第50話 安兵衛の刀
「ヤスべ殿」
宮廷の外を歩いている時に、突然呼び止められた。
振り返ると、シェフザーデ・ヤフヤと、その副官や仲間達が安兵衛を取り囲むようにして来る。ムラト3世の皇子であるとの偽称疑惑のある者だった。
ヤフヤは地方の軍政官に任命されていたのだが、何かと理由を付けてコンスタンチノープルを離れようとはしなかった。
「これはヤフヤ様」
「ヤスべ殿、どうです、これから一緒に飲みに行きませんか?」
この頃のオスマン帝国で酒は禁止されていなかった。ムラト3世自身も好んで飲んでいた。だが安兵衛は下戸だからと断ると、
「なんだ、サムライは酒も飲めんのか。なら無理にでも飲ませるか」
「よせよせ、こいつは異教徒だ、相手にするな」
「玉座の横に居るからと、いい気になるなよ」
調子に乗って軽口をたたき始めた家臣達を、ヤフヤがたしなめる。
「よさないか」
ヤフヤは安兵衛に謝った。
「ヤスべ殿、この者達の無礼をお許し下さい」
「ヤフヤ様、せっかくのお誘いなのですが、お付き合い出来ず申し訳ありません」
安兵衛は丁寧に頭を下げると、その場を後にした。
「あの野郎、今に見てろ」
「やめろ、軽率な事を口走るでないぞ」
ヤフヤは歩き去る安兵衛の後姿をじっと見ていた。
安兵衛はまだ知らなかった。オスマンでは皇位継承の争いを避けるため、兄弟同士でさえ命を奪い合う慣行があることを。
館に帰った安兵衛は、ミネリマーフや使用人たちを退け、ひとり絨毯の上に座ると刀を前に置く。太刀の刃を上にして左手で握る。右手で柄を持って軽く鯉口を切り、ゆっくりと抜いてゆく。
龍神の力を得て作刀したとされる安綱の業物であった。
言い伝えでは、刀工安綱は凍てつく川で何度も冷水を頭から浴びると龍神に祈ったという。
「我に力を授けたまえ、我に……」
翌朝も、
さらにその翌朝も……
七日七晩、冷水を浴び続けた。
そして、ついに天に昇って行く龍の姿を見た。
響いて来る声は、
「我、汝の願い聞きとどけたりーー」
龍神が姿を現した地面には、一塊の玉鋼が残されていた。
安兵衛は手入れをした刀を抜く時と同様に、左手で鞘を、右手で柄を持つ。刃を上にして刀の切先を鯉口に静かに当て、刀身が左右に揺れぬよう鞘へ納めた。最後に鯉口を静かに押し込むと、刀は音もなく鞘へ収まった。
安兵衛をじっと見送っていたヤフヤ、そして家臣たちは、その日を境に安兵衛を敵と見るようになる。




