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第8話 黒海の薔薇


 生き残った敵は蜘蛛の子を散らすように去っていく。

 静寂が戻ると、護衛してた者達が寄って来る。


「有難うございます。あなた方は……」


 その時、馬車の扉がゆっくり開いた。

 血煙の漂う空間に、華やかなドレスが現れた。戦場には似つかわしくない青いドレスをまとっていた。ドレスの主は不思議なほど落ち着いて見える。恐怖で震えている様子がない。周囲の護衛達が頭を下げると、バルクが丁寧に声を掛けた。


「お怪我はありませんでしたか?」

「あの者達はもう……」

「大丈夫です。これでしばらくは襲って来ないでしょう」


 婦人は安心したようにバルクを見た。クイナは思わず目を丸くした。泥だらけの街道なのに、青いドレスだけが落ちた空の欠片みたいに見えた。


「……黒海ってのは、あんな女までいるのか」


 婦人は周囲の屍を見ると、一瞬だけ眉を動かした。


「助けていただいたのですね」


 その静かな声に、バルクは目を細めた。肝の据わった女子だ。

 婦人は青いドレスの裾をつまむと、御者の用意したステップを降りようとする。バルクは手を差し伸べた。その時は誰も知らなかった。後に、それが全ての始まりになる事を。


「私はラウラ・アレクシアと申します」

「ラウラ・アレクシア?」

「ご存知でしたか?」


 バルクが口を開く前に、クイナが吹き出した。


「おいおい、冗談だろ。黒海の港を半分動かしてるっていう大商人じゃねえか」


 クイナが口笛を吹いた。


「へえ、そんな大物だったのか」


 ラウラは困ったように笑い、表情を和らげる。


「危ないところを、有難う御座います」


 婦人は黒海で交易を営む商人だと名乗った。出先から館に帰る途中のようだ。そしてあの追っ手達は夫人と敵対する者の手下ではないかと言う事であった。


「貴方のお名前は?」

「バルクだ。アルクイの傭兵だ」

「あら、やっと名乗ってくださいましたね」


 ラウラは笑った。


「旅先で名乗らぬ殿方には困りますから」


 バルクは苦笑して頭を下げる。


「ユキ、降りていらっしゃい」

「…………」


 幼い少女が馬車から顔を出し、そっと降りてきたが、見知らぬ男達を見ると警戒するようにラウラの服を掴んで後ろへ隠れてしまった。そして小さな顔だけがドレスの影から覗いた。

 青とも緑ともつかない不思議な瞳が、じっとバルクを見ていた。


「……お馬さん」

「ん?」

「すごく大きい」

「なんだ、俺ではなく馬の方か」


 ラウラは笑いながら再びバルクに向き直り、


「お礼をしたいのですが。もしよろしければ今から私の館にいらっしゃいませんか?」


 婦人の館は此処から東に少し走った、黒海に面した所だと言う。

 クイナはすでに笑っていた。


「隊長、断る気じゃないですよね?」

「当たり前だ。命を救った礼を断るほど、俺たちは裕福じゃない」


 ラウラはその言葉を聞いて、なぜか小さく笑った。


「なるほど……では、お礼も遠慮なく受けていただけそうですね」


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