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第44話 セイフィエ(武官階級)


 日本では戦もなくなり、平和な世が訪れたかに見えた。だが、飢饉などによる人身売買の話は後を絶たなかった。


「殿」

「なんですか」

「パイン殿が参っております」


 ムラト3世が追加の連発銃と弾薬を希望していると言う話で、再び大量の銀を預かって来たのだ。仁吉に問い合わせると、来年までにはさらに40丁くらいは出来ると言う。


「パイン殿、では出来上がりしだい届けましょう」

「有難う御座います」

「ところで、ムラト3世の次の目標はムガール帝国だとの噂ですが、本当ですか?」

「はい、そのように伺っております」


 ムガール帝国にはイングランド商人が盛んに出入りし、綿織物の交易で栄えていた。このままオスマン帝国が進出すれば、イングランドとも交易する日本の立場は微妙になる。どちらに肩入れしても、面倒な事になるやもしれない。それにムガール帝国と同じくイングランドと交易していたサファビー朝ペルシャは既にオスマン帝国によって滅ぼされている。いずれイングランドもその詳細を知るだろう。そうすれば戦いの転機となった連発銃の話が出て来るのは時間の問題だ。


「イングランドが連発銃の問い合わせをしてきたら問題ですね」

「はい……」


 秀矩から相談されたパインは頭を抱えてしまった。連発銃の件はともかく、あのムラト3世の気質を思うと、ムガール帝国攻略に異議をとなえる事は間違いなく死を意味する。現にコンスタンティノープル侵攻に反対した重臣は、処刑されているのだ。




 イェニチェリの男と対決した後、安兵衛は髷を切った。

 もう後戻りは出来ない。この地に骨を埋めようと覚悟を固めた時、ざんばら髪となった安兵衛はムラト3世に呼び出された。


「ヤスべ」

「はい」

「この者をそなたに授ける」


 そう言ってムラト3世は、横に控えている奴隷らしき女性に、ヤスべの傍まで行くようにと指示した。ヨーロッパから連れて来られたと思われる女性だ。

 澄んだ青い瞳は、日本では見たこともない美しさだった。

 安兵衛の前まで進んで来た者は、日本の女子とは容姿が全く違う。瑠璃色のドレスには様々な刺繍が施され、控えめな仕草で立っている。安兵衛が思わず息をのむほどの美しさだった。女は安兵衛の前で膝を軽く曲げて腰を落とし、頭を下げて会釈をしたが、どうしていいのか分からない。安兵衛は戦場で敵に囲まれても動じたことはない。だが、このような美しい女性を突然与えられた経験など無かったのだ。


「…………」

「なんだ、気に入らぬのか?」


 自信をもって選んだ女子であろう、ムラト3世が声を出した。


「あ、いえ」


 オスマン帝国には、さまざまな民族が暮らし、多くの言葉が飛び交っていた。安兵衛も日々、暮らしに必要な言葉を少しずつ覚えていた。しかしこの状況には、せっかく覚えた言葉が何も用をなさなかった。戸惑い、言葉が出てこない安兵衛にムラト3世は、


「ところでヤスべ、その髪はどうしたのだ?」

「はい、私はあなた様の帝国に骨を埋める覚悟を固めましたゆえ」

「…………」


 ムラト3世は満足げにヤスべを見ると言葉を続けた。


「その方の身分はこれよりセイフィエ(武官階級)とする」


 セイフィエとはイェニチェリ最高司令官と同じ階級である。家屋敷のほか、目の前に立つ女性だけでなく召使まで与えられるという。居並ぶ将軍たちは思わず顔を見合わせた。

 さらにムラト3世は言葉を続けた。


「ヤスベはこれより常に私の傍に居ろ」

「…………」

「何か言い分があるのか?」

「いえ、有難く仰せに従います」


 安兵衛はすぐムラト3世の足元にひざまずき、そのガウンの裾にキスをしようとした。この地の者達がスルタンに感謝の意を表す時の習慣を、すでに学んでいたのだ。戦場などで降伏したり負けを認めて、オスマンの配下になる事を許された国の高官などは、感謝と忠誠を示すため皇帝が羽織るガウンの裾にキスをしようとする。だがその際の待遇にも差は歴然とあり、敗軍の将としての立場を思い知らされる事となる。裾を引かれたら、首を曲げて皇帝の座る椅子の足にキスをしなければならない。

 だがムラト3世はガウンの裾を手にしようとする安兵衛を制すると、自らの右手を差し出した。安兵衛は静かにその手の甲へ口づける。

 居並ぶ将軍たちは息をのんだ。それはスルタンに最も近い者へ与えられる栄誉だったからだ。

 この日、サムライ安兵衛は、オスマン帝国の武官ヤスべとして生まれ変わった。安兵衛と共に来た侍たちも、正式にイェニチェリの一員へ組み入れられた。


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