第49話 ムラト3世の裁定
安兵衛は一睡もできぬまま夜を明かした。翌朝、ラウラを送り出すと、すぐ宮廷へ向かった。
この話は一刻も早くムラト3世の耳に入れなくてはならない。
だが、宮廷に着くと、スルタンはまだ部屋にいらしてないと言う。このまま待たせてもらう事にした。
辛抱強く待っていた安兵衛の前に、やがてムラト3世が歩いて来た。
安兵衛は両手を前で組み、お辞儀をする。
「ヤスべ!」
ムラト3世は笑って安兵衛の肩に手を乗せると、部屋の中を指さした。
どうやら機嫌は良いようだった。
部屋に入り椅子に座ったムラト3世はすぐ宝石を取り出し始めた。構図を描いたりして、指輪などの装飾品を自ら作るという趣味を持っているのだ。
だが、安兵衛がいつまでも下を向いていると、
「どうしたヤスべ、何か悩み事でもあるのか?」
「はい、実は……」
昨夜の出来事を包み隠さず、順を追って全てを話した。キリスト教徒と会っていた事で、どのようなお咎めがあるのか分からないが、既に腹をくくっていた。ムラト3世はじっと安兵衛を見つめていたが、やがて声を張り上げた。
「誰かおるか!」
小姓が部屋に入ると、一礼をしたまま下を向いている。
「海軍大臣を呼べ」
「はい」
最初の「誰かおるか!」の声には、さすがに安兵衛も動揺した。だが、次に「海軍大臣を呼べ」と言った。首を切るのだったら、海軍大臣を呼ぶ事は無いだろう。だがムラト3世はそのまま椅子に座って、何も言わず宝石を見始める。
安兵衛はそこに立ったまま、長い時間を待たなければならなかった。
ムラト3世は宝石から目を離さぬまま口を開いた。
「ヤスべ」
「はい」
「キリスト教徒共とは二度と関わるな」
「…………」
今度は顔を上げ、
「これが最後だ。次は許さないからな」
「分かりました」
しかしムラト3世は必ずしもキリスト教徒を嫌っているわけではなかった。逆らおうとしないのなら、どんな宗教も習慣にも寛容だった。
海軍大臣がやって来ると、事件の真相を調べて報告するようにと指示が出された。再びふたりだけになると、ムラト3世は安兵衛をテラスに誘った。ボスポラス海峡を見渡せるテラスで、白い大理石の手すりに手を掛けたムラト3世は、
「ヤスべ」
「はい」
「今日そなたは正直に話してくれた。これを他の者から聞いていたのなら、面倒な事になっていただろう」
「…………」
「そなたを助ける事は難しかったぞ」
「…………」
「男と女の問題ならキリスト教徒でもかまわないがな。信用出来る者は少ない、私はそなたを失脚などさせたくないのだ。用心せよ」
「ご配慮に感謝いたします」
安兵衛のような異教徒を身近に置く事に反対する者が居る事は、ムラト3世自身も十分承知しているのだ。
「ところで、そなたの国にはイスラムもキリスト教徒も居ないと聞いているが本当か?」
「イスラムは存じませんが、キリスト教徒は少しおるようです」
宣教師が入って来て、布教を始めている日本の現状を話した。
「キリスト教徒共め」
「…………」
安兵衛は改めて思った。
ムラト3世はキリスト教徒だから嫌うのではない。帝国に逆らう者を嫌うのである。
オスマン帝国では、皇帝の妻がキリスト教徒である事は少なくなかった。ヨーロッパから連れて来られた女性がハレムに入り、皇帝に気に入られれば栄耀栄華の日々が待っている。だから必ずしも、皇帝がキリスト教徒を嫌っているという訳ではなかった。確かに改宗しなければ肩身の狭い思いはしたのだが、それでもイエニチェリなどのケースを除けば本人次第だった。
調査の結果、ラウラの弟は確かにバルバリアの海賊船に捕らえられていることが分かった。ムラト3世は海賊が帝国の利益を損なっていないか、さらに調べさせ、問題を解決させた。弟は解放され、やがてムラト3世にはヴェネツィアの商人から、安兵衛にはラウラから、無事弟が解放されたと礼状が届けられる事になった。もちろん身代金との引き換えであったのだが、ムラト3世には宝石も送られて来た。
その宝石を眺めながら、ムラト3世は静かに笑ったという。




