距離は、取り戻させる
朝夕にはまだ冷えが残るものの、学院の空気は確実に春へと傾きつつあった。
行き交う生徒の流れの中で、エレオノールは足を止める。
視界の先に、見慣れた組み合わせがあった。
ハルカの隣を歩くヴァレル。
以前より間隔はやや開いているが、視線の置き方は変わらない。気を抜いているように見せながら、周囲を取りこぼさない配置。
エレオノールは目を細めた。
「ハルカ。ちょうどよかったわ」
声をかけると、彼女の表情にかすかな安堵が浮かぶ。
鞄から原稿の束を取り出し、そのまま差し出した。
「これ、読んでみて。ミス・ヴィランの新作よ」
「新作?」
「ええ。読み終えたら、カイラに回してちょうだい」
普段なら最初に読むはずのカイラに、この原稿が直接渡ることはない。
ハルカは素直に頷き、受け取った。
その様子を確認してから、エレオノールは視線を横へ移す。
「よければ、あなたもどうぞ。ヴァレル」
「はぁ」
気のない返事。
視線すら寄越さないその態度に、エレオノールはわずかに口元を緩める。
「……そういえば」
呼びかけると、今度は目だけがこちらを捉えた。
「ピエール・スチュワルトという名前、聞いたことは?」
「いいえ。誰です?」
即座に返る応答。淀みはない。
「あなたの家に出入りしていた魔道具師だと聞いたのだけれど」
肩をすくめる仕草も軽い。
「知りませんね。それが何か?」
「いいえ」
エレオノールは首を横に振る。
「少し話を聞いてみたかっただけ。でも――亡くなったそうよ」
それでも、表情に変化は現れない。
「そうですか」
引っかかりはない。
あるいは、意図的に何も残していないのか。
どちらにせよ、容易に崩れる相手ではない。
「では、失礼します」
軽く会釈し、そのまま二人の横を通り過ぎる。
すれ違う刹那、視線が交差した。
測るような、探るような気配。
知っていて知らぬふりをしているのか、本当に関与していないのか。
――それは、これから判断させてもらう。
歩きながら、エレオノールは眼鏡に指をかけた。
ハルカに渡した原稿は、光華祭の一件を下敷きにしたもの。
ミス・ヴィランの新作という体裁を取りながら、実際には別の意図を含んでいる。
ヴァレルに読ませるための布石。
先ほどの会話から、彼は目を通す可能性が高い。
仮に手に取らなくても、ハルカが自然な流れで読ませるだろう。彼女は会話から意図に気づいたはずだ。
鞄の中には、もう一束の原稿がある。
指先でその重みを確かめながら、文芸部へと足を向けた。
♢
数日後。
放課後、席を立とうとしたところで、袖を引かれる。
「エレオノール、少しいい?」
ハルカの抑えた声。周囲に聞かせるつもりがないのは明らかだった。
エレオノールは頷き、教室の端へ移動する。
窓際、カーテンが落とす影の中へ身を寄せると、自然と距離が近づき、声も低くなる。
「どうしたの?」
「この前の原稿、ヴァレルが持っていったわ」
――予想通り。
「珍しく読みたがったから、渡したら持っていっていいかって」
「渡してくれたのね」
ハルカは頷いてから、探る視線をこちらに向けて尋ねる。
「あの話……本当なの?」
疑っているというより、確かめずにはいられない様子だった。
「嘘はね、本当を少し混ぜるからこそ際立つの」
曖昧に言い切ると、ハルカの呼吸が乱れる。
「じゃあ……犯人は……?」
エレオノールは首を振る。
「どうかしら。あれは創作かもしれないし、現実を写したものかもしれないわ」
沈黙が落ちる。
ハルカは視線を伏せ、そのまま動かない。
――ここから先は、踏み込ませない。
「それより、ハルカ」
名を呼ぶと、彼女ははっと顔を上げた。
「最近、あなたをヴァレルに取られている気がして、少し寂しいのだけれど」
思いのほか率直な言葉に、自分でも内心で苦笑する。
けれど、今はそれでいい。
「え……っと」
戸惑いがそのまま声に滲む。
「嫌でなければ、前みたいに隣にいてほしいの」
はっきりと告げると、ハルカの瞳が揺れた。
「……私、邪魔だよね」
どこか拗ねたような声。
「邪魔?」
「……殿下とエレオノールの」
――やはりそこか。
「……ヴァレルに何か言われた?」
問いに返事はない。だが沈黙が答えだった。
エレオノールは小さく息を吐き、肩を軽くすくめる。
「ねえ、最初に言ったこと、覚えている?」
「どれのこと?」
「殿下に恋心はないって」
その瞬間、ハルカの表情が変わる。
思い出した、という反応に思わず笑みが漏れた。
「やっぱり忘れてたのね」
「で、でも!」
「あなたを邪魔だなんて、思ったこともないわ。むしろ――勝手にいなくなられる方が困るの」
漆黒の瞳が揺れる。
「あなたがそうしたいなら、止めないけど」
「そんなこと――」
言いかけた言葉を遮るように、問う。
「ハルカは、誰が好きなの?」
一度言葉に詰まり、それから小さく答える。
「……エレオノール」
予想外の返答に、言葉が途切れる。
すぐに取り繕うように、微笑んだ。
「それは光栄ね。なら――なおさら、隣にいてくれる?」
「いいの?」
「いてほしいの。あなたと話したいこと、まだたくさんあるのよ」
そう言って手を取ると、ハルカの瞳が潤む。
「……私も、話したい」
取り戻した――そう思った。
♢
昼下がりの食堂へ足を踏み入れたエレオノールの耳に、すれ違う女生徒たちのひそやかな興奮が届いた。
「ねぇ、ミス・ヴィラン様の新作、もう読んだ?」
「読んだわ。あれって……」
言葉の続きを濁しながらも、彼女たちの声には抑えきれない熱が滲んでいる。昼の混雑が去った後の食堂は、席の隙間に静けさを残しつつも、まだ人の気配が途切れてはいなかった。落ち着いたざわめきの中に、どこか油断の混じった空気が漂っている。
その一角に、目的の人物はいた。
ヴァレルが、いつもと変わらぬ無造作な姿勢で椅子に腰を預けている。周囲にハルカの姿はない。彼女は今ごろ、カイラたちと一緒にいるはずだ。
そうするように、仕向けた。
エレオノールは迷いなく彼の正面に座った。わざと人目のある場所を選んだのは、偶然ではない。
「それで?」
カップの縁に指を添えたまま、視線だけを持ち上げる。
「わざわざ呼び出しておいて、用件は何かしら」
「呼び出したのは事実ですが……場所が食堂とは、少し意外でした」
「困るの?」
「いいえ。むしろ好都合です。逃げ道がありませんから」
その言葉に、エレオノールの眉がわずかに寄る。逃げ場が断たれているのは、どちらの立場なのか――その境界は曖昧なままだ。
「内々のお話かしら」
問いかけと同時に、ヴァレルは何も言わずに手を動かした。
ばさり、と乾いた音を立てて、原稿用紙の束がテーブルに叩きつけられる。
「これは誰が書いたものです?」
低く押し殺した声だった。問いというより、確認に近い。
「……あなたですか」
「いいえ」
エレオノールは指先で眼鏡を押し上げる。
「ミス・ヴィランの正体は不明よ。文芸部の中でも誰も知らない。原稿は、気づけば机の上に置かれているの」
わずかに首を傾ける。
「書き手が誰なのかも、性別すらわからない」
小さく舌打ちが鳴った。
エレオノールは原稿の端に軽く触れる。
「置かれていた原稿は二部。もう一つは――今ごろ、どこにあるのかしらね」
曖昧にぼかした言い方に、ヴァレルの視線が鋭く細まる。
すでに噂は広がり始めている。あの光華祭を題材にした物語は、読み手を選ばずに学院内を巡っているはずだった。
「つまり、この原稿の持ち主は不明。ならば、どう扱おうと問題はないということですね」
「そうなるわね」
エレオノールは紅茶へと目を落とした。
「むしろ、これが消えたら――書いた本人が動くかもしれないわ」
「動く?」
「自分の作品が消えたと知れば、黙ってはいられないでしょう?」
その言葉が落ちた直後、原稿の端に赤い火が灯った。
炎は迷いなく紙を舐め、白い面を黒へと塗り替えていく。音もなく崩れ、やがて形を保てなくなった紙片が、炭となってテーブルに散らばった。
エレオノールは目を逸らさず、その一部始終を見届ける。
――やはり。
ここから先は、後戻りのできない領域だ。
「もう一部も同じ扱いにして構いませんね?」
「ええ。ミス・ヴィランが現れない限り、私に止める権利はないもの」
短い沈黙のあと、ヴァレルが口を開く。
「――目的は何ですか」
揺らぎのない問いに、エレオノールは間を置かず答えた。
「さぁ。ミス・ヴィランの目的なんてわからないわ。ただ――ハルカは返してほしいわね」
「それは彼女が決めることです」
「そうね。彼女が望むなら、私は何も言わない」
視線をまっすぐに受け止めたまま、言葉を続ける。
「でも違うなら――話は別でしょう?」
ヴァレルの目が細くなる。
「踏み込みすぎだとは思いませんか」
「どの点が?」
視線を外さず問い返すと、彼は息を吐いた。
「……後悔しなければいいですね」
軽い調子を装いながらも、その奥に沈んだ重さが残る声だった。
それ以上は言葉を交わさず、彼は背を向ける。足音はやがて周囲のざわめきに溶け込み、存在の気配だけが薄れていった。
残されたのは、黒く崩れた紙の痕跡と、すっかり温度を失った紅茶。
エレオノールはカップに手を伸ばす。持ち上げようとしたところで、指先が震えていることに気づいた。
深く息を吸い込み、吐き出しながら、それを内側へ押し込めていく。
♢
それ以降も、ヴァレルの護衛は継続していた。ただし以前のように常に隣へ張り付くことはなく、視界のどこかに気配を残しつつ、必要な場面だけ姿を現す距離へと変わっている。
昼を告げる鐘が鳴り響き、エレオノールはハルカを誘って食堂へ向かった。
王族専用の席には、すでにルイが着いている。
二人で並んで席に着くと、彼の変化がはっきりと伝わってきた。
以前なら、ハルカを見つけた途端に表情が柔らいでいたはずなのに、今はそれを抑え込むように視線を落とし、何でもない様子を装っている。感情を閉じ込めているのか、それとも――。
「もうすぐ、先輩方の卒業ですわね」
何気ない口調で切り出す。
「ああ……そうだな」
ルイは顔を上げ、エレオノールへと視線を向けた。
「エレオノール、一応確認しておきたい。プロムには参加するよな?」
「ええ、もちろんですわ」
自由参加とはいえ、立場上欠席は許されない。王太子の婚約者である以上、なおさらだ。
「プロム?」
ハルカが首を傾げる。
「卒業式の後に開かれる舞踏会よ。在校生も参加できるの」
微笑みながら続ける。
「せっかくだもの、ハルカも参加してみない?」
「でも……踊れないし」
戸惑いを隠せない様子で首を振る。
「今から覚えれば問題ないわ。私、一緒に出たいの」
さりげなくルイへ視線を送ると、彼はすぐに言葉を重ねた。
「こういう場には今後も出ることになる。無理に踊る必要はない。慣れておくだけでも違う」
「ドレスもないし……」
「それなら用意させる」
エレオノールが軽く促すと、ルイが即座に応じる。
逃げ道を少しずつ塞がれ、ハルカは困ったように笑い、それでも最後には小さく頷いた。
「……わかりました」
その返答に、エレオノールは内心で静かに満足する。
「そういえば」
ルイが思い出したように言い、冊子を差し出した。
「これ、読んだことはあるか?」
見覚えのある表紙に、心臓が強く打つ。
「……殿下はお読みになったのですか」
平静を保ったまま問い返す。
「ああ。気分転換にジャンに勧められてな」
背後に控えるジャンが、無言で小さく頷いた。
――作者が私だと、知ってて渡した?
その顔からは、何も読めない。
「恋愛小説はあまり読まないが……思っていたより面白かった」
ルイは冊子に視線を落とす。
「学院の生徒が書いているらしいが、心当たりはあるか? ミス・ヴィランという名だけでは見当がつかない」
指先に汗が滲み、カトラリーが滑りそうになるのを意識の奥で押しとどめる。
「恋愛小説?」
ハルカが不思議そうに呟いた。
「君も本が好きだろう。きっと気に入る」
そう言って、ルイは冊子を彼女に渡す。
ハルカはページをめくり始める。序盤は見覚えのある流れのため、軽く読み進めていくが、ある地点で動きが止まった。
そこから先は――彼女の知らない展開だった。
「……これ」
顔を上げた視線がエレオノールへ向けられる。
エレオノールは何も知らない顔で、穏やかに微笑んだ。
「エレオノールも読んでみるといい」
ルイは気づかぬまま紅茶に口をつける。
「ええ、後ほど拝見いたしますわ」
そう応じながら、エレオノールは静かに呼吸を整えた。




