折るか、残すか
放課後の廊下に、切羽詰まった声が走った。
「待って、エレオノール!」
呼び止められて振り返ると、裾を翻しながら駆け寄ってくるハルカの姿が目に入る。頬にうっすらと赤みが差し、呼吸もわずかに乱れている。
今日の授業もまた、モーリスではなくルイが代役を務めていた。エレオノールは開始を待たず席を外したのだが、案の定というべきか、彼女はこうして追ってきた。
「どうしたの?」
足を止めて問いかけると、ハルカは息を整えきらないまま言った。
「なんで、二人きりにするの」
声音に混じるのは、はっきりとした戸惑いと焦燥。エレオノールはその響きを拾いながら、首を傾けた。
「二人きりって……モーリスじゃないなら、私が残る理由はないでしょう?」
目的はモーリスとの恋愛フラグを折ること。だがハルカは引かない。
「で、でも……こっちのフラグも折らないといけないんじゃないの?」
「殿下との?」
問い返しながら、エレオノールは眼鏡の位置を指先で整える。その仕草の裏で、思考はすでに結論へと収束していた。
「考えたのだけど、そこは手を出さなくてもいい気がしているの」
「どうして?」
思わず大きくなる声。廊下に響いたそれを、エレオノールは静かに受け止める。
「もしハルカが殿下と一緒にいること自体が負担なら、別の方法を考えるわ。でも……嫌ではないのでしょう?」
核心には触れない。だが逃げ場も与えない問い。
「い、嫌ってわけじゃ……」
案の定、言葉は途中で途切れる。視線が落ち、指先がわずかに迷う。
――やっぱり。
彼女の感情を、こちらから言葉にしてやるつもりはない。それは優しさでもあり、同時に必要な距離でもある。自分がルイの婚約者である以上、その一線を越えることは、二人に余計な重荷を背負わせるだけだ。
ならば、選ぶべき道は一つ。
急がせないこと。
今はまだ、感情を確かめる時間であって、結論を出す段階ではない。
「とにかく、今は授業に集中して。聖女の力を扱えるようになる方が優先よ」
そう言いながら、くるりと彼女の身体を教室の方へ向ける。そのまま背を軽く押した。
ハルカは振り返り、何か言いたげに唇を開きかける。だが結局、言葉にはならないまま頷いた。
やがて扉の向こうへ消え、静かに閉まる音が廊下に残る。
それを見届けてから、エレオノールはゆっくりと踵を返した。
さて、と内心で切り替える。
向かう先は、モーリスがいる教室だった。
途中、廊下の奥から聞こえてくる笑い声に、足が止まる。
軽い調子の声に、一つだけ上ずった声があった。そちらに足を向けると、壁際に追い詰められた女生徒と、その前に立つヴァレルと数人の男子たち。
逃げ道を塞ぐように、ヴァレルは片手を壁についている。
「そんなに怖い顔しないで。少し話すだけ」
女生徒は首を横に振って、逃げようと試みる。
しかし、後ろには壁。横には取り巻きの男子。前にはヴァレル。
逃げ場がなかった。
割って入るべきか状況を見極めようとした、その一瞬の間にヴァレルの手が動いた。
逃げようとした女生徒の手首を軽く――確実に捕まえる。
「ほら。すぐ終わる」
拒否の余地を与えない声。
エレオノールはゆっくりと、一歩踏み出した。
「その手、離しなさい」
ヴァレルたちが振り向く。相手がエレオノールだと分かると、その場の空気が変わった。
ヴァレルは試すような視線をこちらに向ける。
数秒、エレオノールがその目を逸らさないでいると、ゆっくりと指が離れていった。
誰かが舌打ちをした。
「いくぞ」
ヴァレルの声に、男子たちはエレオノールの横を通り抜けていく。
「興が冷めたな」
「余計なことを」
王太子の婚約者とはいえ、ここはレガリアだ。
フォルタの王女を快く思わない者がいることくらい、知っている。
すれ違いざまに投げられた声を無視して、女生徒の元へ寄った。
「怪我はない?」
「……エレオノール様……大丈夫です。ありがとうございます」
今にも泣きだしそうな表情に、胸が痛くなる。
また彼らに絡まれるかもしれないと思うと、放っておけなかった。
彼女を人通りの多い場所まで送り届けてから、学院の奥まった一角へ早足で向かう。
――同じようなことが、ハルカに向いたら。
自分が四六時中そばにいられるわけではない。
ならば、危険なときにハルカ自身が逃げられる手段が必要だ。
そこで頭に浮かんだのが、あの青い指輪だった。
近づくにつれ、鼻をかすめる薬品の匂いが濃くなる。
彼が特別な許可を得て、研究室として使っている教室。見慣れた扉の前で足を止め、軽く指先で叩く。
返事はない。
「モーリス? 入るわよ」
断りを入れてからノブを回すと、扉の向こうでは彼が黒板に向き合ったまま、ひたすらチョークを走らせていた。
乾いた音が途切れない。
黒板はすでに余白を失い、円環や記号、数式にも似た魔法式が幾層にも重なっている。内容は理解できない。それでも、その密度と執念だけは否応なく伝わってくる。
完全に没入していて、こちらの存在に気づく気配はない。
エレオノールは足音を忍ばせ、後方の椅子へ腰を下ろした。しばらくは、チョークが黒板を削る音だけが空間を満たす。
やがて。
ふとした拍子にモーリスが振り向いた。
そして、視界に入った存在に反応する。
「っ!」
肩が跳ねる。次の瞬間には、体勢を崩しかけて本気でよろめいた。
あまりにも見事な驚き方に、エレオノールは思わず吹き出す。
「い、いつから……!?」
狼狽の色を隠しきれない声。普段の冷静さとの落差が際立つ。
「ごめんなさい。あまりにも集中していたから、邪魔するのもどうかと思って」
笑いを堪えながら立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。
黒板の前に立つと、その圧迫感に改めて息を呑んだ。
「……壮観ね」
埋め尽くされた式の群れ。規則と混沌が同時に存在しているような異様な光景。
モーリスはチョークを置いて答える。
「聖女の魔道具を作るための試算です」
そして、こちらへ向き直る。
「それで、ご用件は?」
視線を受け止めながら、エレオノールは話題を切り出した。
「ハルカの授業、しばらくは殿下が担当するのね」
「ええ。魔法の基礎範囲ですので」
簡潔な返答の後にわずかな間が挟まれた。
「……私が指導に戻った方がよろしいですか?」
珍しく相手の意向を探る言い回しに、エレオノールは軽く肩をすくめる。
「その必要はないわ。今のままで問題ないでしょう」
即答してから、視線を細める。
「それよりも――」
本題に入る。
「ハルカの指輪について、考えていることがあるの」
「外すことは不可能です」
間髪入れずの拒否。予想通りの反応だ。
「そこは理解しているわ。そうではなくて」
声を落とし、言葉を選ぶ。
「……別の魔法を重ねて付与することはできるかしら?」
その一言で、モーリスの表情がわずかに変わる。
問いの意味を測るように、静かな視線が向けられた。
「どういう意図ですか?」
エレオノールは近くの椅子を引き寄せ、音を立てないように腰を下ろした。木の脚が床をかすかに擦る。その気配に合わせるように、モーリスも椅子を動かし、彼女の隣へと腰を落ち着ける。間には一席分の余白を残すあたり、いかにも彼らしい。
「ハルカの側から移動できる手段があればと思って」
静かに切り出すと、モーリスの視線がわずかに揺れた。問い返しはない。促されるように、エレオノールは続ける。
「今の仕組みは、彼女を逃がさないための拘束具に近いでしょう?」
机の表面を指先でなぞりながら、言葉を慎重に積み重ねる。
「でも、もし聖女自身が危険な状況に置かれたらどうするのかしら。逃げるべき場面で、それが許されないとしたら――」
そこでようやく、モーリスの目がはっきりとこちらへ向いた。
「退避したくてもできない。そういう局面は、これから先、十分にあり得ると思うの」
彼はすぐに返答を寄越さなかった。顎に手を添え、思考の奥へ沈んでいく。
エレオノールも口を閉ざす。
原作通りでなくとも、事故や襲撃が起こる可能性はある。
モーリスの指先が、机の上で止まった。
思考がかみ合っていく気配がする。
「聖女側からの転移……少し時間をいただけますか」
言い終えると同時に立ち上がり、黒板の前へ戻る。チョークを握り直し、すでに埋め尽くされた式の隙間へ、新たな理論を差し込んでいく。
乾いた音が再び室内に満ちた。
エレオノールはその背中を眺めながら、別の思考へと意識を滑らせる。
ヴァレル・ブロイ。
先ほどの光景を思い出し、組んだ両手に力が入る。
後ろへ撫でつけた赤髪に鋭い眼差し。学院でも目立つ存在であり、軽薄な色男として知られている人物だ。
ハルカから聞いた話では、彼と聖女の関係は軽い口説きから始まる。原作の聖女は当然なびかない。だがある事件で彼が負傷し、それをきっかけに距離が変わる。癒やしと励ましを受ける中で、彼は遊び人の仮面を脱ぎ、一人の女性へ真剣に向き合うようになる――王道といえば王道の展開。
けれど。
……攻略対象たち、怪我しすぎでは?
内心で思わず突っ込みが浮かぶ。
聖女が治療できるからといって、都合よく危機が発生しすぎている。
ハルカはそこまで危なっかしい性格ではないし、学院の安全管理に疑問を抱きたくなる頻度だ。
もっとも、その違和感は今は横に置いておくべきだろう。
問題は別にある。
笑いながら、女生徒の手首を掴んだ男の顔。
――狙った相手は逃さない。
噂じゃ、ない。
「理論上可能です」
モーリスの声が思考を断ち切った。
顔を上げると、黒板に向かっていた手は止まり、式の追加も終わっているらしい。
「既存の構造に手を入れる必要がありますので、一度、指輪を外していただきます」
エレオノールは立ち上がる。
「できるだけ早くお願いしたいのだけど」
「制御用の予備環があります。仮の接続なら今日できますので、今から向かいましょう」
躊躇はなかった。モーリスはすぐに歩き出し、教室へと向かう。その背を追いながら、エレオノールも足を進める。
扉を開けると、室内の視線が一斉にこちらへ向いた。
授業の最中だったらしく、ルイは教壇の前に立ち、ハルカは机に向かっている。突然の来訪に、どちらも顔に困惑を浮かべていた。
「少しよろしいでしょうか」
モーリスが短く告げ、事情を説明する。授業は中断され、彼はハルカの前へ移動した。
呪文を唱えると、ハルカには決して抜けなかった指輪が、管理者であるモーリスの術式にはあっさりと従った。
「改良には時間が必要です。その間はこちらを」
モーリスが取り出したのは、ハルカが着けていたものとほとんど同じ指輪だった。
「機能は今までのものと変わりません。元の指輪はこちらで預かって、聖女側からも転移を起動できるよう術式を追加します」
用意の良さに呆れを覚えながらも、エレオノールは別の着想を口にする。
「強制転移の行き先って、あなたのところなのよね?」
「ええ」
「もし研究の最中に彼女が飛ばされてきたら? いろいろな意味で危険ではなくて?」
その瞬間、ルイの目が鋭く見開かれた。
モーリスはわずかに沈黙し、やがて口を開く。
「可能性は否定できませんが……ではどうしろと?」
「私のところに来るようにはできない?」
「あなたの元へ?」
「ええ。王太子の婚約者の居場所なら、問題視されることもないでしょう」
だが、そこへルイが割って入る。
「それなら、私の方が適任ではないか?」
ほんの少し、踏み込んだ声だった。
だが、間髪入れずにハルカから返された言葉が、空気を凍らせる。
「嫌です!」
ルイは理解が追い付かず、遅れて動揺が浮かぶ。ハルカも我に返ったように口元を押さえるが、続く言葉が見つからない。
微妙な沈黙を断ち切ったのはモーリスだった。
彼は胸ポケットからもう一つの指輪を取り出す。
「こちらが、もともと私が管理していた対の指輪です」
「これが?」
「ええ。現在の術式では、こちらから聖女を呼び寄せることができます。改良後は逆に、聖女側から起動した場合も、この指輪の場所が転移先になります」
「つまり、これを私が持てば、ハルカが逃げたいときは私のところへ来られるのね」
エレオノールはそれを受け取り、光にかざす。銀色が静かにきらめく。中指に通すと一瞬だけ緩さを感じたが、たちどころにぴたりと馴染んだ。
もちろん、この指輪があれば今までと同じように、こちらからハルカを呼び寄せることもできる。だが、そんな使い方をするつもりはない。
欲しいのは、彼女を縛るための力ではなく、彼女自身が逃げるための選択肢だ。
「後日、改良版とともにこちらも更新します」
ちょうどそのとき、夕刻を告げる鐘が鳴り響いた。
授業は終了となり、四人は教室を後にする。
廊下に出ると、ルイの歩調は重く肩も落ちていた。
エレオノールはその隣に並び、静かに声をかける。
「ハルカの言葉は、殿下そのものを拒んだわけではありません。――どんな状態でも転移が発動する、その仕組みの方です」
その言葉に、ルイは言葉を失い、視線を落とす。
「……配慮が足りなかったな」
「そこまで気に病む必要はありません」
前方を歩く二人を眺めながら、穏やかに言い添える。
「彼女は、あなたを嫌っているわけではないのですから」
「そうなのか……?」
まだ確信が持てない様子に、エレオノールは小さく笑う。
「突然二人きりになれば、誰だって緊張しますわ」
ちらりと視線を向ける。
「特に――殿下がお相手ならなおさら」
二人には、婚約者――つまり自分という枷がある。
その枷を少し緩めるくらいなら、これくらいの後押しはいいだろう。
ルイの足が止まる。
「エレオノール……」
呼びかけに、彼女はただ静かに微笑むだけで、それ以上は語らない。
前方でハルカが振り返った。
エレオノールは軽く足を速め、そのもとへと駆け寄る。
夕暮れの廊下に、四人分の影が長く伸びていた。
その影が、同じ方向を向いているとは限らない。




