第47話 何者かが後を付けて来る
安兵衛の館では、庭に落ち葉が舞い始め、コンスタンチノープルにも冬の足音が近づいていた。
「寒くはないですか?」
「いえ、あなたの側ですから、ちっとも」
安兵衛と並んで散歩するミネリマーフは微笑む。いつまでも丁寧な言葉使いを変えないふたりだった。後ろから今ではもう慣れてしまったが、特に指示しない限りミネリマーフの侍女が付き従っている。
この日は珍しく安兵衛から話し掛けた。
「実は前からお聞きしようと思っていたのですが、貴女の祖国はモルダビアだったのですね」
モルダビア公国は、オスマン帝国の北上によって従属国となった。その戦で捕らえられた貴族の女性が帝国へ連れて来られ、その後生まれた娘がミネリマーフの母だった。
「私ももちろんですが、母も祖国の事は全く知らないんです」
「…………」
「今ではこの国が私の祖国のようなものです」
ミネリマーフがヤスべの顔を見た。
「ヤスべ様のお国の事も話して頂けますか」
「そうですね……」
安兵衛は話が苦手だった。特に女子とは。
「日本の女性は綺麗な方が多いと伺っております」
「いや、私には良く分かりません」
「え、何故ですか?」
しきりに日本の女性の事を聞いてくるミネリマーフに、安兵衛はたじたじだった。その時、
「ヤスべ様」
召使が宮殿から使いの者が来ていると言って来たのだ。安兵衛は正直ほっとした。
「分かった。すぐ行く」
ムラト3世がお呼びだと言って来たのだ。安兵衛は愛刀を掴んだ。
宮廷に入ると、宦官長が声を掛けて来た。
「これはヤスべ様、陛下がお待ちで御座います」
「分かりました。お願い致します」
宦官長が先に立って歩いて行くのだが、途中で大宰相と出会い会釈をした。大宰相は能力と努力次第では、低い身分の者でもその地位に上り得る。奴隷から成り上がる者も居た。典型的な能力主義で、オスマン帝国の強みはそこにあった。
時折後ろを気に掛けながらしずしずと歩く宦官長。やがて奥まった部屋の前に着いた。
「ヤスべ様です。陛下にお取次ぎを」
部屋の内外で、作法通りの所作をする者たちが居て、
「通せ」
中からムラト3世の声が響いて来た。
安兵衛は部屋に入る。さらに奥まった場所にムラト3世は居た。
手招きされ、傍に行くと、
「ヤスべ」
「はい」
「どうだ、ミネリマーフは気に入ったか?」
「はい、有難う御座います」
ムラト3世は満足げな表情を浮かべると、もっと近くに来てこれを見ろと手を伸ばして来た。その手のひらには信じられないような大きさで、赤く輝く宝石が乗っていた。
「キリスト教徒どもが持っていた物だ」
「…………」
スルタンは宝石のコレクターでもあるのだった。だが、ムラト3世はすぐ表情を変えた。
「ヤスべ」
「はい」
「これより大臣達と会議がある。付いて参れ」
「はっ」
あまり飾り気のない部屋に入ると、そこには既に数人の大臣達が並んで立っている。玉座に一番近い位置に立つのが大宰相だ。
ムラト3世が玉座に座る。
だが安兵衛が大臣達の末席に立とうとしたその時、
「ヤスべ」
ムラト3世の指が玉座の横を指さした。その指示は明かに玉座の横に立てと言う意味だ。
安兵衛は思わず足を止めた。
大臣たちの視線が、一斉に集まる。
だがすぐには動けなかった安兵衛に、
「何をしておる。常に私の傍に居ろと言ったではないか!」
「はっ」
その叱責はムラト3世の気遣いでもあった。大臣達にこの先余計な口出しをさせぬ為にも、こうして傍に来させたのだ。
会議ではバグダード侵攻の時期が議論され、続いて酒場で喫煙が横行しているとの報告が上がった。
安兵衛はもともと酒は飲まないしタバコも吸わないので、よそ事のように聞いていた。権力者から警戒されることもあったコーヒーという物も、まだ飲んだ事が無い。会議が終わると安兵衛はムラト3世の供をして、最初の部屋に戻って来た。
「ヤスべ」
「はい」
「今日はもう良い。ミネリマーフの所に帰ってやれ」
「有難う御座います」
宮廷から安兵衛の館までは、男の足なら何とか歩いて行ける距離だ。日が暮れる頃には着けるから、馬などを使う必要はない。
だが、その道すがら、安兵衛は気配を感じた。何者かが後を付けて来る。
盗人暴漢などを恐れる安兵衛ではないが、相手が誰で何が目的なのか気になった。宦官長の何か言いたげな表情と、大宰相の鋭い視線が脳裏によみがえる。それとも、自分の思い過ごしなのだろうか。
だが背後の気配だけは、消えることがなかった。




