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第4話 チェスと北へ

 倒れた机の傍に、小さな木刀が転がっている。

 幼い頃に使っていた木刀が目に入ってきたのだ。安兵衛が「商人でも身体は鍛えろ」と言って持たせていた木刀である。荒らされた机の引き出しが開き、中身が床に散乱していた。その中に幼い頃の木刀が転がっていたのだ。ただ、それを見た瞬間、父の声が不意に蘇った。


「ユキ、立てるか」


 泣きながら転んだ幼い自分に、父が笑って手を差し伸べていた。泣いていた幼い自分は、父の手を取って立ち上がった。あの時立てたのなら、今ここで座ったままでは終われない。

 だが、立ち上がったところで、何が残っているのだろう。

 残っていない。

 それでも――座ったままで終わる訳にはいかなかった。

 ユキは木刀を拾い上げた。幼い頃の手には大きかったそれが、今では片手で軽く持てた。ゆっくり息を吸うと、開かれた隠し部屋の中へ歩いて行く。

 そこには父安兵衛の形見である刀があった。

 ユキが刀を取り出し、柄を握った瞬間、幼い頃に父の大きな手が自分の手を包んだ記憶が蘇った。


「これはな、お前を守る刀だ」


 今の自分には、もう父はいない。ラウラもいない。ならば残されたものを持って行くしかなかった。

 刀を腰に差すと、震えていた指がいつの間にか止まっていた。父から剣術の手ほどきを受けてはいたが、まさかこんな事で刀を腰に差す時が来るとは思わなかった。後は元通りに壁を戻して外に出た。

 厩舎には、父が残した栗毛馬が一頭だけ残っていた。両頬に流れていた涙をぬぐうと、馬をなで、その首を抱き語り掛けた。チェスと名付けていたその馬が首を曲げ、鼻先でユキの肩を軽く押した。

 ユキは小さく笑い、


「みんな行っちゃったわね」


 チェスはまた鼻先を押し付けてきた。


「……そうね、あんたはいる」


 そう言ったあと、ラウラの言葉が胸に蘇った。


 ――お前を救うのは、人だよ。


「チェス……違うわね」


 ユキはチェスの首を撫でた。


「おば様に叱られる」


 ――お前を救うのは、人だよ。


「まだ終わってない」


 チェスはユキを乗せ、北へ駆けた――

 もう帰る場所はない。

 ベンダーにいるというバルク。今のユキに残された道は、それだけだった。

 背後で黒海は夜に沈んだ。

 ユキは振り返らなかった。

 振り返れば、もう歩けなくなる気がした。

 チェスは夜明けへ向かって走る。

 その時のユキは、まだ知らなかった。

 失ったこの日こそが、自分の航海の始まりだったことを。


 ベンダーへ向かう道中、ユキはふと幼い日のことを思い出していた。

 まだ港を眺めているだけだった頃の自分を……


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