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第60話 ムラト3世の死


 先の戦から三年後、ムラト3世は再び号令を発した。

 第二次ムガール侵攻である。

 今回の目標は赤い城と呼ばれているデリー城だ。前回攻略したラホール城から約四百キロほど南に下った、現在のニューデリーだ。ムガールは相当なダメージを負ったのか、制圧されたラホール城にも反撃して来なかった。

 コンスタンチノープルから出陣の日、安兵衛を見送るミネリマーフの足元には、幼い娘も立っていた。


「ヤスべ」

「はい」


 オスマン軍の陣容は、前にも増して充実している。


「この戦で、一気に片を付けるぞ」


 ムラト3世は上機嫌だった。日本からはさらに新しい連発銃と弾丸が送られて来ている。オスマン軍の優位は明らかだと思われたのだ。

 ついにオスマン帝国軍はデリー城に近づいたのだが、ムガール軍は城に立てこもったまま、出てこようとしない。城壁を相手には、さすがの連発銃も出番が無く、大砲を城壁の一点に集中して猛砲撃を加えた。

 ムガール軍も城壁の上から砲撃して来るのだが、狭い場所であまり多くの大砲は置けない。オスマン軍の砲撃の方が圧倒的な量だ。連日の砲撃で、ついに城壁が破壊され、後はいつもの惨劇が待っている。

 だが、ここでもムガール皇帝アウラングゼーブを取り逃がした。ムガール軍はここから二百キロ南方に軍を集結させ、最後の決戦を図っているという報がもたらされた。

 しかしオスマン軍にも問題があった。敵軍を追撃する前に、補給体制の立て直しを迫られていたのである。


「荷がまだ届いておりません」

「…………」


 第一次ムガール遠征でも噴出したのだが、今回は戦場がさらに遠くなっている。輜重隊が届くまでに数カ月を要するのだ。問題はその輜重隊自身の水や食料が馬鹿にならない。途中で襲われる危険を考えると、護衛兵士の数をむやみに減らす訳にはいかない。するとさらに運ぶ物資が増える。急いでいるから、途中で現地調達などとは言っていられない。

 さらに、慣れない土地で気候が合わず、熱病に冒されたり、食事で身体を壊す者も出る。するとそれらの者を介護する必要が出て来る。これらは遠征を仕掛ける者にとって、敵以上に厄介な相手である。戦闘で倒れる者以上に、戦列を離れざるを得ない者が出て来るのだ。


 ムラト3世がすぐ軍を再編させ進軍を命じると、ムガール軍も必死の抵抗を試みた。数では国内の全軍が集結したムガールの方が勝っているかもしれない。騎兵と象兵の全てが投入され、オスマン軍対ムガール軍の歴史に残る大決戦になった。

 ムガール側も連発銃の威力を知って、その対策を講じてきた。密集陣形を止め、広範囲からの攻撃に徹した。出来るだけ連発銃の被害を少なくしようとするのだが、やはりその射程距離はとんでもなく長かった。オスマン軍に到達する前に騎兵や象兵などは倒されてしまう。

 両帝国軍の戦いも、ここで勝敗が決した。ムガールの敗残兵が逃げ込んだ二十キロほど東に位置する最後の城も落ちた。ムガールの先帝シャー・ジャハーンは、亡き愛妃の眠るタージ・マハルを眺めるこのアーグラ城に幽閉されていた。長女のジャハーナーラー・ベーグムは親身になって世話をし続けていたが、オスマン軍によって救出される。

 インドの地はオスマン本国とは風土も文化も異なる。人心を得る事も、統治も難しいとムラト3世は感じ始めている。ならば幽閉されていた先の皇帝を助けて、民衆の支持を得る道が有るではないかと考えていたのだ。直接統治ではなく、先の皇帝を支持する間接的な統治の方が良いのではと。


 執拗に抵抗を続けていたムガール皇帝アウラングゼーブは、ここでついに捕らえられた。ムラト3世の前まで引きずられ、数人の副官と共に突き出される。


「…………」

「…………」


 長い戦いの末に勝者が敗者達を見下ろしている図である。アウラングゼーブは下を向いたまま無言であった。だがムラト3世は振り返ると手を伸ばす。そして太刀持ちが差し出す剣を無言で引き抜く音を聞いたアウラングゼーブの顔色が変わった。


「――――!」


 左右から取り押さえられていたムガール軍副官達の首が、その場で次々と切り落とされる。

 だが、


「うっ」


 剣を構えるムラト3世が突然うずくまったのである。驚いて駆け寄る臣下の手をはねのけると。最後にひとり残ったアウラングゼーブを、皇帝としての資格を失った者として処刑した。

 しかし、ムラト3世の供の者達が感じ始めた杞憂は現実になる。

 ここまで順調に侵攻して来たかに見えたオスマン軍に、突然暗雲が忍び寄って来た。ムラト3世がアーグラ城塞攻防中に肝硬変を発症したのだ。冬になると症状が悪化したが、一進一退の状況でも飲酒を止めなかった。


「ヤスべ」

「はい」


 ムラト3世は床に横たわったまま、安兵衛に話し掛けた。


「ヤスべ……余はここまでかもしれぬ。もはや時間が残されておらぬ。次の皇位を決めなくてはならないのだ」

「…………」


 ついにやって来た死の床で、


「このままではオスマン家が断絶してしまう。余は祖先達に顔向け出来ぬ」

「…………」


 ムラト3世には皇子も兄弟も居なかった。兄弟は後継者争いを警戒し、片端から処刑してしまっていたのだ。

 ムラト3世の時代、大宰相はソコルル・メフメトであった。皇位継承を巡る混乱を収められる人物は、老練な大宰相ソコルル・メフメトしかいなかった。

 そしてついに、ムラト3世は後継者を決めないまま崩御した。オスマン軍は皇帝の死を伏せたまま、コンスタンチノープルへの帰路についた。誰もが勝利の凱旋になると思っていた遠征は、いつしか帝国の未来を案じる旅へと変わっていた。


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