表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役王女は筆を取る――物語で運命を書き換えます  作者: 鴨治玲


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/35

気づかないまま、選ばれている

吹き抜ける風はどこか軽く、暑さに押し込められていた感覚をゆっくりと解きほぐしていく頃。


学院では定期試験が行われた。


その前日、エレオノールはハルカにひとつ頼みごとをしている。


「二、三問だけでいいの。あえて間違えてくれない?」


唐突な依頼に、ハルカは目を丸くした。だが、すぐに思考を巡らせたのか、しばらくしてから納得したように小さく頷く。説明をする前に、ハルカは理由に辿り着いていた。


結果は狙い通り。


ユーベルの視線は終始、婚約者であるナタリーにのみ向けられている。少なくとも現時点では、ハルカは彼の関心の外に置かれている状態だ。試験の順位変動をきっかけに意識が芽生えるという展開も、これで封じられたと見ていいだろう。


中庭では、緑一色だった木々がところどころ色づき、赤や金へと移ろう準備を進めている。


そのベンチに、ハルカは一人で腰を下ろしていた。

膝の上にはノートが広げられ、その上で淡い光が揺れている。指先に集めた魔力を、こぼさぬよう慎重に扱いながら、彼女は静かに制御の訓練を続けていた。


エレオノールは少し離れた柱の陰に身を預け、同志から託された原稿に目を落としている。紙の手触りとインクの匂いが、思考を穏やかに沈めていく。


やわらかな陽光。

色づいた葉が風に揺れ、さらりと乾いた音を立てる。

その静けさは、意識しなければ眠気すら誘うほどに穏やかだった。


――だが、それを破る声が落ちる。


「やぁ、聖女様」


低く響く声に、エレオノールの指先が止まる。

視線だけを上げ、気配を殺したまま様子を探る。


ハルカの前に立っていたのは、ヴァレル・ブロイ。

後ろへ撫でつけた赤い髪と、制服越しにも隠しきれない鍛え抜かれた体つき。噂に違わぬ存在感だ。


「一人? 退屈じゃない?」


柔らかな笑みと軽やかな声色。

距離を詰めることに躊躇がない、その自然さ。


――なるほど、これが。


エレオノールは内心で納得する。


ハルカは顔を上げ、彼を見据えた。

一度、相手を値踏みするように視線を走らせる。


「退屈じゃないわ。勉強中なの」


愛想も添えずに答え、そのまま視線をノートへ戻す。

取りつく島もない拒絶。


だがヴァレルは引かなかった。

当然のように隣へ腰を下ろし、さらに間合いを詰める。


「聖女様って、真面目なんだね。もう少し肩の力抜いても――」


言い終わる前に、ハルカが顔を上げる。

言葉を遮る形で。


「いいんじゃない――って?」


ヴァレルの動きがそこで固まった。

表情の奥に、わずかな引っかかりが走る。


「……よく、わかったね?」


「なんとなく。慣れてる人の距離感だったから」


その言葉に、ヴァレルはしばし沈黙する。

エレオノールもページをめくる手を止め、息を潜めた。


やがて、低く笑いが漏れる。


「……さすが聖女様」


先ほどまでの軽さとは違う、少しだけ本音に近い声音。


「正解。俺、女の子の扱いには慣れてるから」


「そう」


ハルカは短く頷くだけで、再びノートへ視線を落とす。

そして付け加える。


「その辺の女の子と一緒にしないで」


「なんで?」


「免疫があるから」


あっさりと切り捨てる一言。

ヴァレルは一度ぽかんとした顔を見せ、次の瞬間、腹の底から笑い出した。


「初めて言われた」


「そう」


「うん。そうだよ」


笑いを引きずりながら、彼はハルカを見下ろす。

その目に、ほんのわずかに別の色が混じる。


「また、話しかけていい?」


拒まれても、来るつもりでいる声だった。


「勉強の邪魔をしないなら」


「……じゃあ、邪魔しない方法で来るよ」


苦笑を浮かべて立ち上がる。

踵を返しかけたところで、視線が流れた。エレオノールのいる柱の陰へ。


「エレオノール様も、ごきげんよう」


口角を上げたまま、軽く告げる。

完全に気づかれていた。

ヴァレルはそのまま去っていく。


エレオノールは原稿を閉じ、彼の背中を見送った。

その背中が消えたところで、柱の陰から歩み出る。

逃がさない側の人間だと、すぐに理解した。


「免疫って?」


問いかけると、ハルカが振り返る。


「ゲームの知識があれば、攻略対象の口説き文句なんて全部お見通しよ」


「……なるほど」


納得しながら隣に腰を下ろす。

ベンチの木の冷たさが、布越しに伝わる。


風が抜ける。

葉の擦れる音が、また静けさを戻していく。


「実際のヴァレルはどう?」


エレオノールの問いに、ハルカは少し考えた。


「思っていたより、素直な人」


言葉を選びながら続ける。


「口説き文句は慣れてるくせに、図星をついたらちゃんと認める」


エレオノールは同意する。


「そうね」


「でも――」


ハルカの視線が、彼の去った方向へ伸びた。


「自由に見えるのに、踏み込まないラインがある。――何かに縛られているみたい」


その言葉に、エレオノールの目が細められる。


縛られている。

何に。あるいは誰に。


答えは見えない。

ただ、引っかかりだけが残る。


「彼のフラグ、どう折る?」


静かに問いかけると、ハルカは少し間を置いた。


「……私に任せてもらってもいい?」


予想外の申し出。


「あなたがそう言うなら構わないけど……本当に大丈夫?」


「平気よ。攻略対象者たちのデータは頭に入ってる」


こめかみを指で叩き、軽く笑う。


「じゃあ、任せるわね」


「任せて」


その笑顔に、エレオノールはつられて微笑む。



一方で、ハルカの指には新しい指輪がはめられていた。


同じ意匠のものが、エレオノールの右手の中指にも収まっている。


中央には小さな青石が埋め込まれており、そこに聖女の魔力を流し込むか、あるいは鍵となる詠唱を行うことで、ハルカを強制的に転移させる仕組みだ。転移先は常にエレオノールの位置に固定されている。


――逃がさないための仕組みであることに変わりはない。


念入りに検証も行った。


学院の端から端まで場所を変え、複数回試したが、結果にばらつきはなかった。どこにいても、ハルカは確実に彼女のすぐ傍へと現れる。


ただし、負担は決して軽くない。


終わった直後、ハルカはその場で力を失い、膝から崩れ落ちた。


「大丈夫?」


声をかけても、返ってくるのは顔色の悪い首振りだけ。


エレオノールは横にいたルイへ視線を送る。


「殿下」


言葉にせずとも意図は伝わったようで、彼は一瞬逡巡したあと、ハルカの前にしゃがみ込んだ。そのまま迷いを振り払うように腕を差し入れ、彼女を抱き上げる。


「医務室まで運ぼう」


最初、ハルカは慌てて身をよじった。


「だ、大丈夫です、自分で歩けます……!」


しかし腰が抜けている以上、その主張に現実味はない。焦りから判断力も鈍っているのだろう。


「落ち着きなさい」


エレオノールは軽く息を吐く。


「暴れたら、殿下まで巻き添えになるわよ」


その一言で、ハルカはぴたりと動きを止めた。諦めたのか、腕の中で小さく身を縮める。

廊下を進むうち、彼女はぽつりと声を落とした。


「……申し訳ありません」


ほとんど聞き取れないほどの小さな声。頬は赤く染まりきっている。

それに対してルイは、穏やかな調子で応じた。


「気にする必要はない」


短い言葉だったが、その響きにハルカはさらに顔を伏せ、沈黙してしまう。


エレオノールは二人の後ろを歩きながら、表情が緩むのを必死で抑えていた。今にも口元が崩れそうになるのを、顔を下に向けて誤魔化す。


胸の奥で転げ回りたい衝動が暴れる。


――これはもう、誤解の余地がない。


婚約を解消できないことへの後ろめたさは、もちろん消えてはいない。それでも、目の前で繰り広げられるこの甘やかな空気を前にすると、どうしても別の感情が勝ってしまう。


(……ごちそうさまです)


心の中でだけ、深く感謝した。



それから、数日たった日のこと。

朝の柔らかな光が差し込む廊下を、エレオノールはルイと並んで歩いていた。フォルタの資源に関する情報を、定期的に彼へ共有するためだ。


「エレオノール、セレスティエ川流域の――」


ルイが話し始めた、そのときだった。


「兄上!」


弾んだ声が空気を切り裂く。


振り返ると、小走りで近づいてくる少年の姿があった。光を受けてきらめく金髪と、まだ幼さの残る顔立ち。ルイの弟、ジョエルである。

彼は後ろからルイの肩に抱きついた。


「ジョエル。重い」


軽くたしなめながらも、その声音には隠し切れない甘さが混じっている。


「ごめんなさい。兄上をお見かけしたら、つい」


そう言って彼は兄の腕に自分の腕を絡め、甘えるように見上げた。その仕草は年下の愛らしさに満ちている。


「あれ? 兄上、お疲れではありませんか? きちんと休まれてます?」


「……少し夜更かしをしただけだ」


「無理はなさらないでくださいね」


微笑む様子に、エレオノールの内心では別の感情が弾けていた。


(これは……強い)


保護欲を刺激する存在、その典型のような振る舞いだ。


「義姉上もご一緒でしたか」


ようやくこちらに気づいたジョエルが、丁寧に礼を取る。


「ごきげんよう」


「ごきげんよう、ジョエル殿下。――それより、まだ義姉(あね)ではありませんわ」


「そうでしたか?」


くすりと笑う仕草がまた愛らしい。


王妃の座に未練はない。だが、この少年と家族になれないことだけは、ほんの少し惜しいと感じてしまう。


やがてジョエルはルイに耳打ちをし、軽やかにその場を離れていった。


その背中が角を曲がろうとしたとき。

向こうから歩いてきたヴァレルが、ジョエルを目に入れた、その刹那。


ヴァレルの表情から、笑みだけが抜け落ちた。


その顔が、胸の奥に小さな引っかかりを残す。


「どうかしたか?」


ルイの声に意識を引き戻される。


「いいえ、なんでもありません」


答えながらも、違和感はすぐに霧のように薄れていった。


(……気のせい、ね)


そう結論づけるしかなかった。


――それが、もっとも厄介な相手に主導権を渡すことになるとも知らずに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ