第61話 コンスタンチノープルを脱出する
安兵衛は館で侍女を遠ざけ、ミネリマーフとふたりだけになると話し出した。
「ミネリマーフさん」
「はい」
「もう宮廷に私の居る場所は有りません」
「…………」
ムラト3世が崩御された後、安兵衛は体調不良を理由に、館に閉じこもってしまっている。実質的には年老いた大宰相ソコルル・メフメトの取り巻きが実権を握り始めたオスマン帝国である。
やがて苦言を呈した大臣が処刑されるなど、宮廷内は混乱を極めた。能力のない取り巻きが増え、彼らが安易に始めた対ヴェネチア戦争は報復を招いてしまう。ダーダネルス海峡はヴェネチア海軍に封鎖される事態となる。
「ヤスべ様」
「はい」
ミネリマーフが安兵衛に思いを打ち明けた。
「モルダビアに参りませんか?」
「モルダビアに?」
ミネリマーフはオスマン帝国を離れ、ふたりでモルダビア公国に行こうと言うのだった。やがて軍団への課税を試みた新大宰相に対し、イェニチェリが蜂起する。帝国の首都コンスタンチノープルは混乱の極みに達した。もはやヤスべの事など誰も気にしていなかった。
「ミネリマーフさん、モルダビアに行きましょう」
ミネリマーフと安兵衛のふたりが持つ宝石や金貨などを合わせれば、モルダビアでも当分の間暮らしていけるだろう。すぐに侍女と召使に話すと、私たちも連れて行って欲しいと頼まれた。
「分かりました。連れて行きましょう。それからあなた方はもう奴隷では無いのですから、下を向いて話をしないで下さい」
オスマン帝国で奴隷は主人の顔を見てはいけないとされている。話をする時も下を向いたまましなければいけないのだ。
すぐに馬車を用意して出立したが、ここで問題が起きた。帝国の内乱が原因で、国境付近の治安が悪くなっているらしい。
安兵衛は皆に言った。
「私は船を探してきます」
黒海を船でモルダビアまで直接行けば、陸路ほどの危険は無いだろう。
安兵衛はすぐ港でモルダビアまで行く交易船を探したのだが、適当な船が見つからない。時期が悪すぎる。不審者とみなされ、乗船はどの船からも敬遠されてしまった。仕方なく見つかるまではと、港の安宿に泊まり、乗せてくれる船を見つける事にした。
何日も探し続けていたある日、
「旦那」
「ん?」
「旦那に会いたいと言う男が来てますぜ」
宿の使用人が声を掛けて来た。
会ってみると、
「ヤスべ様ですね」
「…………」
安兵衛は用心した。めったな事はないと思うが、今は自分ひとりではない。妻と幼い娘まで連れている。面倒事は避けたいのだ。
「モルダビアに行く船なら御座います」
「…………」
男の物腰は丁寧であったが、安兵衛はまだ用心していた。安兵衛がモルダビアに向かう船を探しているという話を、男は港で聞いたというのだ。男が何故自分の名を知っているのか気になった。だが、スルタンの側近として戦場を渡り歩いた以上、名を知られていても不思議ではない。男の素振りに怪しい処はないと直感したし、これ以上待っても船は見つからないかもしれない。最後の機会かもしれない。罠であったとしても、このまま港で立ち往生するわけにはいかなかった。安兵衛は乗る事にして、侍女たちを含め皆を呼んだ。
船は三本マストの一際大きなキャラック船で、乗り込むと先ほどの男が声を掛けて来た。
「ヤスべ様、こちらに」
男が後部のキャビンに案内をするというではないか。そこは船主や船長などの居住空間だ。いぶかる安兵衛は、どうぞお入り下さいと促され入ったのだが、
「――――!」
「ヤスべ様、お久しぶりで御座います」
そう言ってにこやかに立っていたのは、
「ラウラさん」
ヴェネツィア商人の娘、ラウラ・アレクシアだった。
ラウラは微笑んでいる。
「ラウラさん……なぜここに?」
「そのお話は、船が出てからに致しましょう」




