その沈黙は、終わらせない
冬期休暇が明け、学院がようやく日常の輪郭を取り戻し始めた頃だった。
エレオノールはユーベルに呼び出され、再び図書室の奥へ足を踏み入れる。
高い本棚に囲まれた一角。
人の気配が入り込まないその場所は、以前と何も変わらないはずなのに、漂う空気は明らかに違っていた。
隠すためではなく、事実をつきつけるための静けさ。
互いに視線を交わし、周囲に誰もいないことを確かめる。
その確認だけで、これから交わされる内容の重さが伝わってきた。
「犯人がわかりました」
低く抑えた声。
無駄のない報告に、エレオノールの頭は即座に切り替わる。
「……誰?」
間を置かずに問う。
「ピエール・スチュワルト。……ブロイ家に仕える魔道具師の一人です」
その名を聞いた瞬間、頭の中で一つの家名が浮かび上がる。
ブロイ家――ヴァレルの家。
差し出された書類を受け取り、視線を走らせた。
整えられた経歴、途切れのない職歴。
「それで?」
「魔法省に正式な調査を依頼したところ、モーリス・トレトンが担当を引き受けました。魔道具を再検証した結果、ごく微細な魔法痕が確認されています」
ユーベルの声音はいつもより硬い。
慎重に言葉を選んでいるのが伝わる。
「魔法には個人ごとの癖があります。通常は判別できないほどの差異ですが――」
「モーリスなら拾える」
エレオノールが言葉を引き取ると、ユーベルは小さく頷いた。
「ええ。そこから痕跡を逆算し、使用者を特定しました」
机に置かれた書類の端を、エレオノールは指先で押さえた。
「……見事ね」
自然と口元が緩むと同時に、得体の知れなさが背筋をかけ上がる。
規格外――その一言で片づけるには危うすぎる精度。
彼は、どこまで見えているのだろう。
「仕掛けられたのはいつ?」
視線を書類へ向けたまま問う。
「本番二日前。最終調整の名目で、外部の魔道具師が複数出入りしています。スチュワルトもその一人です」
「そのタイミングで仕込まれた、と」
「可能性は高いでしょう」
ページをめくる指が止まる。
「それで――捕まっているの?」
問いかけに対し、返答がすぐには来ない。
ユーベルの視線が伏せられたことで、嫌な予感が現実味を帯びる。
「スチュワルトは……死亡しています」
意味が繋がらなかった。
目が、書類の文字をなぞる。名前、年齢、経歴。
そこに「死亡」という結果だけが、異物のように差し込まれている。
「……死亡?」
言葉にして、ようやく現実となる。
「事故です。飲酒状態で橋から転落したと」
抑揚のない説明だが、その内容はあまりに都合がよすぎる。
書類を握る手に力が入り、紙がかすかに軋んだ。
室内は暖房が効いているはずなのに、指先だけが冷えていく。
感覚が現実から浮いているような、不快な違和感。
「……殺された可能性は?」
「現場に不審点は見つからず、事故として処理されています」
乾いた笑いが、喉の奥から零れた。
「ずいぶん都合がいい話ね」
「同感です」
ユーベルも皮肉を隠さない。
エレオノールは書類を閉じ、静かに机へ置いた。
「ブロイ家の魔道具師が、学院の舞台装置に細工を施した」
ゆっくりと言葉にしていく。
「しかも、聖女の魔力に反応する形で」
視線を上げる。
「――偶然だと思う?」
ユーベルは答えない。
その沈黙が、すべてを物語っていた。
「……これ以上は踏み込まない方が賢明かと」
控えめな忠告。
だが、その線引きがどこにあるのか、彼自身も測りかねているようだった。
「……そうね」
エレオノールは頷いた。
表面上は受け入れながらも、頭の中では断片が結びつき始めている。
ブロイ家。
魔道具師。
そして――ハルカの傍にいるヴァレル。
偶然で片付けるには、出来すぎている。
エレオノールは椅子から立ち上がり、静かに背を向けた。
「情報、助かったわ」
数歩進んだところで足を止め、振り返らずに呼びかける。
「ユーベル」
「……はい」
「この件、公式にはどう処理されるの?」
短い沈黙の後、答えが返る。
「公表はされません。学院の発表通り、魔道具の事故として処理されます。――それで終わります」
その言葉を聞きながら、エレオノールは目を細めた。
――終わったことにするのね。
それなら、終わったことにされた事実を使うだけだ。
胸の奥でそう結論づけると、何も言わずに図書室を後にした。
♢
休暇が明けても、状況に変化はなかった。
ハルカの隣には、常にヴァレルがいる。
モーリスの授業にも、ヴァレルは当然のように同席するようになっていた。
最初は護衛という名目で収まっていたが、ここまでくると様相が変わる。視線も、会話も、距離も、すべてに彼が介在してくる。
結果として、エレオノールは外側へ押し出された。
……見事な囲い込み。
授業の合間の移動でも、食堂でも、中庭でも。視界に収まる範囲に限れば、例外を探す方が難しいほどだ。
その配置はあまりにも自然で、いつしか違和感は話題として形を持ち始めていた。
――聖女と護衛。本当にそれだけの関係なのか、と。
さざ波のように広がった噂は、静かに輪郭を持っていく。
エレオノールは校舎の廊下から中庭を見下ろした。
冬の空気は澄みきり、遠くの細部までくっきりと見える。葉を落とした木々の向こう、ベンチに並ぶ二人の姿もはっきりと捉えられた。
ハルカは膝の上で本を開き、規則正しくページを繰っている。
その隣で、ヴァレルが何かを言う。軽く肩をすくめるような仕草。おそらくは、どうでもいい冗談か、あるいはからかい。
ハルカは顔を上げることなく言葉を返すと、ヴァレルが笑った。
ハルカは再び本へ視線を落とす。
興味を失ったように見えるその横顔へ向けた、ヴァレルの視線。その目が柔らぐ。
どこかで見たことのある視線に、記憶が重なる。
――同じだ。
ユーベルがナタリーを見るときの目。
ルイがハルカに向ける視線。
背もたれに回された腕が、ハルカの背後を囲う位置にある。
やがて、その指先がゆっくりと動き、肩へと落ちていく。
触れる直前で、ヴァレルが顔を上げた。
真っ直ぐに視線がこちらを捉える。
それから、口元がわずかに歪んだ。
――見ていることを、読まれていた。
エレオノールは小さく息を吐く。
彼は最初から触れるつもりなどなかったかのように手を引いた。
周囲を警戒し、配置を維持し、隙を見せない。さすがは騎士団長の子息。
ただ、あの視線は、護衛対象に向けるものではない。
このままでは噂が現実に変わる。そうなれば、もう戻らない。
――主を間違えた番犬は、厄介だ。
手遅れになる前に、元の場所へ戻すしかない。
♢
余った時間を埋めるように、最近は文芸部の部室に足を運ぶことが増えていた。
紙とインクの匂いに満ちた空間は、思考を整えるにはちょうどいい。
その日も部室へ向かう途中だった。
廊下の向こうから、見慣れた金色が揺れる。
ルイ。その少し後ろに、控えめに距離を取るジャンの姿。
あれ以来、ルイは沈んだままだった。視線は定まらず、以前のような穏やかさも余裕もない。
エレオノールは通り過ぎるために端へ寄るが、足が止まるより早く、声が出た。
「殿下」
呼びかけに、ルイがゆっくりと足を止める。
振り向いた瞳を、真正面から受け止めた。
「いつまで、そのままでいらっしゃるのですか」
空気が引き締まる。
「望んでいる相手は、もう決まっているのでしょう?」
ルイの表情が強張る。
言葉よりも、その反応がすべてを語っていた。
エレオノールは一歩だけ距離を詰める。
「卒業まで、あと一年余り。その先で――あなたは王となる」
瞳が揺れる。
「その隣に立たせる相手を、決めるべきでは?」
わずかに首を傾ける。
「それとも、決めきれないまま手放すおつもりで?」
言外に込めた意味が伝わったかどうかはわからない。
だが、沈黙の中でルイの視線は足元へ落ちた。
それでも、かすかに光が戻ったように見える。
それで十分だった。
エレオノールはそれ以上言葉を重ねず、そのまま横を通り過ぎる。
背後でジャンが息を呑む気配がした。
……これで動いてくれればいいけれど。
ハルカが王妃となれば、戦場へ送られる可能性は大きく下がる。
婚約を解消しても、ダンボワーズ家との交渉が成立すれば、フォルタへの軍事的圧力も抑えられる。
モーリスの研究も進行中だ。聖女の力を魔道具へ転用する試み。ハルカが作るポーションは既存のものを上回る効果を見せている。安定性に課題は残るが、量産への道筋は見え始めていた。
条件は一つずつ揃ってきている。
あとは――
ハルカをこちら側へ引き戻し、予定通りルイと結びつける。
それだけ。
胸の内で繰り返し、エレオノールは前を向いた。
部室の扉を開けると、中には四人の女生徒が集まっていた。
輪になり、本を広げ、楽しげに言葉を交わしている。
そのうちの一人がエレオノールに気づき、身を乗り出してきた。
「エレオノール様、ご存じですか? ジョエル殿下の婚約者が決まったそうです」
初耳だった。
「……どなたかしら」
「公爵家のヘレナ様です」
その名に、エレオノールの思考が鋭く動く。
ヘレナ・ランシアン。
レガリア二大公爵家の一つ、ランシアン家の令嬢。北部の広大な領地と独自の軍事力を持つ家。
――その後ろ盾が、ジョエルに付く。
盤面が静かに書き換えられていく。
勢力図の変化は、そのまま王位継承の流れにも影響する。
「まだ内々のことらしいので内緒でお願いします」
「了解」
――内緒。
便利な言葉ほど、長くは保たれない。
噂は人を繋ぐと同時に、誰かを燃やす燃料にもなる。
第一王子の婚約者である自分も、その例外ではないだろう。
もっとも、そういう話ほど当人の耳には届かないものだが。
……別に構わない。
エレオノールは窓際の席に腰を下ろし、原稿用紙を広げた。
インク壺の蓋を開け、ペンを取る。
白い紙面に影が落ちる。
噂。
火のないところに煙は立たないと言うが、火種は誰かが用意するものだ。意図的にせよ、無意識にせよ。
問題は、それがどこまで広がるか。
ペン先を紙に触れさせると、インクが静かに滲んだ。
さて――
この物語は、どこまで燃やせるかしら。




