その代価は、引き受ける
冬期休暇初日。
いつもなら静かなはずの正門前には、各家の紋章を掲げた馬車が幾重にも並び、騒がしさに包まれていた。
御者の掛け声。従者たちが荷を運ぶ足音。ひと時の別れを惜しむ声と、名残惜しそうな挨拶。
貴族学院らしく整然としていた空気は崩れ、どこもかしこも浮き立っている。
寮の廊下まで落ち着きがなく、開け放たれた扉の向こうでは、あちこちで帰省の準備が進められていた。
エレオノールの部屋も例外ではない。
寝台の脇に置かれた大きなトランクへ、必要な荷物を一つずつ収めていく。中身が増えすぎて簡単には閉まらない。体重をかけてようやく金具を留めると、額から汗が流れた。
無理に押し込んだせいで、どこか収まりが悪い。
エレオノールはため息をついた。
――あとは迎えを待つだけ。
閉め切っていた室内の空気を入れ替えようと窓を開くと、冷えた風が頬を撫でていく。吐いた息は白く、冬の深まりをはっきりと感じさせた。
ハルカはこの休暇中、レガリア王城へ滞在する。
本音を言えば、フォルタへ連れて帰りたかった。自分の目の届く場所へ置いておきたかった。
けれど、彼女はレガリアの聖女だ。
他国であるフォルタへ同行させるなど、政治的に認められるはずがない。
だからせめて、と念を押した。
「転移先は、私にしてあるのよね?」
確認すると、ハルカは素直に頷いた。
「何かあったら、すぐ来て。遠慮とか考えなくていいから」
思わず語気が強くなる。
それでもハルカは困ったように微笑み、穏やかな声で返した。
「大丈夫よ」
その笑顔が、妙に遠かった。
安心させようとしているのは分かる。
なのに、薄い膜を一枚挟まれたような感覚だけが胸に残る。
――避けられているわけじゃない。
そう思いたかった。
だが、光華祭以降の彼女は、明らかに変わっていた。
談話室へ来る時間が減り、文芸部にも顔を出さなくなった。以前なら他愛もない話を延々としていたのに、今はどこか引いている。
原因があの事件にあることくらい、考えなくても分かる。
それでも、何かが抜け落ちた感覚が残ったままだった。
ふいに叩かれた扉の音に、肩が跳ねる。
「お嬢様、お迎えの準備が整っております」
聞き慣れた侍従の声だった。
エレオノールは窓を閉め、扉を開く。
そこに立っていた侍従の姿を見て、ほんの少し頬が緩んだ。
一年ぶりに見る顔。学院では常に気を張っていたせいか、見慣れた存在が妙に懐かしい。
侍従は無駄口を叩かず、自然な動作でトランクを持ち上げる。エレオノールは部屋を振り返った。
見慣れた学院の個室。
ここで過ごす時間も、あと一年と少し。
小さく息を吐いてから、彼女は侍従の後に続いた。
学院を出てからの移動は、宿場町を経由しながら進む長旅になる。
フォルタ王城まではおよそ五日。
一ヶ月近い休暇があっても、往復だけでかなり削られる。
馬車の揺れに身を任せながら、エレオノールは目を閉じた。
♢
王城へ到着した瞬間、肩にかかっていた重さがふっと抜けた。
意識せずとも、背中の力が緩む。
石造りの回廊。磨き上げられた床。漂う香油の匂い。
見慣れた景色に、ようやく帰ってきたのだと実感させられる。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
声の方へ振り向くと、侍女のクロエが恭しく頭を下げている。
「ただいま、クロエ」
自然と笑みが零れた。
クロエは安堵したように表情を緩め、侍従から荷物を受け取る。
「お部屋の準備は整っております」
「ありがとう。あとで行くわ」
短いやり取りを済ませると、エレオノールはそのまま両親の元へ向かった。
久々に会った父と母は、相変わらずだった。
母は目を細めて娘の顔を眺め、父は豪快に笑いながら肩を叩いてくる。
「元気そうで何よりだ」
「ええ、お父様も」
答えながら、エレオノールは内心で思う。
――また太った?
だが、この世界でそれは平和の証でもある。
食事が美味しく、悩みが少ないからこそ太れるのだ。
軽く挨拶を済ませると、今度は兄の執務室へ向かう。
扉の前で足を止め、静かに息を整える。
そしてノック。
「入れ」
短い返答とともに、室内へ入った。
部屋は静まり返っていた。
机へ向かった兄――クリストフは、こちらを見ようともしない。
書類へ視線を落としたままペンを走らせる姿には、一切の隙がなかった。
エレオノールは数歩進んで立ち止まる。
紙をめくる音だけが、室内に規則的に響く。
不意にペン先が止まり、間を置いてからクリストフが顔を上げた。
鋭い琥珀色の瞳が、エレオノールを値踏みするように捉える。
「お兄様。ただいま戻りました」
「エレオノール。待っていたぞ」
声音は穏やかだった。
だが、父母のような温かさはない。
クリストフは側近へ視線を向けることもなく言った。
「外せ」
側近は即座に一礼し、静かに退室した。
重い扉が閉まる音とともに、室内には兄妹二人だけが残される。
エレオノールが机へ歩み寄ると、クリストフは机上の書類を正確に指先で端に寄せた。
迷いなく引き出しを開け、二通の封書を取り出す。
見覚えのある封蝋。
冬期休暇前、自分が送った手紙だった。
新資源の独占交渉権。
それをダンボワーズ家へ与える件。
兄は封書を指先で軽く叩きながら口を開く。
「どういうことか説明してもらおうか」
静かな声音なのに、背筋が冷える。
クリストフは微笑んでいた。
完璧な笑顔だった。
――だからこそ怖い。
背中に冷たい汗が伝っていく。
逃げ道はない。
けれど、ここで怯めば全てが終わる。
エレオノールは両手を強く握り締めた。
「お兄様に、お話ししたいことがあります」
その言葉に、兄の視線がさらに鋭さを増したが、エレオノールは目を逸らさなかった。
慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと口を開く。
「レガリア国が聖女を召喚した件は、ご存じですよね」
「聞いている。それで?」
促すような兄の声を受け、エレオノールは胸の奥で呼吸を整えた。
「聖女の力は、“愛情”によって増幅される性質を持っています」
その言葉に、クリストフの眉がかすかに寄る。
「文献にそういう記述があることは知っている。だが、あくまで伝承の域を出ない話だろう」
「いいえ」
エレオノールは迷わず否定した。
「実際に、魔法師団所属のモーリスから報告を受けています。聖女の力は精神状態に強く左右されると。感情が安定している時ほど術式も安定し、逆に心が乱れれば制御精度も落ちるそうです」
兄が口を開きかける。
けれど、エレオノールは止まらなかった。
机へ向かって一歩踏み込む。
「聖女様の能力を最大限引き出すためには――ルイ殿下の存在が必要です」
その瞬間、クリストフの表情が明確に変わった。
「それは……」
低い声が漏れる。
だが、エレオノールは続きを待たずに言い切った。
「ですので」
彼女の視線が、兄に食らいつく。
「私は、レガリア国のために婚約を解消するつもりです」
窓の外で強い風が吹き、硝子が細かく鳴った。
室内に重苦しい沈黙が落ちる。
やがて、クリストフが静かに問いかけた。
「……殿下は了承しているのか」
「まだお話ししていません」
エレオノールは首を横へ振る。
「この件を打ち明けたのは、お兄様が初めてです」
クリストフは何も言わず妹を見つめていた。
その後、ゆっくりと机に肘をつき、額へ手を当てる。
「エレオノール……」
先ほどより低く沈んだ声だった。
だがエレオノールは、その迷いを押し流すように言葉を続ける。
「婚姻は両国の利益のためにあるものです」
机上に置かれていた二通の手紙へ手を伸ばす。
「だからこそ、その代替案としてこの話を持ってきました」
新資源に関する交渉権。
ダンボワーズ家への独占契約案。
それらを兄へ示すように持ち上げながら、彼女は続けた。
「我が国は資源輸出によって各国との均衡を維持しています」
封書が指先で揺れる。
「ですが、その豊かさは常に危険と隣り合わせです。武力侵攻の危険性。特にレガリアは軍事力を国家基盤としている国です。だからこそ、簡単には手を出せない状況――武力行使に関する制限を作らなければならない」
眼鏡の位置を整えながら、エレオノールは言葉を重ねる。
「そのための楔として、ダンボワーズ家を利用します。フォルタとの独占契約を結びつければ、彼ら自身が対フォルタ侵攻への抑止力になります。利益を得る側が、自ら均衡を壊したがるとは考えにくい」
クリストフは腕を組み、思案するように目を伏せた。
エレオノールはその間に補足を加える。
「もちろん、これはあくまで交渉権の話です。最終決定はお兄様とお父様、それからダンボワーズ宰相閣下との協議に委ねます」
しばらくしてから、クリストフがゆっくり顔を上げた。
「エレオノール。その話、どこまで計算している?」
予想外の問いに、エレオノールが固まる。
「お前の言っていることは理解できる。だが――」
クリストフの視線が鋭くなる。
「その前提は、聖女が殿下を選ぶことに依存しているな? もし選ばなかった場合はどうする?」
エレオノールは喉が詰まったかのように、返答ができない。
その沈黙が、主導権の傾きをはっきりと示していた。
クリストフはその様子を見逃さない。
「加えて、交渉が破談になった場合は?」
逃げ場を塞ぐように、問いが重なる。
――あの視線を、見間違えるはずがない。だけど。
最近のハルカの様子が頭をよぎる。どちらかが、どちらともが、選ばなかったら――。
「……その時は」
言葉を探す彼女の、視線が定まらない。
「予定通り輿入れするか、別の手段を考えます」
兄の眉間へ深い皺が刻まれる。
「曖昧だな。国家間の均衡を動かす話だ。思いつきで語るな。それとも――」
口元が歪む。
「ただ婚約から逃げたいだけか?」
「違います!」
即座に返した声が、強すぎた。
自分でも、余裕がなくなっていると気づく。
逃げられるなら、最初から受けない。でも、ここにきてようやく道が見つかった。
ハルカも、ルイも、自分自身も――幸せになれる道を。
「思い付きではありません。確定していない要素があるのは事実です。ですが、それは現状でも同じこと」
エレオノールは視線を兄へと向けた。
「ハルカの感情も、殿下の選択も、誰にも完全には制御できません。だからこそ――その不確定要素を前提に、均衡を作る必要があります」
クリストフは何も言わず、視線だけで続きを促す。
「ダンボワーズ家を巻き込むことで、利益と損失の天秤を固定する。個人の感情がどう動こうと、国家としての判断が逸れないように」
先ほどまでの、完成された計画からは外れた。
でも――それでもいい。
「最初から完璧な形など、ありません。だからこそ、先に楔を打ちます。後から崩せない形にするために」
クリストフの瞳が細められる。
先ほどとは違う意味の沈黙が、部屋を覆っていた。
「……本気、なんだな」
低く、確認するような声に、エレオノールは深く頷いた。
「わかった。……ただし、交渉結果までは保証できない。俺は国益を最優先に動く」
「――もちろんです。お兄様がそうしてくださるからこそ、安心してお願いできます」
その返答に、クリストフの表情が少しだけ和らいだ。
「願いを聞くことはできても、望み通りの結果になるとは限らんぞ」
「十分です。……ああ、それから」
思い出したように、エレオノールは付け加えた。
「フォルタ資源についてですが、“王家固有魔術による鎮めがあるから安定している”という設定で話を進めています」
クリストフの動きが止まった。
「……何だと?」
エレオノールは構わずに続ける。
「もし鎮めが失われれば、数年以内に資源が暴走し、大規模爆発を引き起こす危険がある。採掘量が多い地域ほど、影響は大きくなります」
平然と説明を続ける。
「もちろん、現時点でそれを裏付ける記録は存在しませんが――一部、作ってありますので足りないようであれば作ってください。古文書、口伝、王家のみが知る禁書の断片」
指を折りながら、要素を並べていく。
「点で存在するそれらしい情報を先に配置して、後から線で繋ぐ。過去のことなんて誰も検証できません。疑う余地があっても、否定する手段がない状態を作ります」
エレオノールは静かに、だがはっきりと言った。
「資源を奪うという発想そのものに、致命的なリスクを紐づける。――そうしておけば、欲しいと思っても、危険だと止まるでしょう?」
クリストフはしばらく黙ってから、額に手を当てて喉から声を漏らした。
「お前は……国家を守るためなら、現実そのものを捏造する気か」
「必要ならば、ですが」
あまりにも自然な肯定だった。
「事実は一つでも、認識は一つではありません。であれば、都合のいい形に整えた方が合理的です」
「……なるほどな」
クリストフはゆっくりと背もたれに体を預けた。
「確かに、それなら誰も軽々しく手を出せない」
エレオノールを見る視線に、評価が混じる。
「気に入らないやり方だが……有効ではある」
エレオノールは何も言わず、ただ微笑んだ。
「でもこれ、昔お兄様と一緒に考えた設定ではありませんでした?」
エレオノールは首を傾げる。
「記憶にない」
クリストフの即答にエレオノールは小さく瞬きをする。
幼い頃、紙を広げて隣にいた誰かと、夢中で空想を語り合った記憶がある。
ずっと兄だと思っていた。
けれど、記憶力に優れたクリストフが忘れているとは考えづらい。
――では、あれは誰だったのか。
疑問は残ったが、今ここで掘り返す話でもない。
「まあ、いいです」
軽く流し、エレオノールは話を締める。
「その前提で進めてください。詳細な虚構史も後ほどお持ちします」
そう言ってエレオノールは踵を返し、扉へ向かった。
「エレオノール」
振り返ると、クリストフがまっすぐにエレオノールを見つめていた。
「これから先、お前に何かがあっても俺は国を優先する。いいな?」
「……はい。わかっています」
――それは、先ほど自分が口にした理屈と同じだった。
個人よりも国家を優先する。その線を引いたのは、自分だ。
返事をして、エレオノールは背を向ける。
取っ手へ手を掛ける直前、ちらりと振り返る。
クリストフは既に視線を書類へ戻していた。
エレオノールは静かに部屋を後にする。
廊下へ出た途端、胸に詰まっていた澱がようやく抜けていく。
自室へ向かう途中、白い影が視界へ飛び込んできた。
「……ノエル」
小さく呼びかける。
だが愛猫は、こちらを見るなり足を止めた。
金色の瞳には明確な警戒が浮かんでいる。
まるで知らない相手を見るような反応に、エレオノールは思わず苦笑した。
本当なら今すぐ抱き上げて、柔らかな毛へ顔を埋めたい。
けれど、それをやれば確実に逃げられる。
彼女は何事もない顔を装い、その横を通り過ぎた。
休暇のたびに忘れられる。
そして学院へ戻る頃になって、ようやく思い出したように擦り寄ってくる。
毎回、その繰り返しだ。
「……早く卒業したいわね」
誰へ向けるでもなく呟く。
このまま城で暮らせたなら。
もう、こんなふうに忘れられることもないのに。




