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第2話 出航前夜


「召使から聞いたんだけど、また朝を抜いたんですって? 商人は身体が元手なのよ。でもね、商人は荷で生きるだけじゃないの」

「…………」

「最後に貴方を救うのは荷じゃないわ。人なのよ」


 ラウラの話がどこまで通じているのか、ユキは話題を変えた。


「胡椒だけじゃ厳しいわね」

「……ユキ、これはどうかしら?」

「これって……」

「ベンダーのバルクから届いた毛皮の相場表よ」

「…………」


  確かにラウラ家ではベネチア交易の現状を打開しようと、何度か東方の国々と交易を試しているのだ。そのルートを確実なものにしようとする試みは理解出来る。


「お父様も言っていました。争いがある限り、火器の需要は無くならないと。ですが、今すぐ動くつもりはありません」

「…………」

「その前にまだまだやる事が残っています。なにも心配いりませんよ。地中海も初めてではないのですから」


 だがラウラは心配だった。黒海を出て地中海を横切り、北の海の商人たちとの交易を目指す航海は長い。独身のラウラはユキを養子に迎えてから、商人としての基礎をみっちり教え込んで来た。正攻法だけでは無い、生き馬の目を抜くビジネス界で、敵を出し抜くあらゆる策を授けてきた。すでにラウラ家の後を継ぐのはユキだと決めていたのだ。そのユキに万一の事があったら……


「十四で帳簿を抱えて泣いていた子が、十六で値切りを覚えて、今度は大西洋?」


 ラウラはため息をついた。


「地中海でも十分……私は貴女を商人にしたかったのよ」

「私は商人です」

「……冒険家なのかと思ったわ」


 ラウラ家の命運は、他の商人たちと同じく常に航海の成否に懸かっていた。無事交易を終えて帰れば財を築け、海難事故や海賊に襲われて帰れなければ破産する。


「利益が減れば皆必死になる。ただの海賊だけじゃない、国が認めた海賊まで出て来るのよ」


 外海に出れば、海賊だけではない。王や諸侯から許可状を受け、敵国の船を襲う私掠船までいる。何とか護衛の手立てを考えなければ……

 ラウラ家の交易船パルパテチオ号の船べりに立つユキ。この船の甲板は、幼い頃から走り回った場所だった。父に羅針盤を教わったのも、初めて交易を任されたのも、この船だった。既に乗組員を指揮するまでに成長したユキの羽織袴は船仕事のための服だった。裾は脚をさばきやすく、遠目には女物にも男物にも見える。港の男達が珍しそうに視線を向けても、ユキは慣れたものだった。

 出航を控えた船では、最後にユキの好きな野菜や果物と水を積み込んでいるところだ。

 ユキは水夫頭に声を掛けた。


「マラト、水はもう運び終わったの?」

「まだあと10樽来ます」


 その時、港の酒場から飛び交う怒号が聞こえてきた。

 慌ただしい兵士達が行き交っている。

 倉庫前からは何やら言い争いも聞こえて来る。


「また増税だ!」

「俺たちだけが搾り取られるのか!」

「兵隊を呼べ!」


 その様子を見ていたユキが視線を移した先には、男達に混じって、一人だけ見覚えのある男がいた。館で何度か見た男だった。ラウラと商談をしていた商人だ。

 なぜか胸騒ぎだけが残った。ユキは一瞬眉をひそめたが、そのまま視線を戻した。


「…………」


 ユキはその胸騒ぎを振り払うように、マラトへ視線を戻したのだ。


「樽材は大丈夫、中抜きなんかしてないでしょうね」

「ユキ様、わしが見ています」

「お父様が言ってたの。長い航海ほど樽を惜しむなって」


 水夫頭のマラトはユキが信頼している乗員のひとりである。


「野菜は?」

「野菜はもう全部運び終わりました」

「野菜は多めに積まなきゃ駄目よ」

「そんなに積むんですか?」

「長い航海では身体が弱って歯が抜ける者が出るの。お父様は野菜を減らすなって言っていた」

「野菜で防げるんですか?」

「理由は分からないわ。でも、お父様は長く海に出るほど積めって言っていたわ」


 ユキは父の言葉だけを頼りに、保存野菜と梅干しだけは決して減らさなかった。


「それと梅干しも忘れないで」

「あの酸っぱい実ですか?」


 マラトが口をすぼめた。傍に居た水夫達も顔を見合わせた。


「酸っぱいだけの実に、そこまで意味があるんですか?」


 ユキは肩をすくめる。


「知らないわ。でも、お父様は長い航海になるほど絶対に外さなかったの。『これを積まない船には乗りたくない』って笑ってたわ」

「…………」


 ユキがこの日出航しようとしている港はモルダヴィア公国の重要な港町で、大貴族のモルダヴィア公が統治をしていたが、貴族間で紛争が絶えなかった。火種はくすぶり続け、ついにこの日、暴動に発展する。税の引き上げに不満を持つ商人と貴族の私兵が衝突していた。オスマンへの貢納増加を埋めるため、モルダヴィア公は港税を引き上げていた。貴族達はさらに私腹を肥やし、その怒りが港の商人や船乗り達に向けられていたのだ。


 最後の水を積み込んでいたその時、ユキは船べりから見上げる丘の中腹に立ち上る煙を見た。

 酒場の戸が勢いよく開き、頭から血を流した船乗りが二人転がり出た。

 兵士達は走っていたが、誰も止められない。

 丘の方から、血相を変えた使用人が転がるように駆けて来た。

 使用人の顔色を見た瞬間、背筋が冷えた。


「ユキ様、館が――!」

「おば様……」


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