第69話 ミネリマーフの死
話を黒海の館に戻そう。
安兵衛は娘に「ユキ」と名前を付けていた。雪のように肌の白い子だとの意味を知って、たいそう喜んでくれたミネリマーフだったのだが、既に病に倒れ、帰らぬ人になろうとしている。病の床でミネリマーフは安兵衛の手を取り、
「ヤスべ様、私は貴方と一緒になれて幸せでした」
「…………」
安兵衛もミネリマーフの手を握り返す。
「ミネリマーフさん」
「ユキをよろしくお願いします」
安兵衛は最後まで妻の呼び方を変えなかった。ふたりは出会いからずっと互いを尊敬しあい、安兵衛はミネリマーフさんと呼んでいた。
そしてユキはもう十二歳になっている。ラウラの館を訪問した時は、庭で共に遊ぶラウラになついているようだ。
ラウラが聞いて来た。
「ヤスべ様、私と一緒に住みませんか?」
大きな瞳で見つめて来るラウラに、
「ラウラさん、私の妻は今もミネリマーフです」
「……ミネリマーフさんがうらやましい……」
返事を聞いたラウラは、そう呟いて寂しそうに笑った。
今では頭髪もすっかり白くなってしまった安兵衛の傍にユキが居る。
「お父様、何を書いていらっしゃるのですか?」
「これか、これはな……」
安兵衛によって書かれているものは碑文であった。自らの墓に書かせようというのである。
「今は何処にいらっしゃるか分からないのだが、私の大事な、最も信頼している方への手紙なのだよ」
「え、どこにいらっしゃるか分からないって、そんな手紙を、いつどうやって渡すのですか?」
「はっはっはっ、そうだな。それは難しい質問だ」
好奇心旺盛なユキは食い下がった。
「……ここに書かれている文字は、どういう意味なのですか?」
「ここに書いた文字の意味は……、殿、またお会いしましたなと言っているのだ」
「殿?」
「そうだ、殿だ」
いつの日か殿はきっとここにいらっしゃるに違いない。そしてこの碑文を読まれる――そう確信しながら、彼はその後もモルダビアの地を離れることなく生涯を終え、ミネリマーフの眠る墓の横に埋葬された。
墓には安兵衛の願い通りに碑文が刻まれていた。
「TONO MATA UOAISIMASITANA YASUBE」
碑文はオランダ式ローマ字で書かれていて、お会いという言葉が、うお会いになっていた。
ラウラは残されたユキを養子として引き取り、生涯独身を貫いた。ユキはラウラの指導を受け、商人としての才能を開花させてラウラ・アレクシア家の後を継ぐ事になる。
こうして安兵衛の時代は終わった。
しかし彼が残したものは、ユキへ、ラウラへ、そして後の世へと受け継がれていく。
そして、その墓碑を読む者が現れるまで、さらに長い時が流れた――。




