気づかないまま、選ばれている
吹き抜ける風はどこか軽く、暑さに押し込められていた感覚をゆっくりと解きほぐしていく頃。
学院では定期試験が行われた。
その前日、エレオノールはハルカにひとつ頼みごとをしている。
「二、三問だけでいいの。あえて間違えてくれない?」
唐突な依頼に、ハルカは目を丸くした。だが、すぐに思考を巡らせたのか、しばらくしてから納得したように小さく頷く。説明をする前に、ハルカは理由に辿り着いていた。
結果は狙い通り。
ユーベルの視線は終始、婚約者であるナタリーにのみ向けられている。少なくとも現時点では、ハルカは彼の関心の外に置かれている状態だ。試験の順位変動をきっかけに意識が芽生えるという展開も、これで封じられたと見ていいだろう。
中庭では、緑一色だった木々がところどころ色づき、赤や金へと移ろう準備を進めている。
そのベンチに、ハルカは一人で腰を下ろしていた。
膝の上にはノートが広げられ、その上で淡い光が揺れている。指先に集めた魔力を、こぼさぬよう慎重に扱いながら、彼女は静かに制御の訓練を続けていた。
エレオノールは少し離れた柱の陰に身を預け、同志から託された原稿に目を落としている。紙の手触りとインクの匂いが、思考を穏やかに沈めていく。
やわらかな陽光。
色づいた葉が風に揺れ、さらりと乾いた音を立てる。
その静けさは、意識しなければ眠気すら誘うほどに穏やかだった。
――だが、それを破る声が落ちる。
「やぁ、聖女様」
低く響く声に、エレオノールの指先が止まる。
視線だけを上げ、気配を殺したまま様子を探る。
ハルカの前に立っていたのは、ヴァレル・ブロイ。
後ろへ撫でつけた赤い髪と、制服越しにも隠しきれない鍛え抜かれた体つき。噂に違わぬ存在感だ。
「一人? 退屈じゃない?」
柔らかな笑みと軽やかな声色。
距離を詰めることに躊躇がない、その自然さ。
――なるほど、これが。
エレオノールは内心で納得する。
ハルカは顔を上げ、彼を見据えた。
一度、相手を値踏みするように視線を走らせる。
「退屈じゃないわ。勉強中なの」
愛想も添えずに答え、そのまま視線をノートへ戻す。
取りつく島もない拒絶。
だがヴァレルは引かなかった。
当然のように隣へ腰を下ろし、さらに間合いを詰める。
「聖女様って、真面目なんだね。もう少し肩の力抜いても――」
言い終わる前に、ハルカが顔を上げる。
言葉を遮る形で。
「いいんじゃない――って?」
ヴァレルの動きがそこで固まった。
表情の奥に、わずかな引っかかりが走る。
「……よく、わかったね?」
「なんとなく。慣れてる人の距離感だったから」
その言葉に、ヴァレルはしばし沈黙する。
エレオノールもページをめくる手を止め、息を潜めた。
やがて、低く笑いが漏れる。
「……さすが聖女様」
先ほどまでの軽さとは違う、少しだけ本音に近い声音。
「正解。俺、女の子の扱いには慣れてるから」
「そう」
ハルカは短く頷くだけで、再びノートへ視線を落とす。
そして付け加える。
「その辺の女の子と一緒にしないで」
「なんで?」
「免疫があるから」
あっさりと切り捨てる一言。
ヴァレルは一度ぽかんとした顔を見せ、次の瞬間、腹の底から笑い出した。
「初めて言われた」
「そう」
「うん。そうだよ」
笑いを引きずりながら、彼はハルカを見下ろす。
その目に、ほんのわずかに別の色が混じる。
「また、話しかけていい?」
拒まれても、来るつもりでいる声だった。
「勉強の邪魔をしないなら」
「……じゃあ、邪魔しない方法で来るよ」
苦笑を浮かべて立ち上がる。
踵を返しかけたところで、視線が流れた。エレオノールのいる柱の陰へ。
「エレオノール様も、ごきげんよう」
口角を上げたまま、軽く告げる。
完全に気づかれていた。
ヴァレルはそのまま去っていく。
エレオノールは原稿を閉じ、彼の背中を見送った。
その背中が消えたところで、柱の陰から歩み出る。
逃がさない側の人間だと、すぐに理解した。
「免疫って?」
問いかけると、ハルカが振り返る。
「ゲームの知識があれば、攻略対象の口説き文句なんて全部お見通しよ」
「……なるほど」
納得しながら隣に腰を下ろす。
ベンチの木の冷たさが、布越しに伝わる。
風が抜ける。
葉の擦れる音が、また静けさを戻していく。
「実際のヴァレルはどう?」
エレオノールの問いに、ハルカは少し考えた。
「思っていたより、素直な人」
言葉を選びながら続ける。
「口説き文句は慣れてるくせに、図星をついたらちゃんと認める」
エレオノールは同意する。
「そうね」
「でも――」
ハルカの視線が、彼の去った方向へ伸びた。
「自由に見えるのに、踏み込まないラインがある。――何かに縛られているみたい」
その言葉に、エレオノールの目が細められる。
縛られている。
何に。あるいは誰に。
答えは見えない。
ただ、引っかかりだけが残る。
「彼のフラグ、どう折る?」
静かに問いかけると、ハルカは少し間を置いた。
「……私に任せてもらってもいい?」
予想外の申し出。
「あなたがそう言うなら構わないけど……本当に大丈夫?」
「平気よ。攻略対象者たちのデータは頭に入ってる」
こめかみを指で叩き、軽く笑う。
「じゃあ、任せるわね」
「任せて」
その笑顔に、エレオノールはつられて微笑む。
♢
一方で、ハルカの指には新しい指輪がはめられていた。
同じ意匠のものが、エレオノールの右手の中指にも収まっている。
中央には小さな青石が埋め込まれており、そこに聖女の魔力を流し込むか、あるいは鍵となる詠唱を行うことで、ハルカを強制的に転移させる仕組みだ。転移先は常にエレオノールの位置に固定されている。
――逃がさないための仕組みであることに変わりはない。
念入りに検証も行った。
学院の端から端まで場所を変え、複数回試したが、結果にばらつきはなかった。どこにいても、ハルカは確実に彼女のすぐ傍へと現れる。
ただし、負担は決して軽くない。
終わった直後、ハルカはその場で力を失い、膝から崩れ落ちた。
「大丈夫?」
声をかけても、返ってくるのは顔色の悪い首振りだけ。
エレオノールは横にいたルイへ視線を送る。
「殿下」
言葉にせずとも意図は伝わったようで、彼は一瞬逡巡したあと、ハルカの前にしゃがみ込んだ。そのまま迷いを振り払うように腕を差し入れ、彼女を抱き上げる。
「医務室まで運ぼう」
最初、ハルカは慌てて身をよじった。
「だ、大丈夫です、自分で歩けます……!」
しかし腰が抜けている以上、その主張に現実味はない。焦りから判断力も鈍っているのだろう。
「落ち着きなさい」
エレオノールは軽く息を吐く。
「暴れたら、殿下まで巻き添えになるわよ」
その一言で、ハルカはぴたりと動きを止めた。諦めたのか、腕の中で小さく身を縮める。
廊下を進むうち、彼女はぽつりと声を落とした。
「……申し訳ありません」
ほとんど聞き取れないほどの小さな声。頬は赤く染まりきっている。
それに対してルイは、穏やかな調子で応じた。
「気にする必要はない」
短い言葉だったが、その響きにハルカはさらに顔を伏せ、沈黙してしまう。
エレオノールは二人の後ろを歩きながら、表情が緩むのを必死で抑えていた。今にも口元が崩れそうになるのを、顔を下に向けて誤魔化す。
胸の奥で転げ回りたい衝動が暴れる。
――これはもう、誤解の余地がない。
婚約を解消できないことへの後ろめたさは、もちろん消えてはいない。それでも、目の前で繰り広げられるこの甘やかな空気を前にすると、どうしても別の感情が勝ってしまう。
(……ごちそうさまです)
心の中でだけ、深く感謝した。
♢
それから、数日たった日のこと。
朝の柔らかな光が差し込む廊下を、エレオノールはルイと並んで歩いていた。フォルタの資源に関する情報を、定期的に彼へ共有するためだ。
「エレオノール、セレスティエ川流域の――」
ルイが話し始めた、そのときだった。
「兄上!」
弾んだ声が空気を切り裂く。
振り返ると、小走りで近づいてくる少年の姿があった。光を受けてきらめく金髪と、まだ幼さの残る顔立ち。ルイの弟、ジョエルである。
彼は後ろからルイの肩に抱きついた。
「ジョエル。重い」
軽くたしなめながらも、その声音には隠し切れない甘さが混じっている。
「ごめんなさい。兄上をお見かけしたら、つい」
そう言って彼は兄の腕に自分の腕を絡め、甘えるように見上げた。その仕草は年下の愛らしさに満ちている。
「あれ? 兄上、お疲れではありませんか? きちんと休まれてます?」
「……少し夜更かしをしただけだ」
「無理はなさらないでくださいね」
微笑む様子に、エレオノールの内心では別の感情が弾けていた。
(これは……強い)
保護欲を刺激する存在、その典型のような振る舞いだ。
「義姉上もご一緒でしたか」
ようやくこちらに気づいたジョエルが、丁寧に礼を取る。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、ジョエル殿下。――それより、まだ義姉ではありませんわ」
「そうでしたか?」
くすりと笑う仕草がまた愛らしい。
王妃の座に未練はない。だが、この少年と家族になれないことだけは、ほんの少し惜しいと感じてしまう。
やがてジョエルはルイに耳打ちをし、軽やかにその場を離れていった。
その背中が角を曲がろうとしたとき。
向こうから歩いてきたヴァレルが、ジョエルを目に入れた、その刹那。
ヴァレルの表情から、笑みだけが抜け落ちた。
その顔が、胸の奥に小さな引っかかりを残す。
「どうかしたか?」
ルイの声に意識を引き戻される。
「いいえ、なんでもありません」
答えながらも、違和感はすぐに霧のように薄れていった。
(……気のせい、ね)
そう結論づけるしかなかった。
――それが、もっとも厄介な相手に主導権を渡すことになるとも知らずに。




