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悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


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16/35

その代価は、引き受ける

冬期休暇初日。

いつもなら静かなはずの正門前には、各家の紋章を掲げた馬車が幾重にも並び、騒がしさに包まれていた。


御者の掛け声。従者たちが荷を運ぶ足音。ひと時の別れを惜しむ声と、名残惜しそうな挨拶。


貴族学院らしく整然としていた空気は崩れ、どこもかしこも浮き立っている。

寮の廊下まで落ち着きがなく、開け放たれた扉の向こうでは、あちこちで帰省の準備が進められていた。


エレオノールの部屋も例外ではない。


寝台の脇に置かれた大きなトランクへ、必要な荷物を一つずつ収めていく。中身が増えすぎて簡単には閉まらない。体重をかけてようやく金具を留めると、額から汗が流れた。

無理に押し込んだせいで、どこか収まりが悪い。


エレオノールはため息をついた。


――あとは迎えを待つだけ。


閉め切っていた室内の空気を入れ替えようと窓を開くと、冷えた風が頬を撫でていく。吐いた息は白く、冬の深まりをはっきりと感じさせた。


ハルカはこの休暇中、レガリア王城へ滞在する。

本音を言えば、フォルタへ連れて帰りたかった。自分の目の届く場所へ置いておきたかった。


けれど、彼女はレガリアの聖女だ。

他国であるフォルタへ同行させるなど、政治的に認められるはずがない。


だからせめて、と念を押した。


「転移先は、私にしてあるのよね?」


確認すると、ハルカは素直に頷いた。


「何かあったら、すぐ来て。遠慮とか考えなくていいから」


思わず語気が強くなる。

それでもハルカは困ったように微笑み、穏やかな声で返した。


「大丈夫よ」


その笑顔が、妙に遠かった。


安心させようとしているのは分かる。

なのに、薄い膜を一枚挟まれたような感覚だけが胸に残る。


――避けられているわけじゃない。


そう思いたかった。


だが、光華祭以降の彼女は、明らかに変わっていた。


談話室へ来る時間が減り、文芸部にも顔を出さなくなった。以前なら他愛もない話を延々としていたのに、今はどこか引いている。


原因があの事件にあることくらい、考えなくても分かる。

それでも、何かが抜け落ちた感覚が残ったままだった。


ふいに叩かれた扉の音に、肩が跳ねる。


「お嬢様、お迎えの準備が整っております」


聞き慣れた侍従の声だった。


エレオノールは窓を閉め、扉を開く。

そこに立っていた侍従の姿を見て、ほんの少し頬が緩んだ。

一年ぶりに見る顔。学院では常に気を張っていたせいか、見慣れた存在が妙に懐かしい。


侍従は無駄口を叩かず、自然な動作でトランクを持ち上げる。エレオノールは部屋を振り返った。


見慣れた学院の個室。

ここで過ごす時間も、あと一年と少し。

小さく息を吐いてから、彼女は侍従の後に続いた。


学院を出てからの移動は、宿場町を経由しながら進む長旅になる。

フォルタ王城まではおよそ五日。

一ヶ月近い休暇があっても、往復だけでかなり削られる。


馬車の揺れに身を任せながら、エレオノールは目を閉じた。



王城へ到着した瞬間、肩にかかっていた重さがふっと抜けた。

意識せずとも、背中の力が緩む。


石造りの回廊。磨き上げられた床。漂う香油の匂い。

見慣れた景色に、ようやく帰ってきたのだと実感させられる。


「おかえりなさいませ、お嬢様」


声の方へ振り向くと、侍女のクロエが恭しく頭を下げている。


「ただいま、クロエ」


自然と笑みが零れた。

クロエは安堵したように表情を緩め、侍従から荷物を受け取る。


「お部屋の準備は整っております」


「ありがとう。あとで行くわ」


短いやり取りを済ませると、エレオノールはそのまま両親の元へ向かった。


久々に会った父と母は、相変わらずだった。

母は目を細めて娘の顔を眺め、父は豪快に笑いながら肩を叩いてくる。


「元気そうで何よりだ」


「ええ、お父様も」


答えながら、エレオノールは内心で思う。


――また太った?


だが、この世界でそれは平和の証でもある。

食事が美味しく、悩みが少ないからこそ太れるのだ。


軽く挨拶を済ませると、今度は兄の執務室へ向かう。


扉の前で足を止め、静かに息を整える。


そしてノック。


「入れ」


短い返答とともに、室内へ入った。


部屋は静まり返っていた。

机へ向かった兄――クリストフは、こちらを見ようともしない。

書類へ視線を落としたままペンを走らせる姿には、一切の隙がなかった。


エレオノールは数歩進んで立ち止まる。

紙をめくる音だけが、室内に規則的に響く。

不意にペン先が止まり、間を置いてからクリストフが顔を上げた。


鋭い琥珀色の瞳が、エレオノールを値踏みするように捉える。


「お兄様。ただいま戻りました」


「エレオノール。待っていたぞ」


声音は穏やかだった。

だが、父母のような温かさはない。


クリストフは側近へ視線を向けることもなく言った。


「外せ」


側近は即座に一礼し、静かに退室した。

重い扉が閉まる音とともに、室内には兄妹二人だけが残される。


エレオノールが机へ歩み寄ると、クリストフは机上の書類を正確に指先で端に寄せた。


迷いなく引き出しを開け、二通の封書を取り出す。


見覚えのある封蝋。

冬期休暇前、自分が送った手紙だった。


新資源の独占交渉権。

それをダンボワーズ家へ与える件。


兄は封書を指先で軽く叩きながら口を開く。


「どういうことか説明してもらおうか」


静かな声音なのに、背筋が冷える。


クリストフは微笑んでいた。

完璧な笑顔だった。


――だからこそ怖い。


背中に冷たい汗が伝っていく。

逃げ道はない。


けれど、ここで怯めば全てが終わる。


エレオノールは両手を強く握り締めた。


「お兄様に、お話ししたいことがあります」


その言葉に、兄の視線がさらに鋭さを増したが、エレオノールは目を逸らさなかった。

慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと口を開く。


「レガリア国が聖女を召喚した件は、ご存じですよね」


「聞いている。それで?」


促すような兄の声を受け、エレオノールは胸の奥で呼吸を整えた。


「聖女の力は、“愛情”によって増幅される性質を持っています」


その言葉に、クリストフの眉がかすかに寄る。


「文献にそういう記述があることは知っている。だが、あくまで伝承の域を出ない話だろう」


「いいえ」


エレオノールは迷わず否定した。


「実際に、魔法師団所属のモーリスから報告を受けています。聖女の力は精神状態に強く左右されると。感情が安定している時ほど術式も安定し、逆に心が乱れれば制御精度も落ちるそうです」


兄が口を開きかける。

けれど、エレオノールは止まらなかった。

机へ向かって一歩踏み込む。


「聖女様の能力を最大限引き出すためには――ルイ殿下の存在が必要です」


その瞬間、クリストフの表情が明確に変わった。


「それは……」


低い声が漏れる。

だが、エレオノールは続きを待たずに言い切った。


「ですので」


彼女の視線が、兄に食らいつく。


「私は、レガリア国のために婚約を解消するつもりです」


窓の外で強い風が吹き、硝子が細かく鳴った。

室内に重苦しい沈黙が落ちる。


やがて、クリストフが静かに問いかけた。


「……殿下は了承しているのか」


「まだお話ししていません」


エレオノールは首を横へ振る。


「この件を打ち明けたのは、お兄様が初めてです」


クリストフは何も言わず妹を見つめていた。

その後、ゆっくりと机に肘をつき、額へ手を当てる。


「エレオノール……」


先ほどより低く沈んだ声だった。

だがエレオノールは、その迷いを押し流すように言葉を続ける。


「婚姻は両国の利益のためにあるものです」


机上に置かれていた二通の手紙へ手を伸ばす。


「だからこそ、その代替案としてこの話を持ってきました」


新資源に関する交渉権。

ダンボワーズ家への独占契約案。


それらを兄へ示すように持ち上げながら、彼女は続けた。


「我が国は資源輸出によって各国との均衡を維持しています」


封書が指先で揺れる。


「ですが、その豊かさは常に危険と隣り合わせです。武力侵攻の危険性。特にレガリアは軍事力を国家基盤としている国です。だからこそ、簡単には手を出せない状況――武力行使に関する制限を作らなければならない」


眼鏡の位置を整えながら、エレオノールは言葉を重ねる。


「そのための楔として、ダンボワーズ家を利用します。フォルタとの独占契約を結びつければ、彼ら自身が対フォルタ侵攻への抑止力になります。利益を得る側が、自ら均衡を壊したがるとは考えにくい」


クリストフは腕を組み、思案するように目を伏せた。

エレオノールはその間に補足を加える。


「もちろん、これはあくまで交渉権の話です。最終決定はお兄様とお父様、それからダンボワーズ宰相閣下との協議に委ねます」


しばらくしてから、クリストフがゆっくり顔を上げた。


「エレオノール。その話、どこまで計算している?」


予想外の問いに、エレオノールが固まる。


「お前の言っていることは理解できる。だが――」


クリストフの視線が鋭くなる。


「その前提は、聖女が殿下を選ぶことに依存しているな? もし選ばなかった場合はどうする?」


エレオノールは喉が詰まったかのように、返答ができない。

その沈黙が、主導権の傾きをはっきりと示していた。

クリストフはその様子を見逃さない。


「加えて、交渉が破談になった場合は?」


逃げ場を塞ぐように、問いが重なる。


――あの視線を、見間違えるはずがない。だけど。


最近のハルカの様子が頭をよぎる。どちらかが、どちらともが、選ばなかったら――。


「……その時は」


言葉を探す彼女の、視線が定まらない。


「予定通り輿入れするか、別の手段を考えます」


兄の眉間へ深い皺が刻まれる。


「曖昧だな。国家間の均衡を動かす話だ。思いつきで語るな。それとも――」


口元が歪む。


「ただ婚約から逃げたいだけか?」


「違います!」


即座に返した声が、強すぎた。

自分でも、余裕がなくなっていると気づく。


逃げられるなら、最初から受けない。でも、ここにきてようやく道が見つかった。

ハルカも、ルイも、自分自身も――幸せになれる道を。


「思い付きではありません。確定していない要素があるのは事実です。ですが、それは現状でも同じこと」


エレオノールは視線を兄へと向けた。


「ハルカの感情も、殿下の選択も、誰にも完全には制御できません。だからこそ――その不確定要素を前提に、均衡を作る必要があります」


クリストフは何も言わず、視線だけで続きを促す。


「ダンボワーズ家を巻き込むことで、利益と損失の天秤を固定する。個人の感情がどう動こうと、国家としての判断が逸れないように」


先ほどまでの、完成された計画からは外れた。

でも――それでもいい。


「最初から完璧な形など、ありません。だからこそ、先に楔を打ちます。後から崩せない形にするために」


クリストフの瞳が細められる。

先ほどとは違う意味の沈黙が、部屋を覆っていた。


「……本気、なんだな」


低く、確認するような声に、エレオノールは深く頷いた。


「わかった。……ただし、交渉結果までは保証できない。俺は国益を最優先に動く」


「――もちろんです。お兄様がそうしてくださるからこそ、安心してお願いできます」


その返答に、クリストフの表情が少しだけ和らいだ。


「願いを聞くことはできても、望み通りの結果になるとは限らんぞ」


「十分です。……ああ、それから」


思い出したように、エレオノールは付け加えた。


「フォルタ資源についてですが、“王家固有魔術による鎮めがあるから安定している”という設定で話を進めています」


クリストフの動きが止まった。


「……何だと?」


エレオノールは構わずに続ける。


「もし鎮めが失われれば、数年以内に資源が暴走し、大規模爆発を引き起こす危険がある。採掘量が多い地域ほど、影響は大きくなります」


平然と説明を続ける。


「もちろん、現時点でそれを裏付ける記録は存在しませんが――一部、作ってありますので足りないようであれば作ってください。古文書、口伝、王家のみが知る禁書の断片」


指を折りながら、要素を並べていく。


「点で存在するそれらしい情報を先に配置して、後から線で繋ぐ。過去のことなんて誰も検証できません。疑う余地があっても、否定する手段がない状態を作ります」


エレオノールは静かに、だがはっきりと言った。


「資源を奪うという発想そのものに、致命的なリスクを紐づける。――そうしておけば、欲しいと思っても、危険だと止まるでしょう?」


クリストフはしばらく黙ってから、額に手を当てて喉から声を漏らした。


「お前は……国家を守るためなら、現実そのものを捏造する気か」


「必要ならば、ですが」


あまりにも自然な肯定だった。


「事実は一つでも、認識は一つではありません。であれば、都合のいい形に整えた方が合理的です」


「……なるほどな」


クリストフはゆっくりと背もたれに体を預けた。


「確かに、それなら誰も軽々しく手を出せない」


エレオノールを見る視線に、評価が混じる。


「気に入らないやり方だが……有効ではある」


エレオノールは何も言わず、ただ微笑んだ。


「でもこれ、昔お兄様と一緒に考えた設定ではありませんでした?」


エレオノールは首を傾げる。


「記憶にない」


クリストフの即答にエレオノールは小さく瞬きをする。


幼い頃、紙を広げて隣にいた誰かと、夢中で空想を語り合った記憶がある。

ずっと兄だと思っていた。

けれど、記憶力に優れたクリストフが忘れているとは考えづらい。


――では、あれは誰だったのか。


疑問は残ったが、今ここで掘り返す話でもない。


「まあ、いいです」


軽く流し、エレオノールは話を締める。


「その前提で進めてください。詳細な虚構史も後ほどお持ちします」


そう言ってエレオノールは踵を返し、扉へ向かった。


「エレオノール」


振り返ると、クリストフがまっすぐにエレオノールを見つめていた。


「これから先、お前に何かがあっても俺は国を優先する。いいな?」


「……はい。わかっています」


――それは、先ほど自分が口にした理屈と同じだった。

個人よりも国家を優先する。その線を引いたのは、自分だ。


返事をして、エレオノールは背を向ける。

取っ手へ手を掛ける直前、ちらりと振り返る。


クリストフは既に視線を書類へ戻していた。


エレオノールは静かに部屋を後にする。

廊下へ出た途端、胸に詰まっていた澱がようやく抜けていく。


自室へ向かう途中、白い影が視界へ飛び込んできた。


「……ノエル」


小さく呼びかける。


だが愛猫は、こちらを見るなり足を止めた。

金色の瞳には明確な警戒が浮かんでいる。

まるで知らない相手を見るような反応に、エレオノールは思わず苦笑した。


本当なら今すぐ抱き上げて、柔らかな毛へ顔を埋めたい。


けれど、それをやれば確実に逃げられる。

彼女は何事もない顔を装い、その横を通り過ぎた。


休暇のたびに忘れられる。

そして学院へ戻る頃になって、ようやく思い出したように擦り寄ってくる。


毎回、その繰り返しだ。


「……早く卒業したいわね」


誰へ向けるでもなく呟く。


このまま城で暮らせたなら。

もう、こんなふうに忘れられることもないのに。


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