その仕掛けは、終わっていない
光華祭初日の幕が下りたあとも、学院には張りつめた空気が残っていた。
夕暮れの教室に運び込まれた魔道具だけが、先ほどの異常をはっきりと示している。
エレオノールが出来事の流れを簡潔に説明し終えると、モーリスは何も言わずそれを手に取った。角度を変えながら外装を観察し、半円状の縁を指先でなぞる。やがて中央の魔石を覗き込み、慎重に魔力を流し込んだ。
しかし、反応はない。
まるで最初からただの壊れた器具であったかのように、完全な沈黙を保っている。
「派手に壊しましたね」
あっさりとした一言に、エレオノールは机に肘をついた。
「そうなの。……じゃなくて、細工されてる可能性は? 花びらに触れた生徒だけがおかしくなったの。魔力を持っている人たちだけが。……ハルカのせいじゃ、ないわよね?」
問いかけに、モーリスは視線を上げる。
「現在の聖女様は安定した制御ができています。実際、防御魔法も問題なく機能したのでしょう?」
エレオノールは小さく頷いた。
「ならば原因は個人ではなく、術式の構造です」
モーリスは手にした魔道具を軽く叩いた。乾いた音が、教室の静寂に溶ける。
「話の内容から判断するに、魔力へ反応して発動する仕組みでしょう。誰の魔力であっても、条件さえ揃えば同様の現象が再現されたはずです」
しかし――とモーリスは続ける。
「物理的に破壊して止めるのは、やめた方がいいです」
「……やっぱり? 爆発しそうな気配があったのよね」
モーリスは眉を寄せる。
「内部に何が仕込まれているか不明です。講堂ごと吹き飛んでいたかもしれませんよ」
いつも通りの平坦な口調に、言葉は理解できた。実感だけが遅れて追いついてくる。
血の気が引いた。
光が、すぐ目の前まで迫っていたことを思い出す。
あの瞬間、ハルカの助けがなかったら――。
「ハルカがいなかったら……止められなかったってことね」
自然と声が小さくなる。
モーリスは静かに頷いた。
「ええ。今回は結果的に収束しましたが、条件次第では被害が拡大していても不思議ではありません。今後は、むやみに壊さないようにしてください」
「言われなくても分かってるわよ」
少しだけぶっきらぼうに返し、エレオノールは視線を窓の外へ逃がした。
「ディナイアル・ルミナスって、どういう系統の術なの?」
「鎮圧と鎮静の複合ですね」
モーリスは口元を緩める。
「なるほど。装置の暴走を抑えて、客席全体に鎮静効果を広げたわけですか……聖女様はやはり優秀だ」
彼は再び装置を手にして言った。
「あなたが壊した部分は別として――切り離されています」
「切り離されている?」
モーリスが思考をなぞるように、装置の表面を辿った。
「ええ。本来なら繋がっているはずの経路が、意図的に潰されている」
「外部から干渉されているの?」
「はい。話を聞く限り、発動は花びらを触れた者に限定されている。しかも、魔力を持つ者だけが影響を受けている。――ならば、単純な発動式ではありません」
エレオノールは腕を組み、記憶を辿る。
異常を起こしていたのは魔力保持者だけだった。
――魔力にだけ反応する術式?
モーリスは魔道具を持ち直し、焦げた箇所へ目を向ける。
「特定の回路に対して、負荷をかけ続ける構造……」
声がそこで一度途切れる。
「魔力の振動を増幅しているのかもしれません」
「……共振?」
エレオノールの呟きに、モーリスは目を細めた。
「可能性はあります」
その声は、先ほどよりも確信を帯びている。
「魔力を共振させて……特定の領域へ干渉する構造ですね」
「領域……」
声に出すと、喉の奥がひりついた。
「今回であれば、感情に関わる部分でしょう。……その結果、感情の制御が崩れるはずです」
エレオノールは無意識に指輪へ触れる。
あの講堂に満ちていた空気を思い出すだけで、胸の奥がざらつく。
「……あれを、作為的に?」
「可能です。ですが――この規模で安定させるとなると、相当な技量が必要です」
エレオノールは詰めていた息をゆっくりと吐いた。
輪郭だけでも見えてしまうと、現実として重みを帯びる。
「誰でもできることじゃないわよね」
「ええ。かなり限られます」
その一言が、教室の空気を重くする。
モーリスは焦げた箇所へ指先を当てた。
観察するように目を細め、触れた部分を慎重になぞっていく。
「それから、術式が断ち切られています。痕跡がほとんど残っていない」
低く落ち着いた声で告げながら、さらに表面を辿る。
その指が、底の部分で止まった。
「術式の構造を追えないよう、最後に消去処理が施されているようです。ご丁寧に製造刻印も消されている」
エレオノールは眉を寄せた。
「つまり――細工されている可能性が高い」
「はい。ただし、最終的な判断にはもう少し解析が必要ですが……」
エレオノールの口から独白のように零れる。
「誰が、そんなことを……」
モーリスは小さく首を振った。
「現時点では特定できません。単に舞台を混乱させる目的だったのか――」
言葉が一度沈む。
「それとも、聖女様を狙ったものか」
背筋に氷を押し当てられたような戦慄が走り、肌が粟立つ。
エレオノールは息を整えながら、装置を見下ろした。
「これは預かります」
モーリスが静かにそれを引き寄せる。無機質な器具は、沈黙したまま何も語らない。
この件は終わっていない。
むしろ――ここから始まるのだと、そんな予感だけが残った。
♢
その夜、寮へ戻った後。
エレオノールはハルカの部屋を訪ねた。
扉を叩くと、すぐに小さな返事が返る。
中へ入ると、灯りは控えめで、机上のランプが橙色の光を静かに広げていた。
外界から切り離されたような静寂。
扉を閉め、足音を抑えながら近づく。
ハルカはベッドの端に腰掛けていた。
姿勢は崩れていないのに、どこか力が抜けている。
伏せられた横顔に、影が濃く落ちていた。
エレオノールは言葉を挟まず、その隣へ腰を下ろす。
窓を揺らす風の音だけが、室内に残る。
やがて、ハルカが口を開いた。
「……何が起こったのか、私にもよくわからないの」
かすれた声音。
「いつも通りに魔力を流しただけなのに」
膝の上で組まれた手が、小刻みに震えている。
「それなのに……あんな風になって……」
言葉が途切れる。
あの光景が脳裏に蘇ったのだろう。
「驚いて……何もできなかった」
吐き出される息さえ、不安定だった。
「エレオノールがいなかったら……」
途中で言葉が止まり、その代わりに指先へ力がこもる。
白くなるほど強く握られていた。
エレオノールは静かに首を振る。
「あなたの責任じゃないわ」
ハルカが顔を上げる。
揺れる瞳が、まっすぐこちらを捉えた。
「魔道具には細工があった」
逃げ道ではなく、事実として伝える。
その言葉を受けて、ハルカの瞳に涙が滲む。
それでも取り乱すことなく、受け止めている。
エレオノールは柔らかく表情を緩めた。
「それに、あなたはきちんと対応していた」
「……え?」
「混乱していたのは当然よ。それでも防御も展開できていた」
慎重に言葉を選びながら続ける。
「あれがいなければ、舞台上にいた魔力保持者にも影響が及んでいた可能性が高い」
そして――
「なによりも、聖女の力がなければ元には戻せなかった」
それは彼女自身の力だ。
「つまり、あなたが守ったのよ」
ハルカの手の上に、そっと自分の手を重ねる。
触れた指先は冷えきっていた。
「ハルカに救われたの。私も。みんなも」
「……うん」
かすかな頷き。
ぽたり、と。
温かな雫が、エレオノールの手の甲に落ちた。
それをきっかけに、肩が小さく震え始める。
エレオノールは何も言わず、その手を包み込んだ。
安心させるように、守るように。
室内には、押し殺された泣き声だけが残る。
彼女の涙が落ち着くまで、エレオノールはただ傍にいた。
やがて思考が静かに巡り始める。
細工された装置。
魔力を持つ者だけに現れた異常。
そして、あの場が選ばれた理由。
手の中の温もりを確かめながら、ゆっくりと息を吐く。
これ以上、ハルカに負担をかけるわけにはいかない。
だからこそ――
この仕掛けを施した意図を、見過ごすわけにはいかなかった。




