好きでも、踏み込まない
最近、ハルカにはエレオノールの内側が読めなくなってきていた。
同じ日本から来た転生者で、この世界の筋書きを変えられるかもしれないと告げてくれた人。
絶望しかけていた自分に、別の選択肢があるのだと示してくれた相手だった。
帰れないと理解した以上、ここで生きるしかない。
それならば、流されるのではなく、自分で選び取る未来を持ちたい。
エレオノールとなら、それが叶うかもしれない――そう思えたからこそ、踏みとどまれた。
彼女の存在に支えられて、学院での日々は驚くほど穏やかに流れていった。
ゲームの中で見たような陰湿な出来事は、一度も起きていない。
家族のことを思い出せば、胸は今でも締めつけられる。
それでも、この世界で笑えるようになったのは、間違いなくエレオノールのおかげだった。
フラグも順調に折られている。
モーリスもユーベルも、彼女の手によって恋愛の気配から外れている。
ユーベルに至っては、ハルカの存在を意識している様子すらない。
ヴァレルについては、自分で何とかするつもりだった。
これ以上、彼女に頼り続けるわけにはいかない。
――だけどルイは。
彼の好意は、隠す気がないとしか思えないほど露骨だった。
思い込みではないと断言できる。
視線が絡むたび、逸らされることなく追ってくるあの感覚。距離を詰める所作も、あまりにも自然すぎる。
言葉にされずとも、空気で伝わってくる。
気づかない方が難しい。
正直に言えば、かなり困っていた。
なぜなら――ルイは“推し”だからだ。
画面で見ていた時は安全だった。尊いで済んでいた。
けれど現実のルイは、視線も声も温度も近すぎる。
高身長で、柔らかい低音の声。
光を受けて輝く金の髪。
優しさと気遣いを兼ね備えた、理想のような王子様。
そんな相手から、あれほどまっすぐな感情を向けられて。
抗えるわけがない。
心はもう、とっくに持っていかれている。
それでも、踏み込めない。
彼には婚約者がいる。
その立場を押しのけてまで隣に立ちたいとは思えなかった。
今の自分にとって、最も大切なのはエレオノールだ。
彼女を傷つける選択だけは、どうしても受け入れられない。
だから本来なら、ルイとも距離を置くべきだった。
だが現実は、その逆へと進んでいく。
個別授業の担当がモーリスからルイへと変わる日、必ず傍にいたエレオノールが、その日だけは姿を見せない。
さらに、魔力の消耗で動けなくなったとき。
エレオノールは迷いなく、ルイに運ばせた。
――あれは、反則だ。
抱き上げられたとき、頭の中が真っ白になった。
平静でいられるはずがない。
さらには、関係を断つ必要はないとまで言われる。
理解が追いつかない。
真意を知りたいと思いながらも、聞けないまま時間だけが過ぎる。
そんな折に起きた、あの魔道具の暴走。
恐怖と混乱の中で、真っ先に浮かんだのは「自分のせいではないか」という疑念だった。
だが、エレオノールは迷いなく否定した。
ハルカの責任ではないと。
原因は細工された装置にあるのだと。
――「あなたが守ったのよ」
その言葉は、暗闇に差し込む光のように、ハルカの心を照らしたのだった。
♢
午後の光が回廊の石床に差し込み、柱の影を細長く引き延ばしていた。授業を終えたあとの中庭はひっそりとしていて、人の気配はほとんどない。足音だけが、やけに響く。
「聖女様」
背後から呼び止められ、ハルカは足を止めた。振り返ると、同学年の女生徒が三人、間を置いて立っている。
見覚えのある顔ぶれだった。けれど、そこに浮かんでいる表情は、普段のそれとは明らかに違う。張り詰めた空気。視線に含まれるのは、遠慮ではなく測るような冷たさだった。
「少し、お時間をいただけますか」
穏やかな言い回しにもかかわらず、断る余地は残されていない。ハルカは戸惑いを抱えたまま、小さく頷いた。
彼女たちはそのまま歩き出し、回廊の端へと誘導する。柱の影に入り込み、外からの視線が届きにくい場所で足を止めた。
中央に立った女生徒が、迷いなく口を開く。
「聖女様。少し、振る舞いに配慮が足りないのではありませんか」
柔らかな口調の奥に、はっきりとした非難が潜んでいた。
意味を掴みきれず、ハルカは首をかしげる。
「……配慮、ですか?」
問い返した途端、相手の眉がわずかに動いた。
「とぼけないでください」
声音が一段低くなる。
「ルイ殿下との距離が近すぎる、と申し上げているのです」
心臓が一度大きく跳ねたあと、鼓動が早くなる。
「ご理解されているはずです。あの方には――」
間を置かず、言葉が突きつけられる。
「正式な婚約者がいらっしゃいます」
そこでようやく、話の矛先が見えた。
彼女たちの関心はルイではない。向けられているのは、エレオノールの立場だ。
思い返せば、彼女はよく言っていた。
自分に親しく接する生徒たちは、物語を楽しんでくれているからだと。けれど、それだけでは説明しきれないものがあると、ハルカはずっと感じていた。
敬意。信頼。守ろうとする意思。
――隣国の王女であり、王太子の婚約者でありながら、誰に対しても偏らない態度。そのさりげない優しさに救われているのは、自分だけではない。
何よりも、彼女の綴る言葉は人を惹きつけ、救いさえ与える。
そんな存在のすぐそばにいながら、婚約者へ近づいているように見える自分が、どう映るのか。
そこまで考えが及んだところで、ハルカは言葉を失っていることに気づいた。
沈黙を肯定と受け取ったのか、女生徒たちは続ける。
「エレオノール様がお優しいからといって」
冷ややかに言い放たれる。
「聖女様は、少々立場を弁えるべきではありませんか」
「ご自身の影響を、もう少し考慮された方がよろしいのでは」
丁寧な言葉で整えられている分、その内容は余計に鋭く胸へ入り込んだ。
――でもエレオノールを守りたい気持ちは、私も同じだった。
「……あなたたちが守りたいものはわかる。でも、それを理由に誰かを決めつけるのは違うと思うの」
自分でも驚くほど、声は揺れていなかった。
「私は……エレオノールのことを、一番に考えている」
彼女たちの目が、見開かれた。
「だから彼女が困るようなことは、しない」
そう言いながら、胸の奥で何かが強く軋む。
そこに、足音が割り込んだ。
「聖女ちゃん、何してんの?」
頭上から、軽さを帯びた声が落ちてくる。
振り向けば、ヴァレルの高い背が光を遮り、足元に濃い影を落としていた。
気安い調子とは裏腹に、その場の流れを断ち切るだけの圧があった。
「お友達?」
自然な動きでハルカと女生徒たちの間に入り込み、空間を切り替える。
「ヴァレル様……」
女生徒たちの声に、戸惑いが混じる。
「ここ、通路だろ。立ち話するなら場所変えた方がいいんじゃない?」
否定も叱責もない。ただ、それ以上続けること自体を不可能にする言葉。
「い、いえ……失礼いたします」
それ以上踏み込むことなく、三人は足早に去っていった。
静けさが戻り、ハルカはようやく息を吐き出した。
「助かった、って顔だな」
耳元に落ちてきた声に、身体が強張る。振り向くより早く、手首を掴まれた。
引かれるまま、身体が前に傾く。
足がもつれ、体勢が崩れかけたところで止められた。
顔が近い。
吐息が頬にかかる距離で、ヴァレルが口を開く。
「別に庇ったわけじゃないから」
軽い声音とは裏腹に、温度のない言葉だった。
「……放して」
押し返すように言っても、拘束は緩まない。
「聖女ちゃんはさ、婚約者殿にずいぶん懐いてるみたいだけど」
覗き込まれる視線が逃げ場を塞ぐ。
「本当に、何もしてないって言い切れる?」
「してないわ」
反射的に返した言葉に、彼は小さく笑った。
「そう思ってるのは本人だけ。あの殿下も分かりやすいけどさ。近づかれた側にも問題があるって、さっきので理解したんじゃない?」
息を吸い込んだまま、吐き出すタイミングを見失う。
喉の奥に何かが引っかかり、うまく声が出ない。
「そんなつもりは……」
絞り出すように言うと、あっさりと返された。
「どう見えるかの話」
言葉を失い、視線が落ちる。足元の石床が滲んで見えた。
「ね、俺と付き合わない?」
「は?」
思考が追いつくより先に声が出る。
「無理」
即答すると、彼は肩を揺らして笑った。
「本気じゃない。形だけ」
「……意味がわからない」
光華祭の一件を受け、護衛をつけることになった――その説明は、あまりにもさらりとしていた。
「俺が一緒にいれば、殿下も距離取るだろ」
「必要ないわ」
「じゃあ、断る?」
ヴァレルは肩をすくめる。
「上に報告するけど。“聖女が護衛を拒否した”って」
指先が絡められ、距離の近さに苛立ちが募る。
「それとも……無理やり奪った方が、わかりやすい?」
「あなたは、そんな真似しない」
睨みつけると、楽しげに目を細める。
「するかもよ? 噂、聞いたことない?」
「あれは根拠のない話よ。あなたを快く思わない誰かが流したもの」
それは、ゲームの知識からくる確信だった。
「……へえ」
ヴァレルは笑みを浮かべたあと、ようやく手が離された。
「やっぱり面白いな、聖女ちゃん」
軽さはそこまでだった。
次に続いた声は、低く沈んでいる。
「――忘れるなよ」
空気が変わる。
「この国の王子は一人じゃない」
押し込めるような調子で、言葉が重ねられる。
「フォルタとの婚約を壊した王子が、そのまま王位につけると思うか?」
言葉が出なかった。
もう一人の王子――ジョエル。
ゲームでは触れられていなかった存在。こちらに来て初めて知った現実が、重くのしかかる。
ヴァレルはそれ以上何も言わず、背を向けた。足音が遠ざかっていく。
残された静寂の中で、先ほどの言葉だけが繰り返し蘇る。
考えてはいけない気がした。
それでも、一度浮かんだ可能性は消えない。
ハルカはその場を動けずにいた。
足先に力が入らないまま、ただ同じ場所に立ち続ける。




