悔しなければいいですね」


軽い調子を装いながらも、その奥に沈んだ重さが残る声だった。


それ以上は言葉を交わさず、彼は背を向ける。足音はやがて周囲のざわめきに溶け込み、存在の気配だけが薄れていった。


残されたのは、黒く崩れた紙の痕跡と、すっかり温度を失った紅茶。


エレオノールはカップに手を伸ばす。持ち上げようとしたところで、指先が震えていることに気づいた。


深く息を吸い込み、吐き出しながら、それを内側へ押し込めていく。



それ以降も、ヴァレルの護衛は継続していた。ただし以前のように常に隣へ張り付くことはなく、視界のどこかに気配を残しつつ、必要な場面だけ姿を現す距離へと変わっている。


昼を告げる鐘が鳴り響き、エレオノールはハルカを誘って食堂へ向かった。


王族専用の席には、すでにルイが着いている。


二人で並んで席に着くと、彼の変化がはっきりと伝わってきた。


以前なら、ハルカを見つけた途端に表情が柔らいでいたはずなのに、今はそれを抑え込むように視線を落とし、何でもない様子を装っている。感情を閉じ込めているのか、それとも――。


「もうすぐ、先輩方の卒業ですわね」


何気ない口調で切り出す。


「ああ……そうだな」


ルイは顔を上げ、エレオノールへと視線を向けた。


「エレオノール、一応確認しておきたい。プロムには参加するよな?」


「ええ、もちろんですわ」


自由参加とはいえ、立場上欠席は許されない。王太子の婚約者である以上、なおさらだ。


「プロム?」


ハルカが首を傾げる。


「卒業式の後に開かれる舞踏会よ。在校生も参加できるの」


微笑みながら続ける。


「せっかくだもの、ハルカも参加してみない?」


「でも……踊れないし」


戸惑いを隠せない様子で首を振る。


「今から覚えれば問題ないわ。私、一緒に出たいの」


さりげなくルイへ視線を送ると、彼はすぐに言葉を重ねた。


「こういう場には今後も出ることになる。無理に踊る必要はない。慣れておくだけでも違う」


「ドレスもないし……」


「それなら用意させる」


エレオノールが軽く促すと、ルイが即座に応じる。


逃げ道を少しずつ塞がれ、ハルカは困ったように笑い、それでも最後には小さく頷いた。


「……わかりました」


その返答に、エレオノールは内心で静かに満足する。


「そういえば」


ルイが思い出したように言い、冊子を差し出した。


「これ、読んだことはあるか?」


見覚えのある表紙に、心臓が強く打つ。


「……殿下はお読みになったのですか」


平静を保ったまま問い返す。


「ああ。気分転換にジャンに勧められてな」


背後に控えるジャンが、無言で小さく頷いた。


――作者が私だと、知ってて渡した?


その顔からは、何も読めない。


「恋愛小説はあまり読まないが……思っていたより面白かった」


ルイは冊子に視線を落とす。


「学院の生徒が書いているらしいが、心当たりはあるか? ミス・ヴィランという名だけでは見当がつかない」


指先に汗が滲み、カトラリーが滑りそうになるのを意識の奥で押しとどめる。


「恋愛小説?」


ハルカが不思議そうに呟いた。


「君も本が好きだろう。きっと気に入る」


そう言って、ルイは冊子を彼女に渡す。


ハルカはページをめくり始める。序盤は見覚えのある流れのため、軽く読み進めていくが、ある地点で動きが止まった。


そこから先は――彼女の知らない展開だった。


「……これ」


顔を上げた視線がエレオノールへ向けられる。


エレオノールは何も知らない顔で、穏やかに微笑んだ。


「エレオノールも読んでみるといい」


ルイは気づかぬまま紅茶に口をつける。


「ええ、後ほど拝見いたしますわ」


そう応じながら、エレオノールは静かに呼吸を整えた。


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