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第3話 丘に立ち上る煙

 すぐ船を降り、馬を急がせ丘に向かう。ユキの駆けて行く脇を、暴徒達が奇声を上げすり抜けて行く。館に着く頃には次第に嫌な予感がして来る。馬を飛び降り、館に駆け込むと、内部は暴徒に襲撃された後で、荒らされて足の踏み場もない。


 倒れた椅子。


 割れた皿。


 壁に飛び散った血。


 ラウラの好きだった花瓶が砕けていた。


「……おば様?」


 返事は無かった。


「おば様!」


 手遅れだった。広間に血を流し倒れているラウラを見つける。


「おば様!」

「ユキ……」

「おば様、しっかりして」

「ユキ、私は……もう助からない」


 ユキはラウラを抱き寄せた。


「……いいかい、今から言う事をよくお聞き」


 ユキの肩を掴んだラウラの手が血に染まっている。


「ベンダーへ行きなさい……バルクを探して……あの人は……昔、私が助けた男……」

「バルク?」

「ユキ……覚えておきなさい……」

「…………」

「最後にお前を救うのは……人、だよ……」


 ラウラの指が肩から滑り落ちた。


 外では怒鳴り声がしていた。荷車の車輪が石畳を鳴らしていた。誰かが笑った気さえした。


 どうして世界は止まらないのだろう。


 この部屋だけが、止まっていた。


 そして――


 ラウラの唇は、もう二度と動かなかった。

 ラウラの身体には、まだ人の温もりが残っていた。ユキはラウラの胸に顔を埋めた。もう小言を言われることも、食事を心配されることもない。


「朝を抜いたんですって?」


 数時間前に聞いたばかりの声が、耳の奥で勝手に蘇った。そんなはずはないのに。だが、ようやく理解し始めたその現実を、心が拒絶していた。

 ユキはラウラの肩を揺すった。

 返事はない。頬に触れた指先から、少しずつ温もりが消えていく。それが何を意味するのか、分かっているのに理解したくなかった。広間は静まり返っていた。窓の外では港の怒号が次第に近づいていた。館の外で誰かが駆ける足音が響いたのだ。

 そして、背後から召使の悲鳴が――


「ユキ様!」

「何?」

「船が……」

「……船?」

「パルパテチオ号が奪われました!」

「えっ」


 バルコニーへ駆け寄り港を見るユキは息を止めた。

 パルパテチオ号が帆を膨らませ、桟橋を離れて行くではないか。


 嘘。


 なんで。


 あれは私の船だ。


 お父様の――


 おば様の――


 ラウラ家のように裕福そうな商家は、暴徒達にとって格好の獲物だった。そして暴徒を煽っていたのは没落した競争相手の商人達でもあった。館だけでなく港も既に占拠され、桟橋に繋がれた船までも標的になっていたのだ。港のあちこちで怒号が飛び交い、水夫たちが銃や短刀を突き付けられていた。帆柱に掲げられていたラウラ家の旗が、乱暴に引き剥がされていた。あの船には父との思い出も、おば様との時間も積まれていた。それだけは奪われてほしくなかった。


「待って!」


 階段を駆け下りた。

 だが門の外では暴徒が溢れ、誰かが倒れ、銃声が響いた。

 足が止まった。

 ユキは何か言おうとしたが喉の奥が詰まり、胸だけが苦しく締め付けられる。

 突然襲って来た騒動に、ユキは呆然としていた。ラウラを失ったばかりなのに、今度は船まで奪われた。ユキはラウラの傍まで戻って来ると、その場に座り込んだ。立ち上がろうとしても脚に力が入らない。何も考えられなかった。ただ窓から差し込む夕日だけが、ゆっくり床を赤く染めていった。

 夜になるまでユキは動けなかった。窓の外が赤から群青へ変わる頃、召使達が震えながら灯りをともしてようやく我に返った。いつまで嘆いていても始まらない。召使に手伝わせてラウラの遺体を運び、父と母が眠る墓の傍に埋葬する。これで家族と呼べる人は、皆そこに眠ることになった。かろうじて難を逃れた召使達にいくばくかの給金を払うと、後にはユキひとりが残された。

 書斎に入りドアを閉める。そこも手を付けられないほど乱暴に荒らされていた。引き倒されているマホガニーのチェストをどけ、壁の前に立つ。掛けられた絵画の額縁をずらし、燭台を内側へ倒す。鈍い音とともに壁の一部が開いた。どうやらここだけは無事だったようだ。中の扉を開き、宝飾品はよけて金貨の入った袋を身に着ける。だが、そこでユキの気力が尽きた。倒れた椅子を起こしてそれに座ったまま、ユキはそれ以上何も出来なかった。


 父もいない。


 母もいない。


 おば様も、もういない。


 広すぎる館が、急に知らない場所になっていた。


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