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第48話 ラウラ・アレクシア


 安兵衛は歩調をわずかに変えた。すると背後の足音も、それに合わせるように変わる。もう疑いはなかった。確かに何者かが後を付けて来ている。

 家並みが無くなり、林に入って来たところで安兵衛は歩みを止める。

 風がなく、小鳥の鳴き声も聞こえてこない静かな夕刻である。

 振り返ると、その者も足を止めた。


「その方、何ゆえに私の後を付ける?」

「…………」


 返事が無い。

 足元まであるマントを羽織り、頭をフードですっぽり覆っているから、顔は見えない。相手はそのまま動かずじっとしている。このまま対峙し合っていても、埒が明かない。

 安兵衛は刀の鯉口を切る。何時でも素早く動けるように全身の力を抜いて、その者に近づいて行く。ゆっくり、一歩二歩と踏み出す足の裏側まで、神経が研ぎ澄まされる。相手の身体はマントに覆われている。

 抜刀は得手でない安兵衛だが、この者が武器を取り出しても、すでにこの間合いまで近づいている。攻撃される前に切り捨てる事は可能だろう。

 だが、ここでそのマントの主が声を出した。


「ヤスべ様で御座いますね」

「ん!」


 その声……

 さらにフードを外して顔を見せると、やはり髪を伸ばした女子ではないか。夕闇の中でも、その端正な顔立ちは隠しようがなかった。

 女は言葉を続けた。


「ヤスべ様に助けて頂きたく、ここまで付けて参りました。失礼をお許し下さい」


 殺意は全く感じられない。その言葉の様子からすると、何かよほどの事情が有りそうだ。だがいつまでもこのような場所で立ち話は出来ない。


「では私の館はすぐそこです。一緒に行きましょう」

「有難う御座います」


 女はそう言って付いて来るのだった。


 館に入ると、女は安兵衛とミネリマーフの前でマントを脱ぐ。ハレムの女たちをもしのぐ、色鮮やかな衣装が現れる。部屋に幾つも置かれたローソクの灯りの前で、一瞬、その美貌に目を奪われかけたが、安兵衛はすぐに気を引き締めた。ミネリマーフの美しさとはまた違う、近寄りがたい雰囲気を漂わせた貴婦人であった。だが話しかけるその言葉からは切羽詰まった様子が感じ取れる。


「突然押しかけて申し訳ありません。父はヴェネツィア商人で、私も貿易を営んでおります。ラウラ・アレクシアと申します」

「私はミネリマーフ、ヤスべの妻です。ラウラさん、どうぞお座り下さい」


 ミネリマーフが声を掛け、椅子を勧める。オスマンの地で食事などの時は座卓でジュータンの床に日本の座布団の様な敷物を置いて座るが、壁際や窓際には長いソファ状の腰掛も用意されている。ラウラが腰掛けると、安兵衛とミネリマーフも並んで腰を下ろした。

 ラウラの話は、モスリムの海賊に積み荷を奪われた上、船に乗り組んでいた弟を人質に取られ、身代金を要求されていると言う事であった。


「管轄の行政官には訴えてみたのですか?」

「もう訴えてから半年も経つのに何も変わりません」


 安兵衛の問い掛けにラウラは顔を曇らせて答えると、さらに付け加えた。


「キリスト教徒の訴えなど、聞く気がないんでしょう」

「身代金の額は大きいんですか?」

「払えない額ではありませんが、払ったとたんに弟は殺されてしまうか、奴隷に売られてしまいそうで……」

「私の事は何故知っているのですか?」

「私は商人ですから、宮廷の外に居ても内部の事情は知るすべが有ります。特にコンスタンティノープル攻略の際の、サムライヤスべ様の活躍は商人達の間にも広まっていました」

「…………」

「お願いですヤスべ様。もう貴方様だけが頼りです」


 ラウラは泣き崩れてしまった。


「しかし、それは今すぐ解決できる問題ではありません。今日の所は話を承っておくだけにしましょう」


 もう時間も遅いので、客間に泊って頂くという事にした。だが、安兵衛とミネリマーフはふたりだけになると、互いに黙り込んでしまった。これは面倒な事になった、というのが安兵衛の偽らざる気持ちだった。


「これは面倒な事になりましたね」

「…………」


 彼女はほぼ敵国の商人の娘なのだ。ほぼと言うのは、今は未だ戦争をしていないと言うだけの事である。もしもこの事が誰かの口からムラト3世の耳に入ったら、安兵衛の首が飛ぶやもしれない。

 この状況はいくらでも捏造できる、スルタンの側近が敵国の者と密会をしていたと。そうなってしまってからではいい訳など通用しない。ぐずぐずしてはいられない。安兵衛が決意を話すとミネリマーフも同じ意見だった。スルタンに対して秘密を持つという事は、ムラト3世の信頼を裏切る事になる。いかにラウラと言う娘の切なる願いとはいえ、スルタンの許可を得ず行動することは出来ない。


「この事は明日ムラト3世に話して、指示を仰ごう」


 話し方次第では、ラウラの窮地を救う事が出来るかもしれない。



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